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1888年 鉛筆・紙 |
堺 アルフォンス・ミュシャ館は、「カメラのドイ」の創業者土居君雄氏の遺族から寄贈された世界有数のミュシャコレクションを所蔵する美術館です。国立新美術館で開催された「ミュシャ展」の影響で来館者もしだいに増えました。
一方、デザイナーのイメージが強いミュシャですが、「ミュシャ展」では一連の大作≪スラヴ叙事詩≫全20点が母国チェコ以外で初公開され、画家としての実力に多くの人が圧倒されました。
第2回では、デザイナーと画家というミュシャの二面性がどうして生まれたのか、堺アルフォンス・ミュシャ館の学芸員川口祐加子さんにお話を伺いながら、当時の時代背景も踏まえて迫っていきます。
■世紀末パリのミュシャ
アール・ヌーヴォーの旗手と言われるアルフォンス・ミュシャですが、出身地は当時オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にあったチェコの田舎町です。ミュシャという読みもフランス語の発音で、チェコ語ではムハという発音がより近いそうです。
父親は裁判所の廷吏で、経済的には一般的な家庭。芸術家を養えるほど裕福な家庭でなく、ミュシャはパトロンとなった貴族の支援を得て、ウイーンやミュンヘンで美術の勉強をしていました。その後、パリでも美術学校に通いますが、パトロンからの支援は無くなり、本格的に挿絵の仕事をはじめています。
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▲大女優サラ・ベルナールの舞台≪ジズモンダ≫の演劇ポスターを描きミュシャは売れっ子デザイナーへと躍進した。1845年 リトグラフ・紙 |
下積みのミュシャを一躍有名にしたのは、大女優サラ・ベルナールの演劇ポスターの仕事でした。
これは、ミュシャの回想によれば、1884年のクリスマスにたまたま印刷会社にいたミュシャの所にサラのポスターの仕事が舞い込んだ。他のデザイナーが休暇をとっていたため、ポスター作成の経験がほとんどなかったミュシャが仕事を引き受け、出来上がったポスターは大きな評判となった。ミュシャは一気に有名デザイナーへの道を駆け上がり、サラもミュシャを気に入って専属デザイナーとなった……ということです。
ミュシャはサラと6年間の専属契約を結び、人気のデザイナーとなります。しかし、彼がその評価に満足していたのかというと、どうやらそうではないようです。
「ミュシャは本当は歴史画を描く画家になりたかったのです。一方で、しかし彼は紛れもなくアール・ヌーヴォーの画家でもあったのです」
このあたりの事情は一般にはなかなかなじみが薄いものです。
理解のためにまずは、アール・ヌーヴォーとは何か、そしてアール・ヌーヴォー以前の西洋芸術の状況とはどういうものだったのかに注目してみましょう。
■生活を芸術的に! 大量生産時代の寵児
アール・ヌーヴォーの登場以前の西洋美術は、もっぱら王様や貴族、教会のためのものでした。
「それまでの美術というのは、歴史や神話を描いて、美術権力の中枢である芸術アカデミーという国家機関が評価をくだしていました。19世紀後半(印象派が登場する)以前から、アカデミー中心の体制についてすでに異論が出始めていた。旧体制に代わる美術の方向性が求められていた中、ジャポニズムなどヨーロッパにとって新しい芸術が伝わったことなども影響し、印象派のような主題(日常生活場面など)や画法の点で新しい芸術の方向性を目指す芸術家たちが出現したのです」
モネやルノワールなど、日本でも人気の印象派ですが、イデオロギー対立や反骨精神だけでブームを起こしたわけではありませんでした。当時の社会状況も印象派の躍進の大きな要素でした。
「画商という存在が出現したのです。アカデミーで認定をもらわなくても、画商と契約すれば継続的にお金をもらえる。画商の台頭も、顧客層が変わってきたからです。産業革命の影響でブルジョワジーが登場しました。経済的にゆとりが出てきたブルジョワジーは絵画を欲するようになり、新たな顧客層となりました。ところが(これまでアカデミーが推奨してきた)歴史画や神話画はモチーフを読み解くのに知識が必要でした。そんなものよりも、市民階層から新興したブルジョワジーにとっては、ピクニックやカフェの様子など日常の事を描いたものの方が良かったのです」
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▲同時代の作家ウジェーヌ・グラッセによる≪マルケ・インク≫ポスター。1892年 リトグラフ・紙 |
そして19世紀後半になるとイギリスのウィリアム・モリスによって、芸術と生活を一致させようとするアーツ・アンド・クラフツ運動が生まれます。これも産業革命によって、粗悪な大量生産品が生まれたことに対して、庶民の生活に美的なものを取り入れようとはじまったものです。アーツ・アンド・クラフツ運動は、イギリス以外の国にも影響を与え、フランスではアール・ヌーヴォー(新しい芸術)が登場します。
「イギリスのアーツ・アンド・クラフツ。オーストリア・ドイツのユーゲントシュティール(青春様式)。そして、フランスのアール・ヌーヴォーと国によって呼称は違いますが、産業革命後の進展も影響し、多くの人々が室内を美しく飾ることに関心を持ち装飾芸術が盛んになった。常に人間を主題にしてきたヨーロッパは、近代になって様々な世界の芸術に接し、自然をテーマにした東洋の芸術観にも影響を受けた。アール・ヌーヴォーは自然を取り入れるなど様々な影響を受け、特に装飾美術で多く取り入れられた」
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▲繊細な描き込みが美しいリトグラフ、≪羽根≫。1849年 リトグラフ・紙 |
芸術家の志向と、庶民の志向が合致し、産業革命によって生み出された大量生産の時代がアール・ヌーヴォーを後押ししました。
ミュシャを有名にしたのが女優サラ・ベルナールの演劇ポスターだったように、時代は広告とプロダクトデザインを必要としていたのです。ミュシャは、様々なポスターやカレンダー、お菓子のパッケージまでも手掛けます。消費者にいかにアピールして買ってもらうか、何を描けば関心を引き付けられるか。ミュシャの美しい女性と自然の植物と曲線が一体化した優美なデザインは、まさに人々の望むものとマッチしました。ミュシャは紛れもなくアール・ヌーヴォーの旗手であったのです。
しかし、大量生産の時代は流行の移り変わりも激しいものです。ミュシャのデザインは、100年たった現代にも通じる普遍性を感じますが、世紀末に生まれたアール・ヌーヴォーの最盛期は1900年前後で、その後幾何学文様を取り入れたアール・デコなど抽象芸術がもてはやされるようになると、アール・ヌーヴォーは古臭い芸術として忘れ去られて行きます。
アール・ヌーヴォーが衰退する中、ミュシャも1910年にチェコに帰還します。それは一つの時代の終焉だったのかもしれません。しかし、それ以上にミュシャには、祖国チェコに帰らなければならない理由があったのです。
当時のチェコは、オーストリア・ハンガリー帝国の支配下にありました。すなわちスラヴ民族たるチェコ人が、異民族のオーストリア人たちに支配されている状況。そんな中、チェコでも独立の機運が高まっていたのです。
世紀末を超えた20世紀は民族自決と戦争の時代でした。ミュシャは風雲急を告げるチェコへ向かいます。そこにミュシャが歴史画を描かねばならない理由を見出すことが出来ます。
※1枚目はミュシャによる≪自画像≫
堺アルフォンス・ミュシャ館(堺市立文化館 )
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