アルフォンス・ムハ モラヴィアン・ドリーム! @堺アルフォンス・ミュシャ館レビュー(2)
前回に引き続き、堺アルフォンス・ミュシャ館で2023年8月より開催中の「アルフォンス・ムハ モラヴィアン・ドリーム!」展のレビューをお届けします。案内は企画を担当された原田ゆりさんです。
日本で良く知られているミュシャは、彼が時代の寵児となったパリ、フランスでの呼び名で、彼の故郷チェコではムハと発音します。企画展に沿って、今回の記事では彼のことをムハと呼ぶことにしています。
さて、故郷チェコのモラヴィア地方よりパリに出てきたムハには、二つの青雲の志を持っていました。一つは歴史画家となる夢、もう一つは故郷チェコの独立です。チェコ人であることをアイデンティティとしていたムハは、ヨーロッパ中から画家が集まってくるパリにおいて、故郷の民族衣装を普段着としているほどでした。
しかし、そんな彼がポスターデザイナーとして一躍有名となると、雑誌や新聞はムハの出自を、ハンガリー人であるとか、ロマ、タタール人であるとか、適当なことを書きたてたのでした。これはムハにとってはショックなことでした。
■パリで見るチェコの夢
原田「ショックを受けたムハは、女優サラ・ベルナールに、自分がチェコ人であることを証言してほしいと頼みます。サラは展覧会の紹介文で、ムハはチェコ人であると一文を書いたのです」
――これですね。「アルフォンス・ミュシャは、生まれや血筋によってだけでなく、その感情、信念、愛国心によっても、純粋なスラヴ人であり、モラヴィア出身のチェコ人です。 サラ・ベルナール」これは短いけれど端的で、ムハがいかなる人なのかを理解していないと書けない一文ですね。サラがいかなる人なのかも示していて、いい紹介文です。
原田「サラにとっても、その頃50歳を過ぎていて、また新たな自分のイメージ像というものをムハが確立させてくれたということはとても大きなことでした」
――サラがムハを見出したというのはよく言われることですけれど、ムハがサラに与えた影響も大きかったんですね。
原田「そうだと思います。サラは舞台人ですが、芸術家でもあった。絵も描くし、彫刻も作っています」
――なるほど。二人は共鳴して高め合う芸術家同士だったんですね。二人のバックボーンも含めてとても興味深いです。
さて、ムハは、どうしてここまでスラブ民族チェコ人であることにこだわったのか。それを理解するために、当時の時代背景について触れてみましょう。
19世紀のチェコは、オーストリア・ハンガリー二重帝国の一地方でした。オーストリア・ハンガリー二重帝国とは、ちょっと不思議な国名ですが、9世紀から19世紀にかけての1000年間もの間、ヨーロッパの中部から東部を領有した神聖ローマ帝国をルーツにもちます。フランス革命後、ヨーロッパでは民族独立の機運が高まり、ナポレオンに解体された神聖ローマ帝国はオーストリア帝国となって命脈を保とうとしますが、国内の民族主義を抑えるのに苦労し、支配民族であるドイツ民族に次ぐ勢力であるハンガリー人を取り込むことで生まれたのが、オーストリア・ハンガリー二重帝国というわけです。
チェコやスラブ民族は、この神聖ローマ帝国~オーストリア帝国や、アジアのオスマントルコ帝国、あるいは東地中海の覇者ビザンツ帝国の狭間にあって苦渋の歴史を歩んでおり、民族自決と独立は待ったなしの状況だったのです。
閑話休題。
原田「19世紀という時代背景もあって、みんながチェコ独立を願う中で育ったムハにとっては、チェコ人であることをアイデンティティにしているのは、ごく自然なことだったのでしょう」
――そういう時代にあって、ユダヤ人のサラにしてみれば、同じくパリで芸術に取り組む異邦人ムハの気持ちはわが身に置き換えて共感できたようにも思えますね。パリの雑誌や新聞が興味本位で書きたてたのは、今なら無意識の小さな差別、マイクロアグレッションにあたるでしょう。
原田「無意識のうちに差別的なことはあったかもしれませんが、作風に対していえば、『ジスモンダ』は、もちろん舞台が15世紀のアテネ公国が舞台になっているというのがあるからこそですが、ムハの描いたポスターにモザイク模様が取り入れられているのですが、それまでのポスターにはこうしたモザイク模様というのはなかなかありませんでした。また文字無しのポスターとして制作された室内用の装飾パネルに描かれた女性の衣服にはよくよく見ると実はチェコの刺繍があったりします。パリではなかなか見ないもので、エキゾチックなもので、それがむしろ流行として通っていた時代でした。異国的な装飾や、ギリシャ由来、ビザンツ由来の装飾というものが目をひいて、おそらくそれがロマだとか、ハンガリー人ではないかというところにつながったのではないでしょうか」
――なるほど、異国趣味が流行していたという、パリのトレンドがあったんですね。とはいえ、パリのメディアは褒められたものじゃないですが。
原田「異国趣味でいうと、シェイクスピアのハムレットのポスターにもケルト装飾が用いられています。このケルト装飾に関しては研究者の間でも色んな解釈がなされています。でも、お芝居に関しては、ムハは自分も舞台に関わっていたこともあり、作品の舞台設定をベースにしっかりとやっているなと思います」
――時代のトレンドを取り入れながら、そしてあくまでも作品主体だけど、パリ時代に絵が彼ら様々な作品の中に、ムハのチェコへの想いを垣間見ることが出来ますね。
原田「売り物ではなく描かれた作品がこちらの「瞑想」です。衣装やベンチの模様、落ちている指輪などからスラヴ神話の一場面ではないかと思われます」
――この絵は完全に初めて見ます。
原田「大作なんですが、なかなかご紹介しづらい作品ではありますね。画家としての表現を模索していたのでしょう。売れっ子だった1896年ごろパリで描かれたものです」
――ムハはパリ時代には、まったく絵画なんて書いてなかったと思ってましたが、違ってたんですね。
原田「本当に忙しい仕事の合間を縫って描かれたのでしょう。題材としても、チェコやスラヴが取り上げられているように思います」
――これまでパリ万博と取材旅行によって、ムハはチェコやスラヴに目覚めたと捉えていましたが、そうした想いは本当に地下水脈のようにムハの中には流れていたことがわかります。
原田「そうなんです。この『瞑想』もそうですが、ムハは自分の作品についての言葉をあまり残してなくて、モチーフなどから推測して解釈していくしかありません。そんな中、ムハが言葉を残している作品がいくつかあります。芸術をモチーフにした四連作『四芸術』があって、その『詩』と『音楽』には、幼少期だとか、チェコの風景を思い出して、センチメンタルな感情的になってたのかなと思わせます」
――『音楽』には、こう言葉が添えられてますね。「ほんのりとした月におおわれた夏の夕暮れ時、聞こえるのはナイチンゲールのさえずりだけではない。楽しい音楽も聞こえる。遠い遠い過去から、魂の記憶が再びよびさまされるようだ」。
原田「ナイチンゲールは、ヨーロッパでは美しい声で鳴く鳥として知られているのですが、その鳥をキーとして、楽しい音楽というのがモラヴィアの民族衣装を着た祝祭日の音楽だったのかなとか、遠い遠い過去というのが、彼自身の過去なのか、人類の過去なのかはわかりませんが、魂の記憶というのは、もしかしたらチェコやモラヴィアで過ごしていた青年期までの記憶ではなかったのかなと思えるのです」
――ちょっと感傷的になっている。
原田「息子さんが言うのは、基本的にすごく楽観的な父だったから、来た仕事来た仕事、すぐできると思って引き受けて、楽しんでいる部分もあったそうなのですが、やはりこの時期にこういう言葉を残しているというのは、忙殺される中で、ふと故郷を思う所があったのかなと。
――心の奥底の郷愁がにじみ出てきた感じですね。
■覚醒
――二つ目の展示室は、「覚醒のパリ万国博覧会」。実際の民族衣装も飾られているのが目を引きますね。パリ万博のために南スラヴへの取材旅行がきっかけとなって、チェコやスラヴへの想いが吹きだして、夢が次の段階へと進んだということでしょうか。
原田「1900年のパリ万国博覧会で、スラヴ文化を紹介した唯一の施設がボスニアヘルツェゴビナ館で、パリで活躍するスラヴ民族のムハに白羽の矢が立ちました。こちらのパネルに掲示しているのは、後年になってになりますけれど、ムハの言葉になります」
――こちらの言葉ですね。「1900年、まだパリにいた頃、わたしは決意したんだ。民族を自覚するような感覚を生み出し、強めることができるような、そんな作品の制作に後半生を捧げようとね。」
原田「ボスニアヘルツェゴビナは、オスマントルコ帝国の施政下から、チェコと同じくオーストリア・ハンガリー二重帝国の施政下にありました。ここも複雑な歴史で、後には1990年代にユーゴスラヴィア紛争の舞台となりますが、同じスラヴ民族としてムハはチェコと近いと感じて、ボスニアの歴史を描いたことで、スラヴ民族全体の歴史を描きたいと思うようになります。そうなると、またどんどん作品にチェコの要素が入ってくるようになります」
――こちらの展示、『装飾人物集』は、ムハが出版した装飾のお手本集ですよね。今でいえば素材集ですか。
原田「これもフランスで販売されたのですけれども、40枚のうち15枚はスラヴの民族衣装を着た女性が描かれています。パリで発売されるものでありながら、もうムハの意識はチェコに向かっていたし、《スラヴ叙事詩》へ向かっていました。でも、モノクロだからこそ、そのスケッチの細やかさが良くわかります」
原田「刺繍だったり、帽子の装飾の細かさだったり、本当に良く描かれています。ただイメージで描いているのではなくて、自分で収集したモラヴィア地方の民族衣装を参考にして描いています。こちらの『百合の中の聖母』は下絵なので、そこまで民族衣装の刺繍はっきりとは描かれていませんが、完成品ではもっとはっきり描かれています」
――これで下絵! すごいレベルですけどね。
原田「こうしたスラヴの意匠をモチーフに取り入れた作品が《スラヴ叙事詩》に向けて増えていくのですが、ボスニアヘルツェゴビナへの取材旅行ともう一つ大きなきっかけになったものがあります。それは1902年に、彫刻家で友人のロダンと一緒にチェコのプラハに行ったことです」
――ロダンと友人だったことは、良く知られていますね。
原田「10歳ぐらい年が離れているんですけれど、ロダンがプラハで展覧会をすることになって、君の故郷じゃないか、一緒に行かないかということになったんです」
――ロダン、いい友達ですね。
原田「ムハもチェコに帰る時間が取れたんです。そこですでに巨匠として知られているロダンと、チェコから出てパリで活躍するムハが帰って来たということで、スラヴ民族の皆さんが、お祭りの時期と重なったということもあり、すごくお祝いというか、歓迎するんです。この時吸収したチェコ文化、チェコの衣装などが、作品制作に勢いをつけていったんです」
――それで今回、ミュシャコレクションの目玉の一つ、ウミロフミラーにチェコの衣装が映りこんでいるんですね。
原田「民族衣装は国立民族学博物館からお借りしてきたものですが、この文脈の中でウミロフミラーが生きてくるというか。ウミロフはチェコ出身でアメリカを拠点に活躍していたオペラ歌手で、そのウミロフのために作ったのがウミロフミラーです。作品の主人公と思わしき少女が着ているのはモラヴィア地方の民族衣装です。彼女の表情っていうのが、いつも不思議なんです。自分の気持ちによって見え方が違うのかなっていつも思うんですけれど、はにかんでいるようにも、緊張しているようにも、何かを決意したようにも見えてきます。そのように依頼されたのかはわかりませんけれど、ちょうどチェコに戻っていく直前の作品でもあるので、何か自分を鼓舞するような意図があったのかなと思うんです」
――なるほどね。毎回、堺アルフォンス・ミュシャ館の展覧会を取材するたびに、ウミロフミラーって何なんだろうっていうお話をするんですけれど、また一つ切り口があったという感じですね。こうしてみると、民族衣装も本当に綺麗で映えますね。
原田「はい。ウミロフミラーの少女の衣装とちょっと近い色合いのものをお借りしてきたモラヴィア地方のものです。やはりプラハの地域とか、ボヘミア地方とかよりも、かなり色合いとか刺繍とかが華やかです」
――まさにモラヴィアンドリーム。チェコへの想いがつのっていきます。
原田「それで、こちらがチェコでの最初の大きな仕事になります」
――この作品も見るのは初めてですね。
原田「そうですか。これはプラハ市民会館・市長の間の天井画で、壁画を飾るような歴史画家を志していたムハがこうした公共施設で描けたのは大きな成果だったと思います」
――これは今でもあるんですか?
原田「はい。この市長の間の部屋の中全部、ムハが手掛けています。ググっていただければ、見れると思いますよ」
――では、これ自体は複製品ですよね。
原田「あ、これはプラハから送っていただいた画像から作ったものです。完成品の一歩手前ぐらいの下絵というか」
――相変わらず、下絵とは思えないクオリティですね。
パリ時代に覚醒したチェコへの夢。この切り口で見た時、これまで見てきた作品もまた違って見えてきます。また、あまり展示されてこなかった作品と出会えるのも今回の企画展の魅力といえましょう。
そして、次回はいよいよ人形作家林由未さんとのコラボレーションの部屋へと移ります。お楽しみに。
(→第三回へ続く)
●アルフォンス・ムハ モラヴィアン・ドリーム!
会期:2023/08/05(土) 〜 2023/11/26(日) 9:30~17:15(入館は16:30まで)
休館日:月曜日(休日の場合は開館)、休日の翌日(9月19日、10月10日、11月24日)、 展示替臨時休館日(10月3日、10月4日)
●堺アルフォンス・ミュシャ館
〒590-0014 堺市堺区田出井町1-2-200 ベルマージュ堺弐番館2F~4F
TEL: 072-222-5533 FAX: 072-222-6833
web:https://mucha.sakai-bunshin.com/