ミュージアム

岸谷勢蔵-晶子のふるさと堺の風景- レビュー(3)

 

さかい利晶の杜で開催されていた企画展「岸谷勢蔵-晶子のふるさと堺の風景-」のレビューを、第1回第2回と続けてきました。企画展は終わってしまいましたが、第3回です。

木綿問屋に生まれた岸谷勢蔵は、戦前の堺の商家の暮しを描き、与謝野晶子の歌に響き合うような堺の風景を描き続けました。与謝野晶子と岸谷勢蔵は21年の年齢の差がありましたが、実家同士がはす向かいにある関係で、2人は共通の原風景の中で育ったのです。
岸谷勢蔵が色紙に描いた堺の風景画に対して、学芸員の矢内一磨さんが選んだという、与謝野晶子の短歌はしっくりとくるものです。岸谷勢蔵の絵を見ながら、与謝野晶子の歌を口ずさむ時、二つの芸術が化学反応を引き起こす感覚を味わうことができます。
一方で、戦時中に空襲対策でなされた建物疎開に際して、堺市から依頼されて岸谷勢蔵は、疎開前の堺の様子を詳細な絵で残しています。この絵は、後々も歴史研究の貴重な資料となり、さかい利晶の杜にあるジオラマのもとにもなってます。
こうして、前篇中篇を通して岸谷勢蔵の作品や仕事を眺めると、極めて基本的な疑問が湧き上がってきます。
「果たして岸谷勢蔵とは何者なのか?」

 

■岸谷勢蔵とは何者か?

 

▲岸谷勢蔵の残した大量のグラビアのスクラップと習作。

 

たとえば、企画展の展示室にはいわゆる“商品”としての絵は見当たりません。色紙画のような“作品”的な絵にしても、作家の個がにじみ出るような絵ではなく、岸谷勢蔵の眼差しは透明で俯瞰的です。一方で、その技術やセンスは、素人のものではありません。
画家・岸谷勢蔵は、どうやって暮し、何をモチベーションに絵を描いていたのか、展示室の絵を見れば見るほど不思議に思えてきます。

矢内一磨(以下、矢内)「岸谷勢蔵は職業画家ではありませんでした。それは与謝野晶子さんが、家族を養うために歌を作った職業歌人であったこととは対照的です」
――岸谷勢蔵は何で食べて(暮して)いたのでしょうか?
矢内「岸谷家は、大きな木綿問屋でしたので、おそらく岸谷勢蔵はあくせく働く必要はなかったのだと思います」
――なるほど、言ってみれば有産階級だったのか。だから、注文に応じたりせずに、好きに絵を描くことが出来たんですね。
矢内「岸谷勢蔵は、職業画家ではなく郷土画家でした。堺の風景や習俗を描くことに情熱をかけていたのです」
――堺市に協力して、失われていく疎開地区の風景を描いたのも、使命感をもってやられていたのですね。では、あの精密な画力は、一体どこで身につけたのでしょうか?

矢内「絵をどこで学んだかは分かっています。24才の時に、大阪の上本町にあった精華美術学院に入学して絵を学んでいるのです。この学校は専門学校で、後に水木しげるも入学しているのですが、水木しげるはこの学校は良くないといっています」
――おー、水木しげるが。水木しげるは、岸谷勢蔵よりは随分若いですよね(岸谷1899年生まれ、水木1922年生まれ)。水木しげるにとっては、何が良くなかったのでしょう?
矢内「まともな絵画教育を受けることができないという理由で、水木しげるはすぐに辞めています」
--戦中・戦後すぐとかだと、兵隊にいってたりで、力量のある絵画教師がいなかったのかもしれないですね。
矢内「丁度、こちらに、岸谷勢蔵がどうやって絵を学んだかが分かる資料が展示されています」

 

▲スクラップの中から岸谷勢蔵による与謝野晶子の姿絵も発見された。

 

――雑誌の切り抜きと、岸谷勢蔵の絵でしょうか。
矢内「(岸谷勢蔵の遺品に)段ボール箱一杯にこうしたスクラップがあったんです。何だろうと思ったら、中から絵も出てきたんです。画家の先生に話を聞いてみた所、最近では個性を殺すというのでやらなくなったけれど、明治時代の美術教師は、写真を模写させる練習法をよくやらせていたそうなんです」
――岸谷勢蔵の精密な画力は、これによって養われたということなんでしょうね。

 

■岸谷勢蔵を評価する

▲岸谷勢蔵が描いた与謝野晶子の実家である駿河屋。

 

――与謝野晶子とは21才の年齢差で、実家は50mの距離のご近所さんでありながら、直接交流は無かったということですが、岸谷勢蔵は与謝野晶子のことをどう思っていたのでしょうか?
矢内「岸谷勢蔵は、与謝野晶子を尊敬していたようです。こちらの写真は、岸谷勢蔵が、与謝野晶子の実家跡に建てられた歌碑に字を入れている所です」
――ゲタ履きのままで字を入れられていますね。ご近所さんの気楽さも感じられる写真です。岸谷勢蔵の写っている写真を初めて見ましたが、岸谷勢蔵はこれだけ堺市に貢献しているにもかかわらず、どんな人物だったか良く知られておらず、評価が足りないのではないでしょうか?
矢内「そうですね。今回こうして岸谷勢蔵を取り上げた企画展を開催することが出来ましたが、たとえば今回制作した年中行事のパネルを、これっきりで捨ててしまうのではなく、季節に合わせて常設展でも展示していくなどといった利用法を考えています」
――実家が目と鼻の先というだけでなく、自身や与謝野晶子が実際に歩いた風景を描いた郷土画家として、またこの場所にあった堺市民病院で岸谷勢蔵が亡くなったという縁もありますし、さかい利晶の杜で岸谷勢蔵をフィーチャーされるというのは、とても意義のあることですね。
矢内「これまで新型コロナウイルスの感染対策の緊急事態宣言を受けて休館していましたが、その規制が緩和されてすぐの今回の企画展でした。少し話がそれるかもしれませんが、館をあけてすぐの時に、ある市民の方から言われた事が心に残っています。その方は、当館や博物館に足繁く通うというタイプの方ではないそうなのですが、まだ社会が完全に元に戻りきっていない中で、一足早くミュージアムが開いたことが嬉しい。まるで街に灯が灯ったようだと言ってくたのです。ミュージアムを開けることの意義はそういうことなのだと、お客様に教えられました」
--いいお話ですね。さかい利晶の杜は、歴史ある堺の町の真ん中、様々な堺の文化人とも縁の深い場所にあります。その立地を活かした企画をこれからも期待したいですね

 

緊急事態宣言下では、あらゆる物事が必要か必要で無いかで選別され、それが度を超しているように思える時もありました。芸術や文化も、どちらかといえば不必要であるとやり玉に挙げられがちなジャンルです。そんな中、真っ先に扉を開いたのが、ミュージアムだった。そのことに力づけられた人たちがいたということは小さなことではないように思います。
それは命が危機にさらされる戦時下において、岸谷勢蔵が情熱を込めて描いた堺の風景があるお陰で、私たちは今、その失われた風景に思いを馳せ、私たちのまちの価値について考えることが出来るということと、近しいことではないでしょうか。

 

さかい利晶の杜
堺市堺区宿院町西2丁1番1号
072-260-4386
http://www.sakai-rishonomori.com/


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