さかいに架かる橋(5) 神明橋

 

■神明橋

堺に架かる橋と、その橋や周辺にある史跡などを紹介してくシリーズの第5話は「神明橋」です。
神明橋は江川橋を北端とする公園化された内川緑道の南端にあたります。内川緑道はここで終わり、神明橋より南からは、空堀から水をたたえた環濠へと姿を変えます。

 

▲神明橋西詰より東に向けて。1区画向こうから道幅が広くなっています。

 

橋の名前の神明橋は、言うまでもなく橋のある町名の神明町にちなみます。さらにちなみに言うと、神明町の町名は、かつて町内に神明神社があったことにちなみます。神明神社とは、伊勢神宮内宮を総本社とし、天照大神を祀っている神社で、全国で4000~5000社もある、なかなか人気の神社です。
ついでのことながら、現在南海本線堺駅南口すぐにある神明神社は、神明町にあった神明神社を移転したものではなく、別に勧請されたもので「堺のお伊勢さん」として知られています。

 

▲現在の神明橋の欄干。少しピンクがかった石造りで、なかなかおしゃれではないでしょうか?

 

さて、神明橋自体は、旧市街区を東西に貫妙に幅広い道路にあるがっしりした橋で、少し前までは内川橋などと同じく昭和初期に作られた石造りの風格のある欄干がかかっていました。近年整備工事で欄干は新しく瀟洒な印象になりましたが、以前の欄干の風情をちょっと意識しているように思えます。そして、今回紹介する周辺スポットは、古い欄干にまつわる史跡です。

 

■戦災史跡「神明橋の高欄」

 

▲戦災史跡「神明橋の欄干」。モルタルでの修復が痛々しく感じます。説明文は日本語だけでなく、英語、ハングル、中国語で書かれているのもGJですね。橋の近くには日本語学校があり、生徒さんが岸辺でおしゃべりされている様子もよく見ます。史跡に気づいてくれているかな?

 

神明橋から環濠の西岸に降りると、その史跡はすぐに見つかります。整備前の昭和初期の欄干の一部が切り取られ置かれているのです。すぐ横には欄干について以下の説明文が掲示してあります。

神明橋の高欄
神明橋は昭和10年(1935)に架けられた石造りの高欄(手すり)をもつ橋でした。(中略)昭和20年(1945)の堺大空襲で被災し戦火を受け、石が劣化していたので、モルタルで補修されました。この橋には、戦争の悲惨な歴史も刻まれています。改修工事に伴い高欄が付け替えられることとなりましたが、旧環濠にかかる橋の歴史を後世に伝えるために保存します。

これまで紹介してきたように、このエリアは明治時代以降工場の多いエリアで、戦時中には軍需工場が多く、それゆえに堺は爆撃の標的ともなったのでした。この神明橋の左右は不自然に道幅が広いのですが、これは空爆による火災の影響を減らすために建物を壊して道幅を広げる「建物疎開」の名残のように思えます。神明橋より北のエリアは、戦災を免れて古い町並みがある程度残っています。「建物疎開」で道幅を広げた効果が多少はあったのかもしれませんね。

 

神明橋


 

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