伝統/ 工芸

土居川にかかる幻の橋(1)

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濠がぐるりと取り囲んでいた環濠都市堺。今は北辺と東辺の土居川は埋められ「環濠」も名ばかりとなりました。しかし、かつては高速道路の高架もなく、土居川に隔てられた市街地と農地をいくつもの橋がつなぐ風景があったのでした。
今回のつーる・ど・堺では、かつて土居川にかかっていた橋の中でも、地図にさえ載っていない幻の橋”岡村橋”の探訪をきっかけに、失われた橋の秘密に迫ります。
■土居川に残る橋
「”岡村橋”を見にいきませんか」
と、堺たんけんクラブの小松清生さんに誘われたのが、今回の取材のきっかけです。堺たんけん”岡村橋”なんて橋は初耳です。一体どこにある橋のことなのでしょうか。とりあえずお誘いを受けて、”岡村橋”を見にいくことにしました。
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▲土居川公園にある極楽橋。

 

待ち合わせは土居川公園の極楽橋のたもと。
極楽橋は、現在は土居川公園の片隅にあって橋としての役目を果たしていませんが、かつては土居川にかかっていた石造りの橋です。
この極楽橋で小松さんたち堺メモリー倶楽部のメンバーと合流しましたが、さて肝心の岡村橋は?
「丁度この道の向こうに岡村橋の親柱だけが残っているのです」
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▲道路の植樹帯に「をかむらばし」の親柱が残されていました。

 

高架をくぐって、道の向こうへ渡ると、植え込みの中に石の柱が立っていました。石柱には、
「をかむらばし」
の字が刻んでいるのが見えます。岡村橋は、極楽橋と同様かつて土居川にかかっていた橋なのでした。
この高架下の道は、もう数えきれないぐらい通っていましたが、何かの石碑ぐらいに思っていて、これが橋のパーツだとは知りませんでした。
「極楽橋はもう少し北にあったと思うのです。道の東側にあるお寺、誓願寺さんの二階の窓が特徴的な形をしているのですが、極楽橋の向こうにその窓が写っている写真が錦小学校にあるのです」
と、小松さんは言います。
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▲特徴的な窓の誓源寺と極楽橋が一枚に収まった写真。(錦小学校蔵)

 

土居川が無くなった今、かつての様子はまるで想像できません。一体、”岡村橋”とはどんな橋だったのか、そして土居川やそこにかかる橋はどんな様子だったのか。それを知る前に、まずは土居川の歴史を簡単におさらいしてみましょう。
■土居川の歴史
大坂夏の陣で全焼した堺が再建された元和の町割り(1615年)の時に、土居川はそれまでよりひとまわり外に広く堺を囲むように、南北と東の三方に造られました。
西は海だったのですが、1664年には海に島が出現します。今の戎島です。これは大阪湾の海流が運ぶ砂が堆積した結果でのようです。その後、1704年に大和川が付け替えられると、上流から運ばれる土砂によって、河口に南島町や山本町の新田が広がります。今のザビエル公園あたりにあった港も埋まり、新地を開発しながら何度も港を造りかえています。
そうなると、土居川の水が海に流れ込まなくなるという弊害が出てきたので、かつての海岸線にそって、町の西側にも堀が掘られるようになります。この時に造られたのが内川で、これで東西南北の四方を濠(または堀)で囲まれた近世堺の姿が完成します。
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▲戎島や新地ができたことによって内川は新しく作られた。

 

この土居川も内川も浚渫作業は必要で、当初から手入れは大変だったようですが、平和な時代でも水運のインフラとして便利だったため、戦前まで使われ続けました。
しかし、戦後になって物資の輸送が水上輸送から陸上輸送に代わると、土居川・内川は利用されなくなります。
おりしも、人口増加による生活排水や産業排水によって、土居川・内川は悪臭ただようヘドロの川、生物の棲まない川へと変貌します。
昭和40年代になって、阪神高速堺線が作られた時、東辺と北辺の土居川も埋められてしまいます。土居川にかかる橋が消えたのもこの時でした。
■誰が岡村橋を作ったのか
土居川が埋められ、橋が無くなってから半世紀近くが立ちます。
以前の風景を良く知る人を、堺メモリー倶楽部のメンバーと一緒に訪ねました。
訪問先は、錦之町東にある浄得寺で、前住職の松井一覺さんにお会いすることができました。
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▲資料を広げて語る、浄得寺の松井一覺さん。

 

浄得寺は天平時代の行基ゆかりのお寺で、元和の町割りの時に七道のあたりから今の場所に移ってきたというのですから、400年も土居川をそばで見続けてきたことになります。松井さんは昭和7年生まれの86才で、当然埋められる前の土居川を知っています。土居川を語る上でこれ以上の適任はいらっしゃらないでしょう。
岡村橋はどんな橋だったのでしょうか。
松井「岡村橋というのは、石の板を二枚ならべただけで、幅はそんなになくて、人がぎりぎり行違うことができるぐらいの橋やった。手すりもなかったよ。もう少し北の方に石橋というのがあって、それと同じような橋やった」
どうやら、岡村橋というのは、簡易なつくりの橋のようで、そういった橋がいくつか土居川にはかかっていたようです。
江戸時代も後期の文久3年(1863年)の地図を見ても、極楽橋と三蔵橋らしき橋は描かれていますが、その間の親柱が残されていた位置には岡村橋は描かれていません。
もう1枚戦前の地図を見ると、”岡村橋”らしき橋が見受けられます。そして注目すべきは、丁度その橋の先、土居川の東側には「岡村香油製造所」と書かれていることです。
小松「岡村平兵衛さんという方がいて、平兵衛さんが生きているうちに銅像が建っていたと、汐見や寿子(やすこ)先生(戦中に国民学校の先生をされていた。御年99才)がおっしゃっていました。変わった人だったと」
岡村平兵衛は油で財を成して、自分の銅像を建て、橋も架けたのでしょうか? 作っていたのはやはり堺の名産である菜種油だったのか? そんな疑問が浮かびます。
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▲持ち寄った資料の地図に「岡村橋」と「岡村香油製作所」が見える。
とりあえずその場でスマートフォン片手にインターネットを検索してみると、意外な情報が掲載されていました。
岡村香油製造所では、丁子油と大風子油というものを作っていたのです。丁子油の丁子とはスパイスのクローヴのこと。丁字から作った油は、日本刀の手入れなどに使われていました。刃物の町堺なら需要も多かったことでしょう。そして、大風子油とは何かというと、これはハンセン病の特効薬だというのです。
製油の家に婿養子に入った岡村平兵衛さんは、行き倒れていたハンセン病患者を助けたことをきっかけに、ハンセン病の特効薬である大風子油の存在を知り製造を始めます。そればかりか自宅で患者の救済を行い、その人数は千数百人になったとか。岡村平兵衛はキリスト教会を建てたことで知られるほど熱心なキリスト教信者だったそうで、救済の背景には信仰があったのかもしれません。
大風子油の効果には諸説ありますが、戦後プロミンなどの新しい特効薬が使用されるようになると、急速に使われなくなりました。
いずれにせよ、ここにも知られざる堺の偉人がいたようです。
“岡村橋”を作ったのは誰だったのか、その謎には一歩近づけました。後篇では松井さんに詳しく話しをお聞きします。失われる前の土居川と橋のある風景とは、一体どんなものだったのでしょうか。

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