与謝野晶子

連載第3回 薔薇よ

美濃部達吉夫人・牧野富太郎博士
写真・石田郁代


◆女性で、花の嫌いな人はほとんどいない。晶子も、大のお花好きだった。
大阪の堺から上京し、師の鉄幹と結婚するが、自宅の庭に<ひまわりの花>を植え、真夏に太陽に向かって咲く花を<黄金向日葵(コガネヒグルマ)>と名付けたほど。

◆晶子27歳のとき刊行した歌集『恋衣』に次の歌がある。

髪に挿せばかくやくと射る夏の日や
王者の花のこがねひぐるま     晶子

◆(中込純次著『晶子の世界』-晶子植物園-24頁~25頁)
<晶子は、実に多くの数の植物を歌っている。歌に多く現れている順に挙げると、うめ、さくら、つばき、きく、ぼたん、ふじ、ゆり、ばら、ひなげし… 数え切れないほど多くの花の名が続く。
うめ、さくら、つばき、きく、ぼたん、ふじ、ゆり、ばら、ひなげし、はす、あさがお、いちょう、アマリリス、あぶらな、いたどり、かいどう、うつぎ、かえで、からたち、あやめ、くまざき、くちなし、くり、くぬぎ、けし、こごめざくら、さくらそう、さつき、しゃくやく、しきみ、しゃくなげ、すみれ、すいせん、すもも、せり、たけ、だいこん、ちんぢょうげ、なし、はなびしそう、ふき、もくれん、もも、やなぎ、やまぶき、よもぎ、あじさい、アカシヤ、あし、あんず、あおき、あわもりそう、いんげん、わすれなぐさ、れんぎょう、いちじく、いね、いちご、うつぎ、うらしまそう、うまごやし、おもだか、おいらんそう、かきつばた、かいがらそう、かんらん、かしわ、がく、きすげ、きんれんか、きょうちくとう、きり、くわ、しゃら、こけ、こうしょつき、しらかば、しらゆう、しばくさ、すぎ、すいれん、すずらん、せんだん、せきちく、たちばな、のばら、はこやねぎ、ほうづき、ほう、まつ、まめ、マロニエ、ひおうざ、ひるがお、ひまわり、ふたりしづか、べにばな、べんべんぐさ、みる、むぎ、やぐるまそう、やまりんご、あけび、うるし、うめもどき、おみなえし、からまつ、かりん、ききょう、くるみ、くず、しおん、しらかば、しもつけそう、しゅうかいどう、だいだい、すすき、ふよう、つた、つきみそう、つわぶき、なでしこ、ぬるで、はげいとう、はぎ、はじ、ぶどう、みずひきそう、みぞはぎみかん、なつみかん、もろこし、われもこう、りんご、りんどう、うらじろ、かや、かしわ。>

◆ときは5月、8番目に登場する薔薇の花と、詩と花にまつわるエピソードをご紹介しよう。

詩 薔薇の歌・八章
与謝野晶子(大9.7)

今朝、わが家の
どの室の薔薇も、
皆、唇なり。
春の唇、
本能の唇、
戀人の唇、
詩人の唇、
皆、微笑める唇なり、
皆、歌へる唇なり。

あはれ、何たる、
若やかに、
好色好色(すきずき)しき
微風ならん。
青磯の瓶の蔭に
宵より忍び居て
この暁、
大輪の仄かに落ちし
眞赤なる
一片の下に、
あへなくも壓されて、
息を香に代へぬ。

一つの薔薇の瓶は
梅原さんの
寝たる女の繪の前に置かん。
一つの薔薇の瓶は
ロダンの寫眞と
並べて置かん。
一つの薔薇の瓶は
君と我との
間の卓に置かん。
さてまた二つの薔薇の瓶は
子供達の
部屋部屋に分けて置かん。
あとの一つの瓶は
何處にか置くべき。
化粧の間にか、
あの粗末なる鏡に
影映らば
花のためにいとはし。
若き藻風の君の
来たまはん時のために、
客間の卓の葉巻の箱に添へて置かん。

◆詩を観賞すると、晶子の心象は、多分に8年前に渡欧したパリをうつしている。
詩に登場する梅原龍三郎画伯はパリ時代の友人。また、パリ滞在中の夫妻は、彫刻家のロダン・アウギュスト家を、訪れているから、その記念のスナップ写真であろう。
プレゼントされた薔薇を喜々として部屋々々に挿してまわる晶子。テーブルの葉巻は彼のために…。
晶子の詩は、現代の高層マンションの若者の一室と、置き変えてもすこしも孫色はない。晶子42歳の作品である。

美濃部達吉夫人

◆小石川に住む美濃部達吉(兵庫県生。法学者・東大教授・1873~1948)の民子夫人が自庭で咲かせた花を、毎月のように与謝野家へ贈った。
晶子は大変に喜び<この五月に澤山の薔薇を贈られた時の感激で、幾篇かの詩をも作りました>と感想集『人間礼拝』-美しい贈り物-89頁(大10.3)に述べている。前出の8編の詩である。
民子夫人とは、はじめ手紙だけの交際で久しい間一度も逢っていなかったが、<対面しなくても美しい贈り物で夫人の心の深さを察し友情が芽生え、花を仲立ちとして女同士の友情が保たれた。>とも記している。
『晶子と寛の思出』の著者、与謝野光(長男)氏は下記のように語る。 「うちの母は、なんでもきれいなものが好きでしたからねえ」 「美濃部達吉さんの奥さんの民子さんと、うちの母はとっても仲がよくてね。民子さんは、よく自分で作った薔薇の花を母に持って来て下さったんですよ」

 

詩   鏡中小景

詩10章 白序に代えて(大正14.1)
与謝野晶子

どうして来てくれたの、
このみすぼらしい部屋へ、
この疵だらけの卓の上へ、
薔薇よ、そなたは
どんな若い夫人の贈り物にも、
ふさはしい最上の花である。
もう若さの去った、
そして平凡な月並の苦労をしている
哀れな忙しい私が
どうして、そなたの友であらう。
人間の花季は短い、
そなたを見て、私は、
今ひしひしと之を感じる。
でも、薔薇よ、 私は窓掛を引いて、
そなたを陰影の中に置く。
それは、あの太陽に
そなたを奪はせない為めだ
いや、自分を守るやうに、
そなたを守りたいためだ。

◆この詩は大正14年1月、関東大震災後に刊行された歌集『瑠璃光』に収載されている。被災してうちひしがれていた5月、例年のように庭に咲いた見事な薔薇を、民子夫人は晶子に贈った。晶子の喜びはどんなにか。彼女はその喜びを詩で表現した。
でも、47歳になった晶子は、巴里より帰国後の、前出の詩と比較すれば、随分、年齢を意識しているように私は思う。

牧野富太郎博士

◆<ある雑誌社の求めに応じて、小石川植物園で、植物学者牧野富太郎(高知県生。東大理学部助手・講師1861~1949)と対談したことがあった。
その時、富太郎が好きな植物の名を晶子に訊いたら、晶子は即座に他の植物の名が思い浮かばなかったのか「おしろいばな」と答えた。この答は、晶子ファンを失望させた>(中込純次著『晶子の世界』-晶子植物園-24頁)
与謝野宇智子(4女)は、その雑誌を読み、母の好きな花が、おしろいばな、と知り「失望したよ」といった友人の植物学者に、若かった彼女は母のために下記のように抗弁している。

◆<博士が母に「どんな花がお好きですか」ときかれた。母はとっさに他の花が思い出せなかったらしく、ちょうどその頃、母の部屋の前に咲きこぼれていた「オシロイバナ」の名をあげていた。おそらく博士は野や山に咲く花を考えていらしたのであろうと、わたしは読んで(註・雑誌)「冷やっ」としたが、案の定、あとで、博士のお弟子の一人が「貴女のお母さんにはガッカリした」と言ったので、わたしもさっそく「あたしのお母さんは植物学者じゃないのよ」と抗弁した。>(与謝野宇智子著『むらさきぐさ』-母の好きな花-172頁)

◆与謝野晶子の好きな花は?と問われれば誰しも、薔薇や牡丹など、華やかな花をイメージする。だが、晶子は思いがけなくも、おしろいばなが好きと答えた。

◆晶子が好きな花を選んだ理由には、後日譚がある。
宇智子さんが後年<先日、昔の野草会の会員の一人に逢ったとき「貴女のお母さんがあの頃、ある新聞社にたのまれて、新しい秋の七草を選んだことがあって、その中にオシロイバナと、ハゲイトウがたしかに入っていましたよ」と言われた。オシロイバナはいかにも庶民的な花である。>(与謝野宇智子著『むらさきぐさ』-母の好きな花-172頁)

◆ともあれ、5月は薔薇の花の季節、私たちも晶子のように、家中の部屋に薔薇の花を飾ってみたいものだ。

2000.5.14記

 

参考図書 『定本与謝野晶子全集第十巻』 与謝野晶子・講談社 『晶子と寛の思い出』 与謝野光 『瑠璃光』 与謝野晶子・アルス社 『むらさきぐさ』 母晶子と里子の私 与謝野宇智子・新塔社 『晶子の世界』 中込純次・短歌新聞社 『広辞苑第三版』 新村出・岩波書店

私が晶子の薔薇の詩に、心を奪われていた頃、毎日新聞(5.10)で、介助犬シンシアにちなんだ「シンシアたからずか」の記事を見たので、「みんなの広場」欄に投書したところ拙稿が5.19号紙に掲載されました。
上掲の写真のは新種「シンシア・たからずか」の薔薇です。
まさしく~薔薇よ~となりました。

2000年5月19日(金)毎日新聞朝刊掲載

淡路花博ジャパンフローラ2000国際庭園の薔薇(5.16)

 


つーる・ど・堺

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