与謝野晶子

連載第15回 与謝野晶子訳「源氏物語 2 」

新連載・石田郁代著

「澪標(みをつくし)」の巻

文/写真 石田郁代

 

大阪府住吉大社の反橋(そりばし)

 

今から1000年のむかし、紫式部が執筆した日本の長編小説『源氏物語』に、主人公の光源氏(ひかる・げんじ)が、京のみやこから大坂(おおさか)の住吉社に参拝にきた様子が「澪標」の巻に記述されています。
住吉の浜辺や住吉社については、万葉集・巻19の多治真人土の歌

 

住吉(すみのえ)に斎(いつ)く祝(はふ)りが

神言(かみごと)と行くとも船は早みけむ

 

と詠まれていますから、奈良時代には、すでに住吉大社は広く知られていたと推量されます。
しかし現代のように詳細地図も旅行案内情報も少ない平安時代に、紫式部は京都にいながら、遠く離れた大阪の住吉を知っていたわけで、「澪標」を読んだとき彼女の博学に、私は驚きました。
源氏物語の成立は、人皇66代一条天皇の寛弘7年(1010)頃といわれています。
国宝の有名な源氏物語絵巻は、それより100年後の72代白河天皇時代の製作で、一流の絵師たちの作品と考えられています。
しかし、残念な事に54帖すべての帖が遺っていません。したがって「澪標」の絵は欠落しています。が、桃山時代に製作された数々の源氏物語絵が遺っているので、絵でその頃の住吉の風景を想像する事ができます。
下の写真は、南海本線・住吉大社駅前に建立されている「澪標」の巻の絵の青銅絵碑です。

 

住吉大社駅前の「澪標」青銅絵碑

 

昨年(2001)私は、この絵碑を見学しました。写真(上図)では皆様にはっきりとは見えず、心苦しいですが、碑の原画となっているのは、多分、国宝に指定されている俵屋宗達筆 源氏物語図 六曲屏風(個人所蔵)の左隻の澪標図ではないかと、私は思いました。
宗達は堺のまちの絵師なので、当時の裕福な堺商人の依頼で描いたのだろうといわれています。元和元年(1615)大阪夏の陣で豊臣方が敗れた頃の時代の製作ですから、現存するこの源氏絵により、約400年前の住吉あたりの自然風景を私たちは見れるわけです。
立派な住吉社の鳥居と、見事に反(そ)った橋が描かれています。鳥居前に駐車した牛車内の源氏に、供の惟光(これみつ)が明石の君の事を奏上している写実的構図です。金地に白砂青松の浜辺・・・、息をのむほど美しい琳派の屏風絵は、国宝の名に恥じません。
駅前に建つ青銅源氏絵碑は、上記の宗達筆屏風絵を模写したのでしょうか、よく似た構図でした。

 


 

それでは昭和13~14年に金尾文洲堂刊行の与謝野晶子訳『源氏物語』「澪標」巻の一部を下記に述します。(晶子源氏の特徴のひとつは、各巻のはじめに晶子の短歌が添えられていることです。)

 

澪標

みをつくし逢はんと祈るみてぐらもわれのみ神にたてまつるらん  晶子

 

須磨の夜の源氏の夢にまざまざとお姿をお現わしになって以来、父帝のことで痛心していた源氏は、帰京ができた今日になってその御菩提(ごぼだい)を早く弔(とむら)いたいと仕度(したく)をしていた。そして十月に法華経の八溝が催されたのである。参列者の多く集まって来ることは昔の場合のとおりであった。
今日も重く煩(わずら)っておいでになる太后(筆者注・弘徽殿)は、その中でも源氏を不運に落しおおせなかった(筆者注・源氏の異母兄朱雀帝)ことを口惜しく思召すのであったが、帝は(故・桐壺帝)の御遺言をお思いになって、当時も報いが御自身の上へ落ちて来るような恐れをお感じになったのであるから、このごろはお心もちがきわめて明るくおなりあそばされたのであるが、短命でお終りになるような予感があってお心細いためによく源氏をお召しになった。(中略)
源氏は明石の君の妊娠していたことを思って、しじゅう気にかけているのであったが、公私の事の多さに、使いを出して尋ねることも出来ない。三月の初めにこのごろが産期になるはずであると思うと哀れな気がして使いをやった。
「先月の十六日に女の子様がお生まれになりました」
という知らせを聞いた源氏は、愛人によてはじめて女の子を得た喜びを深く感じた。
(中略)
この秋に源氏は住吉詣でをした。須磨明石で立てた願(がん)を神へ果すためであって、ひじょうな大がかりな旅になった。
延臣たちがわれもわれもと随行を望んだ。ちょうどこの日であった、明石の君が毎年の例で参詣するのを、去年もこの春も障りがあって果すことのできなかった謝罪もかねて、船で住吉へ来た。
海岸の方へ寄って行くと、華美な参詣の行列が寄進する神宝を運び続けて来るのが見えた。楽人、十列(とつら)の者もきれいな男を選んであった。
「どなたの御参詣なのですか」
と船の者が陸へ聞くと、
「おや、内大臣様の御願はたしの御参詣を知らない人もあるね」
供男階級の者もこう得意そうに言う。
なんとした偶然であろう、ほかの月日もないようにと明石の君は驚いたが、はるかに恋人のはなばなしさを見ては、あまりにも懸隔のありすぎるわが身の上であることを痛切に知って悲しんだ。(中略)
こんなときに自分などが貧弱な御幣(みてぐらを差し上げても神様が目にとどめにならぬだろうし、帰ってしまうこともできない、今日は浪速(なにわ)の方へ船を回して、そこで祓いでもする方がよいと思って、明石の君の乗った船はそっと住吉を去った。こんなことを源氏は夢にも知らないでいた。(後略)

(筆者・注)
源氏絵のどの絵も見ても、明石の船が住吉の浜を去って行く場面が描かれています。<貝覆>の小さな貝の中の絵にも明石の船と人物の顔が明細描かれているのに感心します。
勿論、住吉駅前の銅版画にも証の船が右端上方に書かれているので見学の折はよく見てください。

みをつくし恋ふるしるしにここまでも廻り逢ひける縁(えにし)は深しな  源氏

数ならでなにはのこともかひなきに何みをつくし思ひ初めけん  明石の君

露けさの昔に似たる旅衣田簑の島の名には隠れず  源氏

 

寄港した田簑島(たみのじま)届いた源氏の歌で、明石の君の心ははずみ、二人の愛は通じ合いました。源氏の一行が浪速を立った翌日は吉日だったので、明石の君は改めて住吉社へ行き、彼女らしい御幣を捧げたのでした。

冒頭に揚げた晶子の澪標の歌を、今一度御覧下さい。
このように晶子は、源氏物語礼讃54首を歌詠しました。
『新新源氏物語』与謝野晶子著の各巻に、54首が挿入されているのが、他の追従を許さない晶子訳の特徴です。
大歌人ならでは・・・、心憎い配慮だと思えてなりません。

 

第90回ひらかた菊人形展にみる「明石の君」

 

つーる・ど・堺

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