伝統/ 工芸

土居川にかかる幻の橋(2)

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※岡村橋。南の三蔵橋から撮影か?(堺市中央図書館蔵)
堺の旧市街区の四方をぐるりと囲んでいた環濠のうち、北と東の堀は失われてしましました。昭和40年代に阪神高速堺線の工事に伴い土居川は暗渠になり、そこにかかる橋は撤去されてしまったのです。
撤去されながらも、極楽橋のように場所を移し土居川公園のオブジェのようになった橋もありますが、親柱だけが元の位置近くに保存された橋もありました。そのひとつが岡村橋です。
堺メモリー倶楽部の小松清生さんたちと錦之町にある浄得寺を訪れ、前住職の松井一覺さんと資料を見比べながら話をするうちに、岡村橋を渡った土居川の東側に岡村香油製造所があったことがわかってきました。岡村香油製造所の岡村平兵衛さんは、ハンセン病の特効薬として大風子油(だいふうしゆ)の製造販売を行い、キリスト教の教会を建てるなどして、当時の堺でも指折りの有名人でした。おそらく岡村橋は、この岡村香油製作所へ行く橋として作られたか、岡村さんにちなんで名付けられたかしたのでしょう。(→前篇
後篇では、失われる前の土居川とその周囲の様子に迫ります。
■写真と資料から探る土居川の橋
テーブルの上には、松井さんと堺メモリー倶楽部のメンバーが持ち寄った資料が広げられていました。
モノクロの写真には、土居川の風景が映っています。
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▲「岡村橋」を東側から撮影。

 

資料の中には、岡村橋を三蔵橋から撮った写真、岡村橋を東岸から撮ったこの写真がありました。小松さんが2009年に浅卯昆布の浅井勇さんにいただいたものです。
写真を見ると、今も道路脇に残された「をかむらばし」と刻んだ親柱と同じものが写っています。向かって右側の親柱だったようです。左側の親柱は「岡村橋」と漢字で刻まれています。この写真には、かつてあったという手すりも無くなっているようです。
他の写真も見ていくと、三蔵橋の写真には、橋の欄干に塔のようなものが写っています。
――この塔みたいなものはなんですか?
松井「橋の飾りやね。コンクリート製で高さは1mぐらいかな。そういうのをつけるのが流行った。でも土居川の橋で立派な橋となると、極楽橋と扇橋ぐらいやったね」
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▲左上の資料写真には、三蔵橋の欄干に作った塔が見える。

 

あの極楽橋が土居川公園に残っているのはどういう経緯があったのでしょうか。これは松井さんによると、こういうわけだったようです。
撤去されたあとしばらく橋の石材が積み上げられていました。それが邪魔だということになって、市役所の公園課あたりが土居川公園に橋として組み建てたらしいとのこと。どうやら計画的に移設したとかではなさそうです。今だと考えられないような、行き当たりばったりなお話でした。
■土居川付近のまちの様子
では、当時の土居川はどんな姿をしていたのでしょうか。
古い写真を見ると、土居川の側面は石垣になっており、川岸は畑か野原のようになっています。
松井「土居川に面している所は家が建てられている所もあれば、家がない所もあったよ」
丁度、今は歩道になっているあたりでしょうか。堺市史から転載された資料をみると、土居川の川幅は10間(19m)、道路があって土居(盛り土)があって、さらに干場、農家という断面図になっていますが、そもそも川幅は10間もなさそうですし、土居も見当たりません。長い年月の間に、土居は消え、川は細くなったのかもしれませんね。
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▲岡村橋より北の方角。土居川の川岸の様子がよくわかる。(※堺市中央図書館蔵)

 

松井さんは、さらに周辺の様子を話してくれました。
松井「(東から)農家は背中合わせに二軒あって、寺町なんやけど、寺町と農家の間に『うらんか』という地図には載っていない細い路地があった」
――『うらんか』というのは今でもあるのですか?
松井「今でもあるよ。(浄得寺の前から)ずっと南までつながっていたけれど、錦小学校が出来たから(そこで途絶えた)。昔は夜になると木戸が閉められたけれど、路地がずっと続いていて、木戸が閉められても路地を通じて町の奥まで行くことが出来たんや」
確かに、今でも旧市街区で整備されていない古い区画だと、私道なのかどうなのか不思議な通り道があったりします。そんな住んでいる人しか知らない抜け道が縦横無尽につながっていた昔の堺は、暮らしている人にとって今よりもずっと広い町、大きな町だったのかもしれませんね。
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▲現在の「うらんか」。

 

松井「その農人町があったのは柳之町までや。錦之町には農人町はなくて、瓦工場があったよ。お寺が多いから、お寺の瓦を造っていた」
文久3年(1863年)の江戸時代の地図を見てみると、土居川沿いの錦之町には「カワラ丁」の文字が見えます。
――今、堺東の市役所のあたりも南瓦町ですよね。それはどうだったのですか?
松井「錦之町のカワラ丁が北瓦丁で、あっちは南瓦丁とゆうたね」
同じ地図を確認すると、大小路から土居川を東にわたったあたりに「瓦丁」の文字が見えます。
――今は堺東の商店街のあたりを北瓦町といいますね。では、綾之町より北の土居川沿いはどうなっていたのですか?
松井「馬屋丁があったね。江戸時代になって、堺のまちの南北に馬をおくように命じられたんや。家一軒に馬一頭飼っていた。綾之町には与力屋敷があったけれど、湿気が強くて役人は住みたがらなかったみたいやね」
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▲松井一覺さん(左)と小松清生さん(右)。

 

松井さんに聞くと、堺の古い事はなんでも答えてくれそうです。この際なので、みんなが疑問に思っていたことを聞いてみました。
――三蔵橋の交差点に「つんぼ井戸地蔵」というのがありますが、なぜ「つんぼ井戸地蔵」というのですか?
松井「井戸があって、井戸の番人の耳が遠かったからつんぼ井とゆうたんや」
――いつ頃の話ですか?
松井「織田信長や豊臣秀吉のころの話やね。いい水が出るというんで、妙國寺で茶会をするときは、つんぼ井戸の水を使ったそうや」
――信長や秀吉もつんぼ井戸の水でたてたお茶を飲んだかもしれないんですね。
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▲聾井戸(つんぼ井戸)の謂われが初めてわかりました。

 

――大小路橋の南に目口筋、目口橋とありますが、なぜ目口橋というのですか?
松井「これは百舌鳥梅町へ通じる道やったから、梅町への入り口で梅口(ウメクチ)が目口(メクチ)になった(芽口とも)。逆にいうと梅町から山之口へ買い物に来るにもよかったわけや」
こうして話をうかがうと、地名の中には昔の人々の生活が折り込まれていたことがわかってきます。昔の地名をたどることで、今生きる自分たちのルーツやアイデンティティを探っていくことにもなるのではないでしょうか。
岡村橋を追うことから、土居川の在りし日の姿、そしてかつての堺の町の様子までが浮かび上がってきました。今回知ったことをさらに深掘りしていきたくなりました。

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