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110年前の夢を叶えたい。ミュシャの名画を堺緞通で織る(3)

堺アルフォンスミュシャ館が、ミュシャの名画《クオ・ヴァディス》を堺の伝統産業である手織の絨毯(じゅうたん)、堺緞通の技法で織り上げるためにクラウドファンディングをはじめました。このクラウドファンディングは大反響。ミュシャファンや堺ファンの支援が集まり、当初目標の150万円は瞬く間に突破、最終目標だった300万円も11月には突破し、それでもクラウドファンディングへの支援は続いています。
すでに堺緞通で作品を仕上げることは予算的にも可能になりましたが、予定を越えてもクラウドを続けたのはなぜなのか。そこにも担当された学芸員髙原茉莉奈さんの思惑があり、それは《クオ・ヴァディス》が幻の名画と言われるゆえんと無関係ではありませんでした。
前回前々回に引き続き、髙原さんにお話を伺います。

 

■《クオ・ヴァディス》の謎

▲数奇の運命を経て堺アルフォンス・ミュシャ館に所蔵されることになった《クオ・ヴァディス》。一体何を描いているのでしょうか。

 

長らく行方不明だった《クオ・ヴァディス》が発見されたのは、ミュシャの死後30年以上たった1979年にアメリカのシカゴの額縁屋の倉庫からでした。その倉庫は、一度はミュシャの息子によって調べられミュシャ作品が引き上げられていたにもかかわらず、なぜか《クオ・ヴァディス》は見逃され、再発見の時を待ってました。たまたま発見した大工が絵画の素養のある人物で一目でミュシャ作品と見抜いたのだそうです。その後、所有権の争いは裁判沙汰にまでなったのですが、日本人コレクター土居君雄氏の手に渡り、氏の死後『ドイコレクション』として堺市に寄贈されたのでした。まさに数奇の運命を渡り歩いた幻の名画です。
しかし、その絵の内容もまたミステリアスなのです。

――そもそもミュシャの《クオ・ヴァディス》は何を描いているのでしょうか?
髙原「《クオ・ヴァディス》が題材としているのは、19世紀ポーランドのノーベル賞作家ヘンリク・シェンキェヴィチの小説『クオ・ヴァディス』のワンシーンです。小説の時代は、古代ローマ帝国暴君ネロの時代で、キリスト教徒が迫害されていた時代。そんな時代に、主人公であるローマの軍人が、キリスト教徒の女の子に恋をするお話です。当時の大ヒット小説で、ハリウッドで映画化もされています。しかし、ミュシャが描いたのは、この小説の中で主人公ではなくて、脇の人物の脇のシーンなんです」
――どういうシーンなんです?
髙原「この小説には映画でも絵になるような、女性がたくさん踊るような享楽的なシーンもたくさんあります。なのに、ミュシャが描いたのは小説の最初の方にさらっと出てくるシーン、主人公の叔父の奴隷の少女が、主人に恋をして主人の彫像にこっそりとキスをするというシーンなんです」
――なんでまたそんなシーンを取り上げたんでしょうね?
髙原「それが謎なんです。もともとはこの作品のタイトルは叔父と奴隷少女の名をとって《ペトロニウスとエウニケ》とされていました。大ヒット小説だったから、登場人物の名前をみんな良く知っていたんです。後にタイトルを変えたのは、流行が終わればみんなの記憶なんて簡単に移ろうと思ったからかもしれませんね。それはさておき、この絵には小説にも映画にも出てこない人物が描かれています。キスをする奴隷の背後から、その様子をうかがっている人物です」
――戸口に立っている人物ですね。不審人物じゃありませんけれど、逆光で顔に陰があるように描かれています。
髙原「この人物が何者なのか、いくつか説があります。一番面白くない説は、主人公の軍人だという説。主力説は彫像のモデルである主人公の叔父さんだという説。でも私には違う説があります」
――叔父さん説だと、奴隷のキスシーンを盗み見て、自分に対する恋心を知るっていうシーンになりますね。少女漫画というか、昼ドラみたいなシーンですよね。ミュシャが描くにしては、ちょっと俗っぽすぎる気がします。髙原説では誰なんですか?

 

 

髙原「私はキリストではないかと思うんです。小説『クオ・ヴァディス』の下巻でキリストが登場するシーンがあります。迫害から逃れてローマを脱した使徒ペドロの前にキリストが現れ、ペトロが『クオ・ヴァディス(主よ何処へ)』と問うシーンです。そのシーンのキリストの描写が、ミュシャの描いたこの謎の人物の描写と似ていると思うのです」
――それはありそうな説ですね。髙原説、興味深い説じゃないですか。
髙原「ミュシャの息子のイジーさんは、また別の説でして、ミュシャ本人説なんです。この人物の髭は現代的なとがった髭で、歴史画家を目指していたミュシャがわざわざこんな髭を描いたのは、自画像として描き込んだのではないかと」
――その説も捨てがたいですね。この人物は一体何者で、ミュシャはなんだってこのシーンを選んで描いたのでしょう。

 

 

■加筆された《クオ・ヴァディス》の謎

髙原「《クオ・ヴァディス》の絵の周辺部分も見てください。周囲の縁取りがアールヌーヴォーらしい装飾になっていますよね」
――確かに。そのおかげで、おあつらえ向きの絨毯にしたくなるような作品になっています。
髙原「故郷のチェコを離れて、パリでデザイナーとして成功していたミュシャが、再び絵筆をとって最初に描いた油絵がこの《クオ・ヴァディス》でした。ミュシャにとっては10年ぶりの油絵です。それまで得意としていたアールヌーヴォーを取り入れてハイブリッド型の作品にしたのかもしれません」
――ずっとデザイン畑で活躍したミュシャが10年ぶりに絵筆を握ったということで不安があったのかもしれないし、集大成的な意味合いがあったのかもしれないですね。いずれにせよ、絵画にかけるミュシャの想いはよく知られているように半端なものではなかったですし。

 

▲《ハーモニー》は、堺アルフォンス・ミュシャ館所蔵の作品としては、《クオ・ヴァディス》に匹敵する大作で、後の《スラヴ叙事詩》にも共通する画風。習作的作品の1つといえるのではないか。

 

画家を目指しながらデザイナーとして売れっ子となり、名声を得ていたミュシャが画家への転身を図ったのは、パリ万国博覧会がきっかけでした。万博のボスニアヘルツェゴビナ館の仕事を引き受けたミュシャは現地へ取材旅行に出かけ、そこで故郷チェコと同じスラブヴ民族の人々が、オーストリア=ハンガリー帝国の統治下で圧迫され長きに渡り苦境にあることを知ります。彼らのために立ち上がらねばならない。成功し登り詰めたデザイナーとしての地位を捨て、画家への道を選んだのは、祖国のみならず国境を越えた同族たちの為でした。スラヴ民族の苦難と栄光の歴史を描いた壮大な大作《スラヴ叙事詩》の構想が生まれ、ミュシャの後半生は《スラヴ叙事詩》の制作と資金集めに費やされることになります。

ここからは筆者の勝手な想像ですが、ミュシャは画中の女性に何か重要なシンボルを託すことが多いのではないかと思います。すると、彫像に口づけする、叶わぬ愚かな夢を見るキリスト教徒の奴隷少女は、迫害を受けるスラヴ民族の象徴ということではないでしょうか。スラヴ民族の象徴として、奴隷少女を哀しくも美しい存在として描いたのだとしたら、そこにはミュシャの優しさと怒りがこもっているように思えます。
物語へ戻りましょう。仲間を見捨てローマから逃げ出したペトロが、道の向こうからやってきたイエス・キリストに『クオ・ヴァディス(主よ何処へ)』と問うと、イエスは『お前が私の民を見捨てるなら、私はローマへ行き再び十字架にかかろう』と答えます。ペトロは筆頭の弟子でありながら、イエスが十字架にかけられる時、「そんな男は知らない」と三度否認し主を見捨てた男でした。ペトロはきびすを返してローマへ戻り、逆十字の磔(はりつけ)となって死にます。
当時のミュシャの心境を思うと、自身をペトロと重ねたのではないでしょうか。故郷から離れパリで栄達した自身の歩みは、ローマを見捨てたペトロの道なのではないか。「クオ・ヴァディス」はミュシャの唇からこぼれた言葉だったのでしょう。そしてミュシャの耳は聞いたのでしょう。イエスの返答を。

 

▲《スラヴの民族衣装を着た少女》。《スラヴ叙事詩》の習作として描かれた作品。

 

――《スラヴ叙事詩》の資金集めをしていたミュシャが《クオ・ヴァディス》を絨毯にする……プロダクトとして利用しようとしたのもうなずけます。絨毯化が頓挫したあとは、何か動きはあったのでしょうか。
髙原「ミュシャは1920年にニューヨークでの展覧会に出すために《クオ・ヴァディス》を4日間かけて色を塗り直しているんです」
――では、今私たちが見ている《クオ・ヴァディス》はオリジナルの姿ではないのですか!
髙原「絵に赤外線をあてて調査をすれば下絵の姿がわかるかもしれません。そうした調査のために、クラウドファンディングは継続しています。堺緞通を織るための当初予定の150万円は達成しましたが、図録をより充実したものにして記録をしっかり残したいし、調査のための費用にも充てたいのです」
――この勢いなら、第二目標も達成できそうですよね。赤外線以外にも調査はするのですか?
髙原「はい。支援いただいた方からのコメントにはめちゃくちゃ励まされています。ミュシャのパートナーで、絨毯工場を起業した建築士のアーサー・ヘルチについてはほとんど記録がないのですが、シカゴの歴史は靴武官には資料が三箱あるそうなので、ぜひ現地へ行って調査をしたいと考えています」
――《クオ・ヴァディス》の謎を解く手がかりが待っているかもしれませんね!  堺アルフォンス・ミュシャ館のクラウドファンディングがきかっけになってミュシャ研究が進めば、支援してくださった方々も支援者冥利に尽きる。鼻高々ですよね。

 

▲学芸員の髙原茉莉奈さん。堺アルフォンス・ミュシャ館へ来館の際には、ミュシャのモデルになった気分が味わえるアールヌーヴォーフレームをぜひお試しください。

 

取材後もミュシャと堺緞通への支援の勢いは止まらず11月16日に最終目標として掲げていた300万円を突破。第三目標とした500万円すら、締切り前に達成したとのことです。
《クオ・ヴァディス》を堺緞通を織る大阪刑務所では、予定を前倒しして2022年の1月から作業をスタート。読売新聞の取材記事(https://www.yomiuri.co.jp/culture/20211215-OYT1T50145/)によると、作業を担当する受刑者も、今回の取り組みにとても前向きで、自信が感じられる……とのこと。《クオ・ヴァディス》が罪を背負ったペトロの贖罪の物語だと解釈すれば、大阪刑務所の受刑者がそれを織り上げるというのも、不思議な縁かもしれませ。
ミュシャが直接描いた絵画《クオ・ヴァディス》と受刑者が織り上げた堺緞通《クオ・ヴァディス》、そしてひょっとしたら調査で明らかになるオリジナル《クオ・ヴァディス》。2023年冬に開催される特別展『クオ・ヴァディスの謎(仮)』では、ぜひそれらによって、ミュシャの世界をより深く観賞できることでしょう。今から楽しみです。

 

クラウドファンディングの詳細は、こちらから→https://readyfor.jp/projects/mucha-sakaidantsu

 

会場:堺アルフォンス・ミュシャ館
開館時間:午前9時30分から午後5時15分(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日(休日の場合は開館)、休日の翌日(2月12日、2月24日)
観覧料:一般510円(410円)、高校・大学生310円(250円)、小・中学生100円(80円)
*( )は20人以上100人未満の団体料金

 


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