さかい利晶の杜企画展「立花大亀と茶の湯」レヴュー(2)
明治から平成まで3世紀を生き抜いた近代から現代の高僧・立花大亀は、堺の小間物屋に生まれました。20才で得度し、臨済宗大徳寺の第511世にまで登り詰め、政財界にも大きな影響力をもったという破格の人物です。
生まれ故郷の文化観光施設さかい利晶の杜では、この立花大亀を取り上げ「立花大亀と茶の湯」と題した企画展を開催中で、それに先立つ内覧会にお邪魔させていただきました。3章立ての展示を、担当学芸員の木村栄美さんに案内していただき、記事の前篇では第1章の堺との交流について紹介しました。今回は、堺の茶の湯への貢献について取り上げた第2章について紹介します。
■幕末の利休回帰
堺の茶の湯における立花大亀の貢献を語るには、まず話を大亀さんが生まれる前の幕末にまで遡らせなければなりません。
木村栄美(以下、木村)「幕末の天保11年(1840)、利休250年遠忌をきっかけに、茶の湯の世界で利休回帰のムーブメントが起こります。堺でも堺で酒造業を営んでいた加賀田氏が、弘化2年(1848)に利休屋敷跡に、利休好みと伝えられていた実相庵の写しの二畳の茶室を建立します。その茶室披きに招いたのが、大徳寺第435世で堺禅通寺の第15世である大綱宗彦(だいこうそうげん)です。大綱宗彦は、この茶室を「懐旧」と名付けました。懐旧とは、利休のふるさとにおいて利休の精神に還るという意味が込められています」
――利休屋敷跡は、今さかい利晶の杜の道路をはさんで東隣のあたりですね。今のように整備される前は、非常に荒れていたような記憶があります。「懐旧」が出来て以降はどういう経緯をたどったのでしょうか?
木村「後の福助になる足袋装束商『丸福』を創業した辻本福松の辻本家が、明治38年(1905)に利休屋敷跡を購入します。その後、二代目の辻本豊三郎が、新たに屋敷を建てて『洗心洞』を名付けます。この屋敷と茶室は、昭和20年(1945)の堺大空襲で戦災をうけますが、一部焼け残り京都の別荘地修学院へと移築されます」
――空地のようになっていたのは、移築後の話なのでしょうね。
木村「利休屋敷跡には、大徳寺の山門金毛閣の改築工事で出た古材を使って、昭和53年(1978)に、椿井の屋形が再建されます。これに尽力したのが大亀和尚で、新たな観光名所になったのです」
――なるほど、そういうつながりがあったのですか。
木村「こちらには、大綱宗彦の墨跡による『懐旧』の扁額が展示されています。かすれてほとんど読めないのですが、板に刻まれている文字を読めるようにしました」
――これは、何か特殊な光をあてたりしたのですか?
木村「そんなすごい技術ではなくて、真っ暗にしてLEDライトを横から当てて浮き上がらせたのです」
――そんなことで読めてしまったのですね(笑)
木村「もうひとつの板は、大亀和尚が書いた椿井の由来です。一緒に展示されているのは、金毛閣で使われていた古釘です。金毛閣は何度か改修されている(正確には、利休が改修を行って以降9回)ので、その時に使われたものの可能性もありますが、利休当時の古釘の可能性もあります」
――利休屋敷跡は、さかい利晶の杜の開館に合わせて更に整備されましたが、大亀さんの力がなければ無かったことですよね。
■堺に茶室を
木村「大仙公園にある黄梅庵と伸庵という2つの茶室はご存じですよね」
――はい。取材したことがあります。当時は堺にいい茶室があまりなくて、あの伸庵と黄梅庵が移築されたと聞きました。
木村「個人所有の茶室はあるのですが、ああいった形で公共で使えるいい茶室が少なかったのです。あの2つの茶室は、堺市博物館の開館に際して移築されたもので、それには戦後の荒廃した堺に茶の湯を復興させようとした大亀和尚の働きかけがあったのです」
――そういう背景があったのですか。大亀さんは、堺市の文化施策をリードしたりしていたのですか?
木村「そこまでではないでしょうが、堺の文化事業に大亀和尚は関わっていました。堺市博物館が出来たのは昭和55年(1980)ですが、お茶に関するものがなく、お茶の名所を作ろうということになったのです。黄梅庵は、もともとは堺の茶人今井宗久ゆかりの茶室として奈良県今井町にあったものですが、電力の鬼と言われた松永安左衛門(号は耳庵)が譲り受けていたものです。耳庵は近代の大茶人で、大亀和尚とも交流がありました。耳庵の死後、大亀和尚が働きかけて耳庵の遺族から譲り受けて堺市に寄贈したのです」
――大亀さんの交友関係は幅広いですね。伸庵の方も大亀さんが関係しているのですか?
木村「伸庵はもともとは東京にあり、東都道具商・川部太郎の邸宅で、近代数寄屋建築の巨匠・仰木魯堂の設計です。経緯があって、戦後に福助の辻本家の所有になっていました」
――また辻本家がでてきましたね。
木村「大亀和尚と辻本家は昵懇の間からでした。大亀和尚が堺で活動する際には、辻本家がサポートしていたのです。大亀和尚は辻本家に働きかけ、辻本家は文化事業の一環に貢献する形で伸庵を堺市に寄贈します。仰木魯堂は耳庵とも昵懇で、黄梅庵と伸庵は共に堺に来る運命だったのかもしれませんね」
――なるほど。椿井だけでなく、伸庵も黄梅庵も大亀さんの尽力あってこそなんですね。大亀和尚の働きがなかったら、堺の茶の湯環境は随分淋しいものになっていたかもしれませんね。
木村「こちらに展示している帛紗は、堺市博物館の開館記念の茶室披きの時に記念品として福助株式会社が制作したものなのですが、これをプロデュースしたのも大亀和尚です」
――今でいうノベルティグッズのプロデュースまでしていたのですね!
木村「江戸末期に異国情緒のある堺更紗というものが流行ったそうなのです。それがどんなものだったのか、残念ながらわかっていないのですが、こういうものであろうと作ったのです。オランダ風の衣装や中国風の衣装を着た男女が描かれ、かつて貿易で栄えた自治都市堺を彷彿とさせます。来由記からも大亀和尚の強い思いがうかがえます」
大亀和尚の個人的な堺とのつながりを取り上げた第1章に対して、堺の茶の湯文化復興という大きな事業に貢献したことを取り上げた第2章はいかがだったでしょうか。椿井や茶室のような後世に残る文化資産を堺にもたらしたことは、計り知れない貢献といえるでしょう。
ただ、それ以上に堺更紗に込められた思いに、立花大亀という人の大切な部分が現われているような気もします。
次回、レビュー後篇では、第3章「和比とさび」を紹介し、立花大亀の精神にいっそう深く触れてみたいと思います。
さかい利晶の杜
堺市堺区宿院町西2丁1番1号
072-260-4386
http://www.sakai-rishonomori.com/
企画展「立花大亀と茶の湯 3世紀を生きた堺の禅僧」
会期:2019年9月14日(土)~10月20日(日) (9/17、10/15は休館)9:00~18:00(入館は17:30まで)
観覧料:一般300円、高校生200円、小学生以下100円