与謝野晶子

連載第11回 舞姫 1

新連載・石田郁代著

 

京阪四条川端の与謝野寛(左)・晶子(右)歌碑 (平成2年5月4日「みだれ髪の会」建立の15号碑)

 

四条橋おしろい厚き舞姫の額(ぬか)ささやかに打つ夕あられ 晶子

南座の繪看板をは舞姫と日暮れて見るも京のならはし 寛

 

京阪電車四条駅を下車、北出口9号階段を上がった、京都市の四条大橋東詰上る歩道の一画に、上掲の与謝野夫妻の短歌が彫られた立派な歌碑が建っている。
晶子の歌は、処女歌集『みだれ髪』から、寛(ひろし)の歌は、詩歌集『鴉と雨』(大正4年8月1日刊行)から、それぞれ選歌されている。
鴨川(かもがわ)にかかる四条大橋の東詰側に祇園、西詰側に先斗町(ぽんとちょう)があるので、花街をつなぐ大橋は京都市内で最も賑あう華やかな一帯である。東詰の橋のたもとに、歌舞伎が上演される「南座」がある。歌碑は道路をはさんだ北側の、川端に建っている。むかしの「北座」跡という。
碑の裏面に、四条大橋を描いた銅版彫刻(京都教育大学文部技官・浅井路雄氏製作)がはめられ「北座」の由来も書かれている。歌碑全体のデザインは、松崎良太画伯監修による豪華な御影石の歌碑である。
鴨川添いを南北に、もと、京阪電車が走っていたが、線路は地下に埋められ、鴨川東岸線地下鉄が開通した。その開通記念式典の一環として、1990年5月4日に歌碑除幕式が「みだれ髪の会」により、挙行された。

 

歌集『みだれ髪』明治34年8月刊(装幀・挿絵・藤島武二)
(『新潮日本文学アルバム24』より転載)

 

さて、晶子の代表的歌集『みだれ髪』が刊行されたのは、1901(明治34)年8月15日だった。
堺市の生家を1901年6月初旬、家出同然に上京した23歳の鳳志よう(本名)。歌集出版は、その後2カ月目の快挙だった。著者名は鳳晶子(ほうあきこ)。
地方出身の殆ど無名(『明星』誌上で晶子は人気の女流歌人であったが)の娘が上梓した歌集『みだれ髪』399首の短歌は、たちまち日本の文学青年、淑女の心をとらえ、全国に一大旋風を捲き起こした。
四版まで歌集は重版され、(三版より与謝野晶子著となる)当時のベストセラーになった。北では石川啄木が、南では若山牧水、膝元の東京では吉井勇ら中学生が『みだれ髪』を盗み読みする現象がおこるほど…。
今年は、奇しくも『みだれ髪』刊行100年の記念年にあたる。百年もむかしに詠まれた晶子の歌が、平成時代の今も高く評価され、愛誦されるのは何故だろう?
一方、晶子の師である鉄幹の短歌は、晶子ほど伝承されていないのが不思議?鉄幹という名前は、耳につくほど一般に知れわたっているのに…。
100年の今、歌碑の京都の舞姫を詠んだ夫妻の歌を観賞すれば、日本の良き時代のほのぼのした京情緒が味わえる。

 

四条橋おしろい厚き舞姫の額ささやかに打つ夕あられ 晶子

 

冷えこんだ夕方、正装してお座敷に向かう舞妓さんの姿が彷彿とする。冷たいあられが、容赦なく白い衿あしに降りかかる。まるで打つように…。舞姫の胸のうちや如何に?

 

南座の繪看板をは舞姫と日暮れて見るも京のならはし 寛

 

寛(鉄幹は号名)の歌は、男性の着眼での舞姫像だ。舞妓を連れた旦那衆。黒いマントを羽織り金時計をぶら下げている男の姿が私の目に浮かぶ。夕方になれば、舞妓と共に南座の絵看板を眺めるのが、京都の習慣として、明治時代はよく見かけられた光景なのだろう。

 

平成6年12月南座の顔見世興行を観劇する舞妓さん

 

堺市内で、菓子商駿河屋を盛大に営む鳳宗七の三女であった晶子は、少女時代、父親に伴われ京都の芝居見物をした思い出があった。
泉州和泉の海辺で育った晶子にとり、四方を緑の山に囲まれた千年の都、京都は憧れの町であったろう。町ですれちがう艶麗な舞妓さんに目をうばわれた少女は、うっとりと舞姫を眺めたことであろう。

 

『みだれ髪』-舞姫-には22首の歌が収載されている。
下記は、その4首。

 

朝を細き雨に小鼓(こづつみ)おほひゆくだんだら染の袖ながき君

 

くれなゐの襟にはさめる舞扇(まひあふぎ)醉のすさびの
あととめられな

 

さしかざす小傘(をがさ)に紅き揚羽蝶(あげはてふ)
小褄(こづま)とる手に雪ちりかかる

 

あでびとの御膝(みひざ)へおぞやおとしけり
行幸源氏(みゆきげんじ)の巻繪(まきえ)の小櫛(をぐし)

 

角川文庫与謝野晶子『みだれ髪』より

 

(みだれ髪 本文。)

 


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