古墳時代の堺には、日本で唯一最大の焼き物製造センターがありました。
それは堺市の中区や南区、そして和泉市・大阪狭山市に広がる一帯で、陶邑(すえむら)と呼ばれていました。この陶邑が無ければ、日本の焼き物の歴史はまったく違ったものになっていたかもしれません。
そんな陶邑をフォーカスした堺市博物館で開催中の企画展『堺に窯がやってきた!』(2018年7月14日~9月24日)を担当された学芸員の橘泉(たちばないずみ)さんに、
前篇では展示を案内していただきました。この後篇では、須恵器の価値やヒミツについて迫ります。
■陶邑(すえむら)のヒミツ
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▲中区の陶器地区にある陶器川の土手。この斜面から窖窯(あながま)跡が多数みつかっている。こうした丘陵地の斜面が須恵器を焼く登り窯を作るために必要だった。 |
陶邑は500年の歴史の中で、800基もの登り窯が作られたといいます。
――どうして、堺市でこんなに沢山の登り窯が作られ、陶邑と言われるような須恵器の生産地になったのでしょうか。須恵器を作るのに適した土や登り窯を作るのに適した地形がある丘陵地帯だからというのはきいたことがあります。
「そうですね。それであっています。窯が沢山作られたのは、燃料になる木が生えていたからです。窯はアカマツの生えている近くに作り、周辺の木を使い尽すと、また木のある所に移動して新しく窯を作りました」
――それで沢山窯が出来たのですね? 前篇でも窯が変わるお陰で須恵器の時代が特定しやすいというお話を聞きました。地図を見せていただくと陶邑は広いエリアに広がっているのがわかりますが、古いエリアや新しいエリアといった違いはあるのですか?
「地域の差はなく、陶邑にまんべんなく窯があります。ただ栂地区では、新しい時期の窯は見つかっていません。エリアごとの傾向としては、古い窯は谷の入口付近に造られ、徐々に奥に入っていくと考えられています。それと、ここに陶邑が出来たのは、河内や奈良あたりにあったヤマト政権との距離感の問題でしょう。ヤマト政権からすると管理しやすく、陶邑からすると消費地が近くにあることになります」
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▲陶邑のあったエリア。泉北丘陵地帯を中心に多数の窯跡がみつかっている。 |
この陶邑には、窯だけでなく中区陶器にある『陶器千塚』といった古墳群も発見されています。ところが、少し北にある百舌鳥古市古墳群とは別の古墳群になるのだそうです。
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▲現在の精華高校の敷地にもいくつかの古墳がある。これは陶器千塚29号墳と名付けられた古墳の解説。 |
――陶邑の古墳は、百舌鳥古墳群に入らないのですか?
「入りません。お墓も違う作り方で作られています。陶邑の古墳は、須恵器を作っていた集団のリーダーなどのお墓と言われていますが、百舌鳥古墳群と違って石作りじゃない古墳もあるのです。埋葬施設自体を木で枠組みを作って、粘土をはって窯のようにして作るのです。その中に入れた遺体を、直接じゃなくて埋葬施設自体に火をかけて焼くのです」
――お墓ごと焼くなんて、ダイナミックな火葬ですね。
「これは火葬とは言わずに火化(かか・ひか)と言います。火葬とは違う概念です。またなぜか焼かないままのときもあるのです」
――当時は土葬が一般的ですよね。すごくロマンチックに言えば、やっぱり生前の仕事に似せた形で、窯をつくって火を使って葬ったのでしょうか?
「わかりませんが、ものすごくロマンチックに言えばそうかもしれませんね(笑)」
■朝鮮半島から伝わって来た最新技術
百舌鳥古墳群とは、また違った埋葬をしていた陶邑の人々。
彼らはやはり朝鮮半島からやってきた人々だったのでしょうか?
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▲陶邑で作られた古い須恵器。朝鮮半島のものとよく似た形や模様が使われている。 |
「作り始めの頃は、実際に朝鮮半島から渡って来た人が作っていたことは確かでしょう。そこに徐々に日本人もまじっていったのではないかと推測されるのですが、正確な所はわかりません。朝鮮半島から来たのも、きっと一回だけではなく、何度も最新の技術をもってやってきたのではないかと思われます。須恵器は今の焼き物の原点となるような技術を使って作られたのです」
――ロクロもそうした技術の1つですよね。須恵器はどんなロクロを使って作られたのでしょうか?
「この時代のロクロは見つかっていないのです。木で作っていたからなのか、全然見つかっていません。ロクロを使っていた穴かな? というのは出てきていますが、どういうロクロだったのか構造は不明です。手で回していたのか、足で回していたのか。堺市博物館のロクロのイラストも想像図なのです」
――でもロクロを使ったことはわかっているのですか?
「はい。ある程度の高速回転で、遠心力を使うぐらいの回転だったと思われます」
――ロクロはもともとどこで発明されたものなのですか?
「おそらく中国が発祥でしょう。中国から朝鮮半島を伝わって陶邑に入って来ました」
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▲須恵器の壺・甕の作り方に描かれたロクロのイラストも想像のもの。 |
――朝鮮半島に残る焼き物や窯との比較研究などは行われていないのですか?
「考古学の世界では、土器の形、窯の形の比較をしています。これまで朝鮮半島での調査が進んでいなかった部分もあるのですが、今では進んできていますので、これからでしょうね。ただ、高句麗(こうくり)のあった朝鮮半島北部の調査が進んでいない。本当は北部の方が当時は大きな権力があったわけですから、今後調査が進めば面白いと思います」
――当時の朝鮮半島にはいくつもの勢力があったわけですが、陶邑はどこから一番影響を受けているのかというのは分かっているのでしょうか?
「伽耶(かや)のものが似ています。新羅(しらぎ)・百済(くだら)のものも入ってきていますが、一番多いのが伽耶のものです。伽耶の中でも小さな国にわかれていたみたいですが、その中のどの国のものが多いのかは議論があります」
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▲現代の陶芸で使われている手回しロクロ。古墳時代から現代に受け継がれた技術です。 |
伽耶といえば、朝鮮半島の南部にあった国。日本との関連も深い国だったといわれています。新羅や百済といった大国に挟まれて、いち早く姿を消してしまった。そんな国の技術が日本に渡ってきたのにはどんなドラマがあったのでしょうか。祖国を離れ、貴重な技術が受け継がれたことも、不思議な歴史の綾なのでしょう。
■焼き物の文明開化
これまで話題にしてきた須恵器が日本に登場する前の焼き物といえば土師器(はじき)でした。
堺市中区には、土師(はぜ)という地名もあれば、陶邑のエリアの中に陶器(とうき)という地名も残っています。古墳時代には、土師氏という人々が存在したことも知られていますが、須恵器における陶邑のように、土師は土師器製造センターだったのでしょうか?
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▲中区土師町のお隣土塔町にある土塔。行基が作ったとされるこの土と瓦のピラミッドも、土木技術に優れた土師氏の影響もあったようです。 |
――土師器は、土師氏が土師で作っていたのですか?
「土師氏は、土器も作りましたが、土木もしているし、そればかりではありません。土師器も土師に関わらずあちこちで出ます」
――土師器と須恵器を、古墳時代の人たちはどう使い分けしていたのでしょうか。
「須恵器は直接火にかけることができませんでした。直接火にかけると割れてしまう。けれど、堅くて水が漏れにくいから液体を貯めることができる。ひょっとしたら発酵させてお酒なんかを造っていたかもしれまあせん。一方土師器は焼きが甘くて水が染みてしまう。しかし、煮炊きに使うことができる。そういった使い分けをしていました。須恵器は作られなくなりますが、土師器はその後もずっと作られ続けました」
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▲塔の飾りも須恵器で作られた。 |
――どうして須恵器は作られなくなったのでしょうか?
「燃料が沢山いるなど須恵器はコストが高くついたのです。また、緑釉陶器など釉薬を使う焼き物や備前焼など六古窯と呼ばれるような新しい陶器や磁器も登場してきました」
――須恵器と陶器はどう違うのですか?
「人によっては須恵器を陶器の中に含みますが、英語でストーンウェアという炻器(せっき)の仲間に須恵器を分類することもあります。日本でも、もともと陶器と書いて『すえき』と読ましていたのですが、ややこしいので三文字の須恵器と書くようになったぐらいですから。焼き物の特徴としては、陶器も硬いのですが、水が染みます」
――では、磁器は?
「磁器は、陶石という石を細かく砕いて使います。磁器は薄くて硬くて水も漏れません」
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▲焼き物の区別(~抜粋)。 |
■古墳時代の文明開化は堺から
古墳時代の陶邑は日本で最大の須恵器製造物流センターで、陶邑で作られた須恵器はヤマト政権によって管理され、日本全国へと流通しました。
その後、奈良時代・平安時代になって中央政権の役所が地方に作られるようになり、役人たちの使う日用品の需要が増すと、地方でも窯が作られるようになり、陶邑はすたれてゆきます。しかし、陶邑で培った様々な技術があったからこそ、地方でも焼き物文化が花開いたのです。
つまり、焼き物を中心とした古墳時代の文明開化は、堺の陶邑から始まり、全国へ広がっていったといえるのではないでしょうか。
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▲燃料のアカマツが少なくなり、遠い京都の平安京に都がおかれたこともあり、陶邑では次第に須恵器は作られなくなる。 |
学芸員の橘さんは、「考古学の世界では、陶邑を知らないなんてことはありえない」と言います。その重要さにも関わらず、地元の堺市民に陶邑はあまりにも知られていません。陶邑をもっと知ってほしいというのも、橘さんが今回の企画展にこめた思いでした。
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▲泉北ニュータウンの開発で、調査が行われた。開発の影響もあって失われた窯も少なくない。地図のピンク色の部分は遺跡がないことがわかっているエリア。 |
陶邑があまり知られていない原因の1つは泉北ニュータウンの開発にあるのかもしれません。
陶邑のあった南区の広範囲が、泉北ニュータウンとして開発される際に、発掘調査が行われ、陶邑の遺跡の多くが調査終了後に潰されてしまいました。一部移築されたものもあったようですが、ほとんどは団地の下敷きとなって消えています。地域の住民にとって、消え去った遺跡をリアルに感じることは難しいでしょう。
ユネスコ世界文化遺産登録で盛り上がるあまり、つい百舌鳥古墳群にばかり堺市民も目がいってしまいますが、陶邑は同じ古墳時代でもまた違った魅力と価値を持つ遺産ではないでしょうか。むしろ、権力者のシンボルである巨大古墳よりも、人々の日常生活を便利にした陶邑の方が、その後の社会に対してもっと大きな影響を与えたことでしょう。
古墳時代の文明開化を起こした陶邑は、要チェックです。
堺市博物館
大阪府堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁
企画展『堺に窯がやってきた!』
会期:2018年7月14日(土)~9月24日(月・祝日)
休館日:月曜日(ただし、祝・休日は開館)