大和川のほど近くにある、淡水魚ミュージアム『雑魚寝館』では現在30種類200匹前後の魚を生態展示。日本の淡水魚はもちろん、世界中のウナギが飼育されています。
館長の亀井哲夫さんは、追手門学院中・高等校の元校長で、もともと専門は政治思想で岡倉天心の研究をしていました。それがなぜ日本でも類を見ない淡水魚ミュージアムを作ることになったのでしょうか? その足跡をたどります。
■マニアの道から研究者へ
「36才の頃、住んでいた古い家に石のウスがあったんや。夏になるとたまった水にボウフラがわく。困ってると友達が『金魚かメダカでも飼ったらどうや』と言われたのがはじまり。それまで熱帯魚にも釣りにも何の興味もなかったよ」
歯切れのいい大阪弁で闊達に語る亀井さん。丁度、川魚にはまった友人の蜘蛛の研究者に声をかけられて川魚の生態調査へと出かけるようにもなりました。
「学校の仕事が終わってから深夜まで、関西一円の川を回ったよ。ちょっとおかしいやろ。お陰で30年前の川の様子が今ではよくわかってるれど」
川魚にはまった亀井さんに原稿執筆の依頼が舞い込みます。今は無き釣り雑誌『釣の友』から「研究者でもない、釣り人でもない、独自の視点で記事を書いて欲しい」との依頼です。
「原稿用紙7~8枚程度だったけど、毎月やろ。死ぬほど大変やった」
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▲『雑魚寝館』館長・亀井哲夫さん。深夜まで川に浸かり冷え切った体で帰路につき、ファミレスで食べる雑炊ほど美味しいものはなかったそうです。 |
独特の視点で、新しい切り口を毎回さがさねばなりません。
たとえば、琵琶湖で有名なホンモロコという魚の名前は、群れる魚なのでムレコからモロコへとなったと言われてきました。
「本当だろうか?」と亀井さんは疑問を感じます。
「江戸時代の琵琶湖の文献が二冊あって、二冊とも『モロコにはメスしかいない』と書いている」
もちろんそんな事はないわけですが、琵琶湖ではフナ寿司に使われるニゴロブナも子持ちで、ホンモロコも子持ちが珍重されます。
今も続くホンモロコ漁でも、子持ちのモロコを捕まえるため刺し網の目が大きくなっています。亀井さんは漁船に乗って現地で調査を行いました。獲れたホンモロコを調べると、子を持っていたホンモロコとそれ以外の比率は2.6:1でした。
「おそらく『もろもろ子持ちの魚』からモロコとなったのではないか」と亀井さんは結論づけたのでした。
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▲漁師さんをはじめ、魚に詳しい人たちが亀井さんのもとに貴重な魚などを持ち込んできます。 |
「これで終わったらただの論文や」
ここからが亀井さんの本領発揮です。
ホンモロコは、岸近くで泥の中のえさをとるタモロコという『ぼてっとした』フォルムの種から、沖合のプランクトンを追うためスリムな体形に進化した種でした。
「車のジャガーは昔、ベントレーやロールスロイスみたいな『ぼてっとした』フォルムだったが、モータースポーツにはまることでスポーティーなフォルムに進化した。そしてスポーティーであることをブランド化したんや」
ジャガーの進化とモロコの進化を重ね合わせた亀井さんは、日本のジャガージャパンの協力で色々なジャガーに乗って琵琶湖を一周したました。ジャガーのエンジン音を響かせて琵琶湖を走る亀井さんは教員としてもまったく型破りだったことでしょう。
「今見直すと間違いもあるけれど、目の付け所は良かったと思う」
亀井さんは『釣の友』に1年間で十二本の原稿を執筆しました。その中には長年謎とされてきた淀川のシンボルフィッシュ「イタセンパラ」の魚名の秘密を解き明かしたものもあります。
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▲どこで獲れた魚なのか、出所の確かな魚が集まってきます。 |
その後も、サンケイスポーツや共同通信社の依頼でコラムの連載をします。
「共同通信は通信社やったから、十数社の地方新聞が執筆したコラムを連載してくれた。おかげで記事を見た日本全国の読者のなかから連絡が来て情報が寄せられるようになったんや」
記事をきっかけにした多くの出会いが今の雑魚寝館へとつながります。
「19年前に週に一回。金曜日の夜に魚好きが集まるサロンとして作ったのが『雑魚寝館』。当時からお店のスタイルは僕がいなくても人が集まれるようにしてた」
こうして日本一の川魚のミュージアムができたのです。
■誰とでも出会う
破格の先生ですが、実は教師を夢見てたわけではありません。
「団塊の世代でね。大学ではまじめに勉強してないよ。卒業したけれど働く気はなくて、バイトで講師をやっていたら、いつの間にか教師になってしまった」
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▲仲間と必死にやることは後で大切な財産になる。 |
釣り雑誌に魚の記事を書いたり、琵琶湖をジャガーで一周したり、ついには雑魚寝館なる施設も
作ってしまう。そんな先生だったからでしょう。平教員だったのに、いきなり校長になりユニークな教育改革を実施しました。
「麻雀好きで遊んでばっかりで、色んな人と出会った。学校の先生はどうしてもひとつの型のタイプが多い。
偏差値だけじゃない。点数を取ることも大切だけれど、中高生の間にどれだけたくさんの人と出会うかが大切なんだ」
人の才能や面白さは色々ある。そこに焦点をあてていく職業倫理と個性を大切にした改革を行ったのだそうです。
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▲『雑魚寝館』には色んな大人たちが集まります。『雑魚寝館』統括ディレクターの阪口宗次さん(左)とアート作品などを手がける内田工作さん。内田さんがとってきた水車や山の写真を見ています。 |
▲内田さんだけでなく様々なアーティストの魚アートが沢山展示されています。 |
『雑魚寝館』が現在ウナギを中心にシフトしたのも、驚くような色々な人々との出会いがあったからです。
「追手門学院大学の市民講座で『アジアを食べる』をテーマに十二の講座が開催されることになったんだ。その中で『ウナギの蒲焼きが好きだそうだからウナギをテーマに講義をしてくれ』と頼まれてね」
引き受けたものの90分も講義をするのですから、いい加減なことはできません。
困っていると以前に四万十川の漁師さんから聞いたアオウナギのことを思い出しました。川でなく湾にいる美味しいウナギということでした。
今では四万十川でも手に入らないアオウナギとは何か?
この幻のアオウナギは、岡山の児島湾にいるウナギ取りの名人・清水さんとの出会い、食することができたのです。
「淡泊で上品なアオウナギは白焼きや蒲焼きにすると最高」
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▲大阪湾のアオウナギ(右)とイツキウナギ(左)。 |
元々江戸前というとウナギのことを指しています。
「江戸の人は江戸城の前海、江戸湾でとれるウナギを珍重して、利根川あたりにいるウナギを旅ウナギといって馬鹿にしていたようです」
アオウナギとは、川に上らずに海にいるウナギで、その中でも背中がアオ(グリーン)になったものをいいます。海にいるけれどアオでないウナギを『イツキウナギ』と呼んでいたよう。
「少し前に利根川河口に調査にいったけれど、漁師さんが30本程ウナギをあげてアオは一本もいなかったな」
それぐらい幻のウナギなのですが、じつは目の前にアオウナギのことをよく知る漁師さんがいたのです。
それが堺の海で60年漁師を続けた高田利夫さん。
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▲漁師の高田さんがつり上げた1m30~40cmはあろうかという巨大ウナギの写真。「おそらくニホンウナギの最高記録じゃないだろうか」 |
「日本全国の川や海には清水さんや高田さんのような生き字引のような人がいてる。その人たちがいなくなれば、その知識や経験は途絶えてしまう。DNAの研究をすることより大切なことやで」
地域の住人や子供たちが大和川の魚や自然環境に触れあい学ぶ『大和川 水辺の楽校』にも設立当初からかかわりました。
『大和川 水辺の楽校』の川遊びのイベントは、魚好き虫好き植物好きの大人たちが子供たちに自然と遊ぶ楽しさを知ってもらおうとする取り組みでもあります。
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▲『雑魚寝館』からほど近くの『大和川 水辺の楽校』では川遊びのイベントが開催され、多くの子供たちが水に親しんでいます。 |
今、亀井さんはウナギの調査やウナギの料理文化の研究などをふまえた世界初の「国際うなぎミュージアム」の創設に努力されていて大忙しです。
『国際うなぎミュージアム』の設立も楽しみですが、地域で気軽に魚たちにふれあえたり、人々がである場も大切でしょう。雑魚寝館にぜひ訪れて評判の紅茶やコーヒー、それにウナギのカナッペやウナギカレーを味わいつつ、世界のウナギや雑魚たちにふれあってみてはいかがでしょうか?