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≪1918−1928:独立10周年≫(1928年 リトグラフ、紙) |
アール・ヌーヴォーの旗手として知られるアルフォンス・ミュシャは、チェコ出身の画家です。第一次世界大戦前夜、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあった祖国チェコ。そして、オスマン帝国の支配下にあった同根のスラヴ諸民族のために、ミュシャは20点にもなる入魂の大作≪スラヴ叙事詩≫を描きあげました。
2017年、はじめてチェコ国外に全20点持ち出された≪スラヴ叙事詩≫を展示した国立新美術館の『ミュシャ展』は、66万人弱もの来館者を集めたのでした。この『ミュシャ展』にも協力したのが、世界有数のミュシャ・コレクションを誇る堺アルフォンス・ミュシャ館だったのです。
■≪スラヴ叙事詩≫の前奏曲
ミュシャの人生と作品を知るにつれ、少し強引かもしれませんが、戦国時代に大名たちの支配を何度もはねのけ独立を守り続けた堺市に、民族独立に尽くしたミュシャのコレクションがあることは、相応しい事のように思えてきました。実は、この≪スラヴ叙事詩≫の前触れともいえるような作品が堺アルフォンス・ミュシャ館には所蔵されています。
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▲≪スラヴ叙事詩≫を予感させる≪ハーモニー≫(1908年 油彩、カンヴァス)。堺アルフォンス・ミュシャ館所蔵の中でも注目すべき作品です。(画像提供:堺市) |
作品タイトルは≪ハーモニー≫。縦1.5m弱×横4.5m弱の、これもなかなかの大作です。
堺アルフォンス・ミュシャ館の学芸員川口祐加子さんに解説していただきましょう。
「この作品のテーマは調和ですが、本作の具体的なミュシャの意図は分かっていません。一説によれば、画面の右端の暗い色調で苦しんでいる様子を描いているのが理性、左側が愛。理性と愛、富と貧困、生と死、苦しみと喜び、人間が生きていく上での様々な要素の調和がテーマだそうです。画面中央の人物が掲げるわっかはスラヴ民族統一のシンボルで≪スラヴ叙事詩≫にも描かれている要素です」
背景に浮かび上がる巨大な人物の描かれ方も、後の≪スラヴ叙事詩≫のスぺクタルな画風と共通するものです。製作年は1908年、チェコに帰国する前で、この頃ミュシャはアメリカにもたびたび滞在していたパリ時代の作品で、ミュシャが≪スラヴ叙事詩≫の準備をこの頃から始めていたことを伺わせます。
20点にも及ぶ大作≪スラヴ叙事詩≫が再び来日するかはわかりませんが、この≪ハーモニー≫や≪クォ・ヴァディス≫には堺で会うことが出来ます。
ミュシャが≪スラヴ叙事詩≫を描きあげたのは1926年、66才の時です(1点≪スラブ菩提樹の下で行われるオムラジナ会の誓い≫のみ未完で終わる)。そして1928年に≪スラヴ叙事詩≫展が開催され、作品はチェコ国民とプラハ市に寄贈されます。
しかし、ミュシャとチェコ国民の幸せは長くつつきませんでした。彼らの運命は、次なる悲劇へと突き進みます。それはナチスドイツの台頭でした。
第一次世界大戦で敗戦国となったドイツは、日本も含む戦勝五大国によってヴェルサイユ条約を突き付けられます。それは、莫大な賠償金や領土の割譲、軍備の制限を含んだ厳しいものでした。日本もドイツからアジア太平洋の植民地を奪い取り、自身の帝国主義を加速させることになります。その後、この条約を不当に重すぎると感じたドイツ国民の不満が母胎となってナチス・ドイツが登場します。
1938年3月にオーストリアを併合したヒトラーのナチス・ドイツは、チェコスロバキア共和国にも目を向けます。焦点となったのは、チェコスロバキア共和国国内にあってドイツとの国境地帯に広がるズデーテン地方でした。この地方にはドイツ系の住人が住んでおり、「圧迫されているドイツ系住民」を口実として、ナチスはチェコスロバキア政府を恫喝しはじめたのでした。チェコスロバキアはこの圧力に耐えきれず、1938年にズデーテン地方を割譲、翌1939年にはチェコスロバキアそのものが解体され、チェコは併合されたのでした。
そして、チェコスロバキア政府のために紙幣や切手をデザインしたミュシャは、ドイツの秘密警察(ゲシュタポ)に拘束、過酷な尋問を受けます。帰宅を許されたものの、高齢であったミュシャは前年から患っていた肺炎を悪化させ7月14日にプラハで死去します。
遺された≪スラヴ叙事詩≫も不遇でした。ナチス・ドイツの占領後は、チェコはソビエトのスターリン政権による支配を受けます。そしてヒトラーにもスターリンにも好まれなかったミュシャの大作は、長くカンヴァスを巻かれたまま眠りについていたのでした。
■すれ違った晶子とミュシャ
視点を変えてミュシャと日本の関係についても見ていきましょう。時計の針を二つの大戦前に巻き戻します。
登場人物は堺出身の芸術家・与謝野晶子です。
堺アルフォンス・ミュシャ館で開催されていた企画展『あこがれ』は、ミュシャに影響を受けた人々をテーマとしていました。与謝野晶子の夫である与謝野鉄幹が主幹となった文芸誌『明星』は最新の西洋美術を紹介しています。
「影響というよりも、そのままなので、今の感覚なら問題になりますよね」
と、川口さんが言うのもうなずけます。1897年から98年に出版されたミュシャのデザインが、1900年出版の明星でそっくり真似されています。パクリというよりも、ほとんどトレースです。著作権のような概念が当時は希薄だったからでしょう。いずれにせよ、ミュシャに多大な影響を受けた日本の作家たちが、晶子の本の装丁を多く手掛けたのでした。
「晶子は乱れ髪で有名ですが、アール・ヌーヴォーでも女性の髪の毛を曲線で印象的に描いています。女性の髪に精神性が見出された時代といえるでしょう」
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▲≪羽根≫(1899年 リトグラフ、紙)のような美しい髪の描き方を日本人の作家たちは好んで模倣した。(画像提供:堺市) |
与謝野晶子は、ミュシャとニアミスを犯しています。
『明星』が風紀を乱すと廃刊に追い込まれた与謝野鉄幹は1911年にフランスへ向かい、夫を追って晶子も1912年にパリへと渡ります。この時、晶子が出会ったのが、≪考える人≫を生んだ彫刻家オーギュスト・ロダンだったのです。
実はミュシャとロダンの間には親密な交流があり、ロダンらに触発されミュシャも彫刻作品を残しています。堺アルフォンス・ミュシャ館には、≪ラ・ナチュール≫≪岩に座る裸婦≫』といったミュシャの彫刻も所蔵されています。
晶子はパリに半年在住しましたが、ミュシャは1910年にチェコへ帰国しています。わずかに運命の針がぶれていたら、ロダンを通じてこの2人がパリで出会っていたことも十分にあったでしょうね。
■アール・ヌーヴォーの再評価と日本でのミュシャブーム
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▲ミュシャコレクションによって日本にミュシャを広めた土居君雄さんに、チェコスロバキア政府から贈られた賞状。(写真提供:堺市) |
生活に美をもたらそうとしたアール・ヌーヴォーの最盛期は1900年頃で、ミュシャがチェコへと帰国した頃にはモダンデザインを志向した幾何学的なアール・デコなど抽象的な芸術へと流行は移っていました。
「具象的なアール・ヌーヴォーは長らく忘れ去られていたのですが、1960年代にアール・ヌーヴォーの再評価がはじまりました。そして日本では土居君雄さんの功績が大きかった。1980年代に、ミュシャの息子(イジー)さんと一緒になって、ミュシャを広めようと日本各地で展覧会を開催された。国立新美術館の『ミュシャ展』で2017年の美術展覧会入場者数1位になりました(美術手帖
より)。66万人弱もの入場者数を記録したのも、土居さんが日本にミュシャを根付かせたことが大きいでしょう。チェコでも土居さんの功績は大きく評価され、文化功労者として表彰されています」
そして1994年に土居君雄さんが集めた500点にも及ぶミュシャ・コレクションは、堺市に寄贈されました。
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▲土居君雄さんが授与されたメダル。(写真提供:堺市) |
「堺アルフォンス・ミュシャ館では、年に三回企画展を開催しています。作品保護の観点からも、なるべく続けての展示はしていないので、企画展ごとに違う作品をご覧いただけます」
おおよそ一回の企画展で展示される作品は70~80作品ほどだそうです。
さて、4回に渡ってお届けしたミュシャと堺アルフォンス・ミュシャ館の記事。芸術家としてミュシャは想像以上の存在で、堺アルフォンス・ミュシャ館が所蔵するコレクションの価値も「世界有数のコレクション」と銘打つのに十分なものでした。惜しむべくは、そのコレクションの膨大さに対して、いくらなんでもマンションの2フロアは小さすぎるし施設として不十分なことでしょうか。
政令指定都市でありながら、市立の美術館をもたない堺市には、ぜひともミュシャ・コレクションを中心にした市立美術館の設立をお願いしたいものです。
だって、自治と庶民の文化を誇る堺市に、民族の独立と庶民のために自分の才能を惜しみなく費やしたミュシャはぴったりの芸術家ではありませんか。
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▲堺アルフォンス・ミュシャ館2階にはミュージアムショップも。ミュシャ関係の書籍やグッズが充実していました。 |
堺市立文化館 堺アルフォンス・ミュシャ館
堺市堺区田出井町1-2-200 ベルマージュ堺弐番館2F~4F
○3F、4F、堺 アルフォンス・ミュシャ館
○2F玄関、チケットカウンター、ショップ
TEL 072-222-5533
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