SHOP

まちの変遷を知るハンコ屋さん 万字堂

manjidou_00_face.jpg
ハンコ屋「万字堂」のカウンターの奥に座るのは、82才になる廣浦明代さんです。昭和6年から続く「万字堂」が綾ノ町から妙國寺前への移転を経た今も、廣浦さんは父と弟の跡を継いでお店を守っています。 
「こんなに長く続けるとは思っていなかった」 
という廣浦さんに、「万字堂」のこれまでをお聞きすると、それは堺の移り変りが垣間見えるものでした。 
 
 
■戦前からのハンコ屋さん 
manjidou_01_hiroura01.jpg
▲昭和6年から続く「万字堂」を守る廣浦明代さん。
「現在『万字堂』は堺に四店舗あります。最初の万字堂は御陵前にあって、『万字』さんという方がお店を開いたんです」 
ハンコ屋さんにぴったりすぎて名字から出来た店名とは意外でした。この御陵前の万字堂を経営していたのが、廣浦さんの父・廣浦喜代松さんのお母さんの実家で姓が万字なので、この店名が出来たそうです。 
manjidou_01_kanban01.jpg
▲開店にあたって問屋さんから贈られたという「万字堂」の看板。綾ノ町店から引き継いでいます。

「父の廣浦喜代松が綾ノ町店を出したのが昭和6年のことでした。お店を出すのに随分苦労したと聞いてます。その時に問屋さんに立派な二枚の看板を作ってもらいました」 
大きな木の看板には様々な書体の文字が書かれています。 
「ゴシック体や丸ゴシック体に英字まで。こんな看板はなかなかないでしょう」 
二枚の看板は今は妙國寺店の店内に掲げられています。 
manjidou_01_kanban02.jpg
▲こちらも同じく贈られた看板。様々なフォントが彫られています。

開店した昭和6年といえば満州事変の年。その後、日中戦争・太平洋戦争と、日本は戦争の時代に。昭和8年生まれの廣浦さんは、国民学校の6年生の時に疎開を経験しました。 
「縁故疎開は出来なくて、美木多小学校(現在は堺市南区)に集団疎開をしました。みんなと一緒に寝起きして、さつまいもとさつまいもの茎で生きていました」 
その後、堺も焼野原になって終戦を迎えます。 
「終戦後は焼け出されてどこもハンコが無くなってしまったので、仕事は沢山あったんですが、ハンコを彫る職人さんがいなくて困ったんだそうです」 
まちが焼かれただけでなく、ハンコを彫る技術を持った職人さんも戦争で失われていたのです。戦争の痛手から回復し、仕事が順調に回って忙しくなりはじめたのは、昭和20年の終戦から数年たった25年頃からだったそうです。 
 
喜代松さんがお店を切り盛りするうちに、明代さんの弟の喜明さんもお店で働くようになります。 
「万字堂でハンコを作ってもらうと店が大きくなる」 
そんな噂が生まれたこともあって仕事が増え、万字堂は堺東にも店舗を出します。本家の御陵前店も東湊に店舗を出し、「万字堂」は四店舗になります。 
「昭和40年~50年ごろが一番良かった時期じゃないでしょうか。保険会社などからの注文がすごくありました。一つハンコを作れば、一生使うから大切にされたんです」 
廣浦さんの姪で喜明さんの娘の通代さんは、同じ通りで数軒先の実家から朝学校に通って、夕方はお店に帰ってくるというお店の子で、随分賑やかなことだったでしょう。後に一緒に働くことになる通代さんも、「今思えば、贅沢もさせてもらったように思います」 と、この頃は幸せな時代だったと振り返ります。 
しかし、そんな家族を不幸が襲います。喜代松さんと喜明さんが病で相次いで亡くなったのです。 
 
 
■戦後の堺を振り返る 
「父は随分、店のことを心配していました」 
しかし不安は的中し父子が時を置かずに続けて世を去りました。廣浦さんは、大黒柱を失った万字堂を守っていく決心を、姪の通代さんと一緒に店に出るようになります。 通代さんは言います。 
「その頃、母は堺東店へ行っていましたから、叔母と2人で店をしていました。だから、叔母のことを私の母だと思っていた人はすごく多いですよ」 
仲のいい叔母と姪が協力してお店を続けていましたが、12年前に借りていた店舗の建て替えに伴って、綾ノ町店は妙國寺前へと移転します。すでに日本全体の景気も落ち込んでいた時期です。
manjidou_02_myoukokuji02.jpg
▲阪堺線「妙國寺前」電停から徒歩すぐにある「万字堂」。
「父から引き継いだ頃ぐらいから次第に景気は悪くなっていって、平成になってぱっと変わりました。堺で商売をするのは本当に大変だと思いました。まず大きな企業が出ていきましたでしょう。お付き合いのあった所でも、フジカラーさん、大和川染工所さん、協和発酵さん……本社が移転したり、規模を縮小したり、ダイセルさんの跡も今はイオンが入りましたね」 
大きな企業だけでなく、まちのお店も少なくなりました。 
「中小企業も減りました。ここ(妙國寺)より南はまだましですけれど、北の方は静かになりました。同業者も辞めたところが随分あるんですけれど、だったら残った所の仕事が増えるかというと、増えないのがこの商売なんですよ」 
ハンコ屋さんは、取引先の業種を選ばない仕事だから、特定の業界だけではなく社会全体の景気の動向が見える仕事なのかもしれません。 
では、ハンコ屋さんの仕事とはどんな仕事なのか具体的に教えていただきました。 
 
 
■ハンコ屋さんのお仕事 
ハンコも、昔と違って機械彫りが多くなりました。しかし、万字堂ではもちろん手彫りの注文を受け付け、お客様のこだわりや予算に応じて様々な材料(印材)でハンコを作ることができます。 
「ハンコの印材の基本は象牙・黒水牛・白水牛・柘植の四種類です。好きな印材で作っていいんですよ」 
今では輸出輸入が禁止されている象牙ですが、禁止される以前に輸入されていた象牙が現在も使われています。象牙は手に取ると少し重く感じます。 
黒水牛と白水牛とは、どちらも水牛の角のことです。柘植は柘植の木のこと。 
「黒水牛は黒一色なんですが、白水牛は安いものは色が混ざっています。白一色のものが高いのですが、白でもそれぞれ色が違います。柘植の木も、柘植といっているだけで本物の柘植じゃないものも多いんですよ」 
この四種類に加えて、新しい素材としてプラスチックやシープホーンといった素材もあります。 
「今は色んな素材が出てきているので、覚えるのが大変です」 
manjidou_03_inzai01.jpg
▲代表的な印材のひとつ白水牛。白といっても白さは一通りではありません。
この印材に対して職人さんが手で名前を彫っていきます。お手持ちのハンコを見ていただければわかりますが、ハンコに彫られている文字は左右が反転した状態です。これはどんな工夫で彫っているのでしょうか? 
「職人さんが印材に直接逆字(反対になった字)を書き、鏡で映してちゃんとした字になるか確認します。その字を残して印刀で彫るのです」 
答えはシンプルなものでした。小さな印字面に逆字を書き、それを彫るのですから、高い技術が必要です。しかし、今は腕のいい職人も少なくなったそうです。 
「こんなことは普通お教えしませんよ。たまに、ハンコの字を見せて欲しいと訪ねてくる方もいらっしゃるのですが、それは無理です。饅頭屋さんがあんこの作り方を教えないのと同じです」 
どうやら今回は貴重な企業秘密の一端を教えていただけたようです。
manjidou_03_intou01.jpg
▲ハンコを彫る「印刀」。

廣浦さんご自身が逆字を書いて手彫りをするわけではないのですが、それでも父の喜代松さんから「字は綺麗に書かねばならない」と言われてきた影響で美しい字を書くように心がけてきました。 
「高校の時に書道部に入った程度で段をとったわけではないのですが、父からは『縦の線は縦にまっすぐに、横の線は横にまっすぐに。それが大切だ』と教わりました」 
万字堂の壁には、喜代松さんの書いた表札の見本が今も飾られています。 
manjidou_03_hyousatu01.jpg
 
もう一つ重要な印材として、印肉(朱肉)があります。今ではスタンプ台を使うことが多くなりましたが、本来の印肉は別物です。 
「印肉は硬くなるので、練る必要があります。しかし、スタンプは時間が立つと色あせるんですが、練った印肉は100年たっても変わらずに残ります。だから、官庁関係の書類は今も印肉なんです」 
印肉の使用は、いわゆるお役所仕事が保守的だからというのではなく、合理的な理由があったんですね。 
「そして印肉でも値段の違いがあるんです。落款に使う印肉は本当の朱色の朱肉です。色が鮮やかでしょう。これは値段もはります」 
絵や書に押す落款は、作品に直接入れるものですから、色にもこだわるものなのですね。 
 
manjidou_03_inzai02.jpg
▲落款などに使う朱色の「印肉」。
更に万字堂では、ハンコだけでなく以前は印刷も行っていました。 
「昔は、うちにもお店に活版印刷機があったんです。年賀状などを刷っていました」 
考えてみればハンコは、小さな印刷装置といえます。印刷とハンコの親和性は案外高いのかもしれません。ハンコ屋さんは、まちの身近な印刷所としての役割も果たしていたのです。 
「今では郵便局で年賀状の印刷までするようになってしまいましたからね。活字を作る人もいなくなってきましたし、活版印刷機を最近処分してしまったんです」 
 
 
小さな移り変わりにつれて業態も変化していくなか、40年も仕事を続けた廣浦さんの意欲は衰えていません。 
「今も、戦争中一緒に集団疎開したお友達と同窓会をするんですよ。みんな元気です。はじめた時は、この仕事をずっとするとは思っていなかったけれど、私はこうやって店に出て、お客さんとお話できるのが楽しい。家に閉じこもっていると孤独になってしまいますからね。できるだけ長くこの仕事を続けたいですね」 
以前に比べると寂しくなった堺が、再び復興した姿を見たいという廣浦さん。堺がまたフェニックスのように蘇り、景気の良くなった堺で廣浦さんには元気にお仕事を続けてほしいですね。 
 
 
万字堂綾之町店  
堺市堺区材木町西1丁1−17
電話:072-228-0858
 
 
 

灯台守かえる

関連記事

Remodal

Remodalテスト

Write something.


PAGETOP

remodal