与謝野晶子

連載第4回 白桜忌(ハクオウキ)

覚応寺・河野正伸

文/写真・石田郁代

NHK大河ドラマ葵徳川三代に登場する奈良県の又兵衛桜

 

昭和17年5月29日午後4時30分、偉大な女流歌人・与謝野晶子は、家族や弟子らにみとられ、東京荻窪の自宅で大往生した。享年65歳だった。
葬儀告別式は6月1日、東京青山斎場で京都の鞍馬寺・信楽香雲管長が導師となって取り行われる。その折り、高村光太郎が自作の詩を朗読した。

詩・与謝野夫人晶子を弔ふ

高村光太郎

5月の薔薇匂ふ時
夫人ゆきたまふ。
夫人この世に来りたまひて
日本に新しき歌うまれ
その歌世界にたぐひなきひびきあり
らうたくあつくかぐはしく
艶にしてなやましく
はるかにして遠く
殆ど天の声を放ちて
人間界に未曽有の因陀羅綱を顕現す。
壮麗きはまり無く
日本の詩歌ためにかがやく。
夫人一生を美に貫く。
火の燃ゆる如くさかんに
水のゆくごとくとどまらず、
夫人おんみづからめできせ給ひし
5月の薔薇匂ふ時
夫人しづかに眠りたまふ。

-新潮日本文学区アルバム24-
与謝野晶子

 

薔薇の花を愛し、薔薇の詩を多く発表した晶子に、いかにもふさわしい季節、5月の日に旅立だった。
今、晶子は夫・寛と共に、東京多磨霊園に永眠している。晶子の法名は『白桜院鳳翔晶耀大師』。
若いころの晶子は、うす紅色の酔楊貴妃という桜を好んだが、晩年は白色の染井吉野の桜を好むようになった。
「私の戒名には白桜院を…」
と、彼女は生前よりまわりの人々にもらしていたので『白桜院鳳翔晶輝大姉』の法名がおくられた。
昭和10年、夫の寛が没したとき、その百日祭に晶子が『与謝野寛遺稿集』(明治書院)を編み、知人に配ったことに倣い、夫妻の高弟・平野万里が編集した晶子遺詠集が改造社から出刊された。
この世に、晶子は5万首の短歌を遺したといわれているが、その多数の中から2.423首の歌が選出された。 死後4カ月目の昭和17年9月5日刊行だった。
その歌集名は、法名白桜院にちなんだ『白桜集』と名付けられた。

晶子が逝ってから40年後の、昭和57年5月29日の命日に、堺市九間町・覚応寺で先代住職・河野正伸師により、第1回白桜忌奉讃会式が催された。(正伸は河野鉄南の甥で、鉄南の養子となる)。
父、河野鉄南と、与謝野寛・晶子夫妻との親交を大切にし、晶子の20年祭を機に、正伸師が晶子の命日に奉讃会を実行した。
正伸師は先年他界されたが、子息の、現住職河野通世師が、その遺志を継ぎ、今年も同寺で第18回白桜忌奉讃会式が取り行われた。

式次第は
1 覚応寺院主の勧行
2 献茶
3 献歌・献句
式の後
4 講演
「晶子短歌の二面性」入江春行先生
5 与謝野晶子百首かるたとり大会
朗詠者 松本直子先生

その他、覚応寺本堂内に、与謝野鉄幹・晶子の短冊が展示された。

覚応寺・奉讃会入口と前景

 

近年、堺市は、晶子顕彰につとめ命日の5月29日前後の土・日曜は-晶子フォーラム-を開催、多彩な行事がくりひろげられる。
晶子リサイタルにはじまり、晶子短歌大賞授賞式や堺市内の晶子歌碑めぐり、市内各地で3日間は、晶子フォーラムで盛りあがる。

覚応寺は、昭和20年7月の米空軍の、堺市空襲から奇跡的に戦火を免れた。 寺は晶子達の青春時代そのままの、明治のたたずまいを今に残している。
寺の門は、いつも開放されているから、誰でも入門できる。 門をくぐると、中庭のしの竹を背にして晶子短歌の歌碑が建っている。

その子はたち櫛にながるる黒髪のおごりの春の
うつくしきかな
晶子『みだれ髪』

 昨秋、東京新橋演舞場で、女優三田佳子主演で『みだれ髪』が上演されたが、芸熱心な彼女は7月末、堺市を訪れ、晶子ゆかりの地を巡って研究された。その日、筆者も同行した。

 

最後に歌集『白桜集』より一首掲載する。

 

木の間なる染井吉野の白ほどのはかなき命抱く春かな
晶子『白桜集』

地図 覚応寺への行き方


つーる・ど・堺

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