さかいに架かる橋(4) 海山橋

 

■海山橋

 

堺に架かる橋と、その橋や周辺のあれこれを紹介してくシリーズの第4話は「海山橋」です。
大きな道路からも外れた工場と住宅の入り混じったエリアにあり、整備事業によって内川緑道となった空堀の上に架かっているとあって、環濠の橋の中でも地味な印象がぬぐえません。ですが、ちょっと侮れない橋でもあるのです。

 

▲内川緑道を内川橋から海山橋へ向かう。江川橋から内川橋の区間に比べると、やや閑散としています。

 

一つ目。まず橋の名前に注目してみましょう。「海山」と書いて「かいさん」と読むのですが、これは堺が次第に陸化していった歴史を体現している名前です。前回の記事「内川橋」でも紹介しましたが、江戸時代以前の中世堺の頃は、この内川の東側が陸で、西側が海でした。それが大阪湾の海流の影響で土砂が海底にたまっていき、江戸時代初期の1600年代中頃には多くの砂州が盛り上がっていき、「一夜にして海から山が出現した」といった話も伝わっていたりするのです。

さらに1704年に付け替え工事で、大和川の川筋が今のルートになって、直接堺の海に注ぐようになると陸化は加速し、新地が開けていきます。すっかり陸化してしまうと、船が輸送のメインだったこの時代には不便なことになります。もとの海岸線に沿って堀が穿たれ、内川が誕生します。かつては海岸沿いに、その後は内川沿いに水運に必要不可欠な倉庫が立ち並びます。さらに明治時代になって近代化を迎えると、工場が立ち並ぶことになります。海が近く水路があり、広くて平たい土地のに恵まれた新地は、近代工場を建てるのに絶好の立地でした。

 

▲スロープのむこうに海山橋。江戸時代にはこの両岸に納屋が建ち並んでいたのでしょう。

今、海山橋周辺には大き目の工場が多く、特に内川より西側のかつての新地エリアは町の区画も広くて、東側の路地が毛細血管のように張り巡らされたちまちまとした町割りとは好対照です。

 

■たこ市場

▲ひっそりと立つ「たこ市場」の標識。

 

二つ目。橋の東側のたもとに、二つの柱が立っています。一つは「海山橋」と彫られた年代物の石柱。もう一つはより小ぶりな白いペンキのはげかけたもので、「たこ市場」と表示されています。
「たこ市場」? なかなかインパクトのある名前ですが、周辺には市場らしきものはありません。良く見てみると、柱の横には、「明治の終わり頃まで夏期は例日午後三時頃から夕景にかけて魚市が開かれていた」と簡単な説明書きがあります。

実はこの「たこ市場」、歴史は随分古いもののようなのです。堺市のウェブサイトによると江戸時代後期の1796年に出版された堺・泉州地方の観光案内「和泉名所図会」には、「堺浦魚市」として、以下の記述があるそうです。
「和泉の浦々・紀の海よりも漁舟を漕き来って、ここにて市店を餝る。螺ほら貝がいをふいて市の始まりを知らせ、買う者多く出で来って、また難波・京師へ運送す」
古い堺の町は、大小路を堺に南北の区別があったのですが、北荘は柳之町浜に、南荘は紺屋町浜に魚市がおかれていました。北の魚市は海船浜の市と呼ばれて、たこの販売が多く「蛸市」とも呼ばれたとか。これが、海山橋のたもとの標識「たこ市場」で間違いないでしょう。夏には夜市もあったとのことで、鎌倉時代から現代に続く「大魚夜市」とも重なるように思えます。

なお、紺屋町浜にあった南の魚市は、新地が開発されると浜手の方に移っていったとのことですが、これはひょっとしたら今南海本線堺駅と大浜公園の間にある魚市場へとつながっているのではないでしょうか? こちらの魚市も興味深そうです。

 

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海山橋

 

参考資料:堺市ウェブサイト「観光・歴史・文化」より

 


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