与謝野晶子

連載第7回 パリ・ムウドンの丘 1

新連載・石田郁代著

オーギュスト・ロダン (1840~1917)

文/写真 石田郁代

「与謝野晶子の百首かるた」より

思出の中にたふとく金色すロダンと在りしアトリエの秋 晶子
(オモヒデノ、ナカニタフトクコンジキス、ロダントアリシ、アトリエノアキ)

『火の鳥』 晶子

 

近代彫刻の父と呼ばれる、フランスの彫刻家オーギュスト・ロダン。
彼の『考える人』像は、知らぬ人がないほど有名だ。そんなロダンと、晶子のかかわりを綴ってみよう。
1900年パリ万国博覧会のアルマ会場で、ロダン特別館が設けられ、展示された彼の作品は一躍世界中の人々の注目を集めた。
この個展により、ロダンの名声は広く世界中に知られ、偉大な、近代彫刻作家として不動の地位を獲得した。
この時の様子を、万国博覧会鑑査官の資格で、文部省の美術取調べをも嘱託され、渡仏した久米圭一郎が『千九百年巴里万国博覧会、臨時博覧会事務局報告下巻』(明治35年3月30日発行)の、各国出品の概説を叙述した第三篇に「仏国現代の美術」として執筆報告をした。

パリ・パンテオンのロダン作『考える人』像 (『明治の彫像』中村傅三郎著より転載)

 

<この記事を、間もなく雑誌『美術新報』が摘録転載しているなかに、ロダンの特別展のことについて紹介しているが、おそらく我が国でロダンの名と芸術を見出し得る最初のものであろう。>(『明治の彫像』中村傅三郎著)
その後、明治43年(1910)11月、武者小路実篤や志賀直哉ら『白樺』同人たちが、ロダン第70回生誕記念号を発行した。
彼らのロダンに対する情熱は、日本の浮世絵と交換に、ロダンの写真を本人より送ってくれるよう、フランスのロダン宛に手紙を書かせた。
すると、折りかえし本人の写真と後便で、ロダン作・3点の彫像が届く。
フランスから贈られたこのロダンの塑像3点は、明治45年(1912)2月16日~25日まで東京・赤坂霊南坂下、三会堂で白樺主催『第4回美術展覧会』が開催されたとき陳列された。
我が国で初めて世界衆目の近代彫刻の作品が、日本人の目にふれるのである。

この少し前、明治44年秋、与謝野寛は西欧に旅立った。
晶子も夫の後を追うが、彼女の出発は明治45年5月5日。だから、その3ヶ月前に開催された前出の美術展で、晶子はロダンの彫像3点を見学しているであろう……と私は推察する。主催者・白樺の有馬生馬は『明星』時代からの友人であり、彫刻家高村光太郎は、与謝野夫妻の愛弟子である。
5月5日、日本を出発した晶子は、ウラジオストック港に入港した。そこからシベリヤ鉄道に乗り、5月19日、恋しい夫の待つパリ北駅に到着する。
二人はモンマルトン・ビクトルマッセ街21番地の下宿に滞在し、パリ市内を散策するなど、たのしい日々を過ごした。(拙稿ホームページ02-06参照)
そんなある朝、
「ロダン翁をたずねよう」
と寛が提案した。それはパリへ到着して約1ヶ月後の6月18日の朝だった。
<私は生れてからまだ世界の偉大と云はれるやうな大きな人格に、まのあたりに接したことが無いので、ロダン翁を尋ねようと良人が言ひ出した朝の私の心は一種の不安と怖えとを感じました>(『ロダン翁に逢った日』)
晶子(34歳)は、歌壇の女王らしくもなく、上記のように自分の気持ちを素直に記述している。
私は、率直に表現するこの晶子が大好きで、とうとう現在のような晶子研究にのめりこんでしまった。
さて、この日の同伴者は、松岡曙村。 彼と夫妻の3人がムウドンの丘を訪れた。
午前中は、フランス現代詩人・アンリィ・ド・レニエ氏宅を訪問、氏と、夫人の女流詩人・ゼラァル・ド・ウヴュ女史にも会った。
そして午後、パリ郊外のムウドンの村にあるロダン邸へと向かった。

 

詩・ ロダンの家の路

与謝野晶子

眞赤な土が照り返す
だらだら坂の二側(ふたかは)に、
アカシヤの樹のつづく路。
あれ、あの森の右の方、
飴色をした屋根と屋根、
あの間から群青を
ちらと抹(なす)ったセエヌ川……
涼しい風が吹いて来る、
マロニエの香と水の香と。
これが日本の畑なら
青い「ぎいす」が鳴くであろ。
黄ばんだ麦(むぎ)と雛罌粟と、
黄金(きん)に交ぜたる朱の赤さ。
誰(た)が挽き捨てた荷車か、
眠い目をして、路ばたに
じっと立ちたる馬の影。
「MAITRE RODIN」(メエトルロダン)の別荘は。」
問ふ2人より、側に立つ
(KIMONO)キモノ姿のわたしをば
不思議と見入る田舎人。
「メエトル・ロダンの別荘は
ただ眞直(まっすぐ)に行きなさい、
木の間から、その庭の
風見車が見えませう。」
巴里から来た3人の
胸は俄かにときめいた。
アカシヤの樹のつづく路。

『定本与謝野晶子全集』第十巻詩集二213頁~2145頁

 

ムウドンの人通りのない田舎の道で、通りがかった農夫にロダンの家をたずねると、彼らはロダンが、ムウドン村に住んでいることを誇りに思い、胸を張って行く道を教えた様子が、上の詩に現れている。
その日、晶子は、夏草を染めた納戸色の絽の着物に、同じ模様の薄青磁色の絽の帯をしめ、空気入りの草履をはいていた。二人の男性の歩幅に合わせて、赤土色の路を歩くのは、さぞ大変だったろう。

「パリへ着いて、はじめて汗をかいた」
と晶子を述懐している。
郊外の日光に直射され、彼女は汗をふきふき、男性におくれまいとロダン邸へと向かった。

今から90年前、フランスの赤土色の道路を苦しそうに歩く晶子の姿をセピア色した映画の1コマのシーンを、私は瞼の中に描いた。
ムウドンの道には、雛罌粟(こくりこ)の花が群れて咲いていた。
ムウドンは、有名なベルサイユ宮殿へ行く方向の郊外で、パリ市内ではもう見られないまっ赤な雛罌粟も、ムウドンへ行けば見られるかもしれない。

また、1912年6月、寛・晶子夫妻が訪れたこのムウドンの丘ロダン邸は、現在、ロダン美術館となり、彼の作品が見学できる。
ロダン夫妻の墓に、彼の作品「考える人」像が置かれている。

 

つーる・ど・堺

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