連載第14回 与謝野晶子訳「源氏物語 1 」
新連載・石田郁代著
-はじめに-
紫式部と福井県武生市
文/写真 石田郁代
1000年もの長いあいだ、読みつがててきた世界に誇る日本の長編小説『源氏物語』の作者・紫式部の生没年は不詳で、本当の名前もわからない。
ただ、彼女の父・藤原爲時が越前(えちぜん)の国司に任命された折、父に伴われ長徳2年(996)京の都より国府であった武生(たけふ)へ下だり、約1年あまり武生で暮したことが知られている。
武生の冬の雪深い暮らしや、敦賀港(つるがこう)に入った宗人のこと、また外国文化に触れ感動したことなどが、京に住む年上の恋人、藤原宣孝(のぶたか)に宛てた手紙のなかに書かれている。また、紫式部日記の文書や歌も、今から1000年前の武生市の情景をよく物語っている。
下記はその紫式部の歌2首
ここにかく日野の杉むら埋む雪小塩の松にけふやまがへる
春なれど白ねのみ雪いや積り融くべき程のいつとなきかな
福井県武生市千種町に、平安時代の庭園を再現した紫式部公園がある。 3000坪の広大な公園敷地内に、金色に輝く見事な紫式部が建立され、公園を訪れる誰の目もそば立てずにはおれない。
与謝野晶子は『源氏物語』現代語訳を生涯に二度も出版した。
一度目は明治45年(1912)2月から6月にかけて『新訳源氏物語』全4冊を、金尾文洲堂より。
二度目も金尾文洲堂より、昭和13~14年(1938~9)にかけ『新新訳源氏物語』全6巻を完訳出版した。このとき、夫、寛は己に鬼籍に――。晶子も完訳を終えて3年後に、夫のあとを追うように昭和17年5月に他界した。
30歳代より64歳で没するまで2度わたって綴られた『源氏物語』口語訳は、彼女一生の大作品である。
どうして晶子はこのように源氏物語の口語訳に熱中したのだろうか?
晶子は感想集『光る雲』に下記のように記述しているので、彼女の紫式部感が理解できる。
<紫式部は私の、11・2歳からの恩師である。それ程までに紫式部の文学は私を引き付けた。全く獨学であったから、私は中に人を介せずに紫式部と唯二人で相對してこの女流文豪の口づから『源氏物語』を授かった気がする>
晶子は、堺市に住む少女時代から読書家で、家業の菓子を売りながら、自宅の倉に所蔵する古典文学、特に源氏物語を読破した故に、上掲のような述懐をのべたのであろう。源氏物語に関する晶子の歌を紹介する。
長持(ながもち)の蓋(ふた)の上にてもの読めば倉の窓より秋かぜぞ吹く
あなかしこ楊貴妃(ようきひ)のごと斬られむと思ひたちしは十五の少女(をとめ)
源氏をば十二三にて読みしのち思わじと見つれ男を
わがよはひ盛りにながれどいまだかの源氏の君のとひまさぬかな
源氏をば一人となりて後に書く紫女年若くわれは然(しか)らず
『与謝野晶子百首かるた』より
福井県武生市千種町に、平安時代の庭園を再現した紫式部公園がある。 3000坪の広大な公園敷地内に、金色に輝く見事な紫式部が建立され、公園を訪れる誰の目もそば立てずにはおれない。
寛、晶子夫妻が、武生市を訪れたのは昭和8年(1933)11月、寛60歳・晶子55歳のとき、晶子は2度目の源氏物語現代語訳の執筆中であった。
夫妻は、北陸路の各学校で講演を依賴されたので、石川県富山県を巡歴し、福井県の福井女学校で晶子が講演したのを最後に、11月11日夜、武生市に到着した。
土地の竹内氏に迎えられ、翌日氏の案内で市内見物をした。味真野(あじまの)にある真宗出雲路派本山・毫摂寺(こうしょうじ)では、歌の指導と揮豪を行ったので、毫摂寺には寛・晶子夫妻の真筆が所蔵されている。
寺の境内に建つ、のゑ像の傍らに、下記の歌が彫られた晶子歌碑が、のゑ女顕彰会の人たちにより平成7年に建立された。
思へらく尼清心(せいしん)もゐのししも今は仏の御弟子ならまし
晶子
武生市に国府跡がある。晶子が少女の頃より師と仰いだ紫式部は、僅か1年だが幼いころこの地で暮し、土地の人から雲峰とあがめれる日野山を毎日眺めていた。
昭和の時代に武生市を、夫と共に訪れた大歌人・与謝野晶子は、日野山をどのような思いで眺めたのであろうか?
平安時代の式部は
春なれど白ねのみ雪いや積り融しべき程のいつとなきかな
昭和の御代の晶子は
われも見る源氏の作者をさなくて父と眺めし越前の山
と詠んだ。
歌集『舞ごろも』より新春の歌を3首
昭和61年6月、紫式部公園に建てられた紫式部立像の顔は、作像者・圓鍔(えんつば)氏の配慮により、若々しい顔は日野山に向けられて、いにしえの式部そのままに、毎日雲峰を仰いでいる。
昭和63年11月「ふるさとをしのぶ散歩道」沿いに建立された晶子碑も、日野山を仰いでいる。
去る平成13年9月6日武生市の晶子歌碑見学に訪れた与謝野晶子同好会、会員一同も晶子が眺め、式部も眺めた1000年の悠久を感じつつ日野山を仰いだのだった。