ミュージアム

企画展「堺敷物ものがたり」@堺市博物館(3)

 

堺市博物館で開催されている企画展「堺敷物ものがたり」は、堺の伝統工芸である堺緞通を起点に、堺の敷物産業へと視野を広げた意欲的な企画展です。江戸時代にはじまった堺緞通は、消費者のニーズに合わせて柔軟に対応するもので、幕末から明治にかけて活躍した「緞通王」藤本荘太郎のプロモーションや新技術の開発により発展し、海外でも人気を博すまでになったのでした。(第一回第二回
しかし、堺緞通は絶頂を迎えたあと下り坂となっていきます。第三回の記事では、明治後の堺緞通の歴史を見ていくことにしましょう。

 

■高級志向の堺緞通へ

▲佐賀の青木家に伝わっていた堺緞通蜀江花文(しょっこうかもん)。表面はすっかり色あせていますが、それだけ使い込まれていたということでしょう。

 

――堺緞通の突然の凋落はなぜ始まったのでしょうか。
堀川「堺緞通のピークは1895年(明治28年)頃で、117万畳もの緞通が輸出されていました。しかし1897年(明治30年)にアメリカが関税が引き上げを行い、これによって業者の数が1/3にまで減ってしまいます」
――大打撃ですね。それで堺緞通は一気に消滅してしまったのでしょうか。
堀川「国内向けには、羊毛で作った高級志向の堺緞通が作られています。その背景には、1923年(大正12年)に起きた関東大震災があります。震災の復興で火災に強いコンクリート製の建物が建てられるようになり、足元の敷物として羊毛の堺緞通が納められたのです」
――それでこちらの展示では、大正から昭和にかけての堺緞通が紹介されているのですね。
堀川「こちらは佐賀藩のガラス製造の技師長を務めた青木家に伝わっていた堺緞通です。鍋島緞通の本場である佐賀の人が堺緞通を愛用していたというのが興味深いですね」

 

▲伝統の蟹牡丹文をアールヌーヴォー風にアレンジした堺緞通。

 

――こちらの緞通は柄が大きくとられていて、幾何学紋様の繰り返しとは趣が違いますね。
堀川「伝統的な蟹牡丹文をアールヌーヴォー風にデザインしたものです。おしゃれですよね。緞通のデザインは、図案家がデザインをつくり、紋紙屋(もんがみや)が方眼紙に落とした紋図(もんず)を作成して、織元へと支給されました」
――現代のプロダクトデザインと変わらない感じで、ここでも様々な人が関わっていて、分業制が成立していたのが堺らしいですね。
堀川「99才になる織子をしていたおばあさんのお話を伺ったのですが、『ペルシャも中国も、鍋島もなんでも作った』とおっしゃっていました。昭和40年代には中国の天津緞通のような重厚な緞通がはやりました。こちらの展示品は戦後の天津緞通風の堺緞通で、手織りをした上で、模様の縁にそってパイル糸をカットするカービング技法が用いられています」
――藤本荘太郎以後も堺緞通は国内の需要に合わせて進化していたことがわかって面白いですね

■堺緞通、絶滅の危機!

 

▲名人辻林峯太郎の作品。辻林峯太郎は堺緞通にデザインではなくアートを持ち込んだのではないでしょうか。

しかし、戦後になって機械化がさらに進むと手織りの堺緞通の限界が見えてきたようです。最後の名人といわれた辻林峯太郎は、堺市深井清水町の撚糸業の家に生まれ、堺緞通の衰退に危機感を覚え、そんな中でも製織を続けていました。

堀川「こちらが辻林峯太郎の作品です」
――これはまた絵画的な作品ですね! デザインというよりもアート。芸術作品の趣があります。これまで見てきた堺緞通の世界に芸術革命が起きたんじゃないですか。
堀川「素材にはモヘア(アンゴラ山羊の毛)が使われており、高級志向の作品といえます。大阪万博が開催された1970年(昭和45年)に辻林峯太郎を紹介した記事の中で、『絶滅寸前の堺だんつう』とまで言われていました。その後、亡くなる寸前の1992年に堺緞通を継承するための教室が開かれてぎりぎり間に合ったんです。現在は5人の方が技術を受け継ぎ、堺式手織緞通技術保存協会と大阪刑務所の作業訓練として堺緞通は継承されています」

 

▲辻林峯太郎の技術を継承した方による作品。彩りやデザインがポップな印象。

――展示されている辻林峯太郎の技術を継承された5人の方の作品は、堺緞通の柄としては蟹牡丹などの流れをくみながらも、幾何学紋様が入ったり色使いが鮮やかだったりして面白いですね。
堀川「企画展お後期(8/31~)は別の方の作品を展示しますので、それも楽しみにしてください」
――以前、大阪刑務所の取材にも行きましたが、産業ではなくなった事で、コストパフォーマンスの制約がなくなり、製作時間をじっくりとかけられるようになったこともあり、より精密に独自の進化を遂げていて驚きました。
堀川「こちらが大阪刑務所の受刑者が作業訓練で製作した堺緞通です(トップ画像)。写真に方眼を書き入れたものを紋図として使用しています。空を飛ぶタカを描いていますが、仕上げ時のパイルカットで、タカのはばたきが巻き起こす風の様子を表現しているところに注目してください」
――これはすごい! これも完全に絵画作品ですね。辻林峯太郎の持ち込んだ芸術性が脈打ってるように思います。しかも、お値段がそんなに高くないんですよね。労力からいっても、芸術性からいっても、もっといい値段をつけたらいいのにって思うんですけれど。
堀川「ところが、あくまでも刑務所作業製品ということなので、高く売ることは出来ないんです」
--それは残念なような。ほしい方には嬉しいような(笑)

辻林峯太郎さんが培った技術や緞通に導入した芸術性といったものが、受け継がれ発展しているということがよくわかりました。このように堺緞通は堺式手織緞通技術保存協会と大阪刑務所でのみ生き残り、産業としての役割は終えているということは、以前の取材でも明らかになっていたことです。まさに博物館のショーケースの中に入れて終わり。
しかし、今回の企画展がひと味違うのは、別の視点を持ち込んだことです。たしかに堺緞通は産業としての役割は終えている。しかし、堺緞通が一時代を築いたことで、堺には敷物産業が生まれ、それは現在もなお生き続けているのだということです。それが今回の企画展のタイトル『堺敷物ものがたり』に現れていました。
次回の記事では、堺の敷物産業に迫ります。

企画展のYouTube URLはこちらから
https://youtu.be/-NHtVHywfx0

堺市博物館
住所:堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁大山公園内

 


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