連載第1回 石川啄木と与謝野晶子
与謝野晶子ゆかりのお酒 春鶯囀コラムを書いていただいた晶子を学ぶ会・石田郁代氏のコラムが連載スタート!
晶子や晶子にまつわる人々やエピソードなどを季節感いっぱいに表現。
女性らしい、繊細なタッチでお届けします!
北海道函館の啄木一族の墓
場所:函館市住吉町立待岬共同墓地
建立:大正15年8月1日 宮崎郁雨
歌 :東海の/小島の磯の/白砂に/ われ泣きぬれて/蟹とたわむる
*墓には花の絶えることがない。
毎年8月盂蘭盆には、啄木ファンが全国から参詣者が集まり、
啄木追悼会が行われ墓への山道は行列が出来るほど、
88年経ても彼の文学は愛されている。
~4月13日~
詩・石田郁代 /文と写真・石田郁代
私の住む街に桜並木がある。
桜のトンネルは深い花影をおとす
晴れた日の花は明るく咲き誇り
雨の日の花はしらじらと濡れている。
やがて、花が散りはじめ
花吹雪を浴びて歩むとき
88年前に逝った、啄木の臨終を憶う。
落花の時期に毎年、毎年かならず私は憶う。
東京小石川久堅町石川家の門前で
無心に 白い花びらを拾いあつめて
花飾りをつくる啄木の長女・京子の姿を。
はらはらはら 風に舞い散るさくら
牧水が訪れ、ひとりで遊ぶ京子に訊く
「パパは?」
「寝ているよ」
病床の父は幼女にとり、何時も睡眠中
今、父が永眠したことも知らず
京子は小さい指で花びらを拾っていた。
1912年4月13日午前9時30分
歌人・石川啄木没す。
享年27歳。
私の住む街に桜並木がある。
2000年の今日も… さくらが散っている。
写真・東大阪市内の花園桜通り
近鉄花園駅から北へのびる900mの間に
約300本のソメイヨシノが並ぶ
■明治時代、肺結核は伝染病だったから、
罹病者は人々から疎外される風潮があった。
弓町・喜之床(理髪店)の二階を借りて生活していた、
石川一家は、家主から転宅を迫られて久堅町へ引っ越した。
友人・土岐衰果に宛てた移転通知がある。(下記参照)
啄木は「…右へ23度折れ曲がて…」と詳細に記している。
現代ならホームページを開設し、地図を書き添えアクセス
というところだろうか…。
■啄木書簡(啄木全集第12巻・195頁)
明治44年8月7日 土岐善磨宛
本日病床を左記に移し候 7日
小石川久堅町74番地46号室
石川 一
大塚線清水谷の電車停留所付近より
右へ入り23度折れ曲がって約2丁許り
土岐善磨様
■1912年4月13日歌人・石川啄木は逝った。
当時、まだ無名であった啄木の死を大きく報じる新聞はなかった。
彼は死の直前、 東京朝日新聞社校正係に席を置いていたので、
朝日新聞のみ、他の紙面より多少大きく報じている。(下段参照)
4月13日彼の命日には、今でも朝日新聞社歌碑前に、
全国の啄木ファンの会が集合するときいている。
■啄木の訃(啄木案内付録)
-当時の新聞記事より-
・明治45年、27歳の春をむかえた啄木は、3月7日に母を失った。
そして4月13日朝小石川久堅町の自宅でその短い生涯をとじた。
臨終の床には父と妻と子と、そして一人の友人若山牧水がいた。
翌日、各新聞は啄木の死を報じた。 しかしその記事は、今日啄木を
考える場合想像も出来ぬ程ささやかなるものであった。
(3面あるいは5面に1段どり-当時の新聞は8段)。
生前よりむしろ、死後に多くを評価された啄木であってみれば、
それを当時においては、当然であったかもしれない。
■「東京日日新聞」明治45年4月14日付
・詩人石川啄木氏逝く 青年詩人啄木・石川一氏は昨春来肝患に罹り、
小石川久堅町74の自宅に於て療養中の処、薬石効なく
13日午前9時30分こう焉として逝く。享年20有7。
氏は巖手県巖手郡渋民村の人盛岡中学校出身にて
北海道地方に新聞記者たり。
一時帰郷せしが41年5月上京し、只管短歌に基詩才を現はし
『あこがれ』『一握の砂』等の詩集を出して、猶将来に嘱望され居たるも
遂に多くの春秋を残して逝く悲哉。
■斉藤三郎氏記(啄木案内215頁)
・ 3月7日未明母堂逝去。これに気落ちしたか彼自身も亦病態思わしからず
4月13日未明忽然昏睡状態に陥り、急報に駆けつけた金田一が小康と見て
退出した後、同日午前9時30分、当時親交のあった歌人・若山牧水、
数日間急電に依り上京した厳父・一禎、夫人節子等に看護られながら
遂に永眠、 享年26年6ヶ月余。
その日は物倦いような春暖の中に晩櫻のハラハラと散る好日であったという。
以上 岩波書店刊『啄木全集』より
■1910年12月歌集『一握の砂』が出版された。
・定価60銭。初版は売り切れなかった。
当時初版を売り切った歌集『酒ほがひ』(吉井勇)や、『収穫』(前田夕暮)より
人気がなかった。刊行直前の10月4日、生後24日目に長男・真一は早世、
1912年3月7日母・カツと死別。その1ヶ月後、失意の青年歌人・
石川啄木は永眠した。
歌集『NAKIWARAI』の著者・土岐衰果(善磨)の生家は、東京浅草の
等光寺であった。彼の好意で同寺で葬儀を行う。故真一、カツも同寺に
埋葬されていたが、後日、北海道で死去した妻、節子の遺志により、
函館市共同墓地に移骨され、立待岬・石川一族の墓で愛妻・節子や
父母らと共に、安らかに眠っている。(写真A参照)
北海道立待岬 与謝野寛・晶子歌碑
場所:函館市函館山字立待岬
建立:昭和32年8月15日
歌 :啄木の草稿岡田先生の顔も忘れじはこだてのこと(晶子)
:浜菊を郁雨が引きて根に添ふる立待岬の岩かげの土(寛)
*立待岬からの景観はすばらしい。
寛・晶子夫妻が昭和6年6月北海道旅行の最後の旅程に詠んだ
上記の歌を 仙台石のブレットに彫りこみ露出する 岩塊にはめ込まれている。
~与謝野晶子の啄木を悼む歌~
■半年前(明治44年11月)に渡欧した夫を慕って晶子がパリに赴く直前
啄木は他界した。
明治45年4月13日に没した石川啄木を悼んた歌が、当時の各紙に載った。
・東京朝日新聞 明治45年4月17日
人来り啄木死ねと語りけり遠方びとはまだ知らざらむ
終りまでもののくさりをつたひゆくやうにしてはた変遷をとく
しら玉はくろき袋にかくれたりわが啄木はあらずこの世に
そのひとつビオロンの糸妻のため君が買ひしをねたく思ひし
・萬朝報 明治45年4月20日
近き日に旅に行くべき心よりはかなごとにも涙こぼる
・東京日々新聞 明治45年4月28日
いつしかと心の上にあとかたもあらずなるべき人と思はず
いろいろに入り交じりたる心より君はたぶとし嘘は云えども
・東京日々新聞 明治45年5月3日
啄木が嘘を云ふ時春かぜに吹かるる如くおもひしもわれ
ありし時万里と君のあらそひを手をうちて見きよこしまもなく
死ぬまでもうらはかなげにもの云はぬつよき人にて君ありしかな
定本与謝野晶子全集 月報20第8巻
晶子の詠歌をめぐって-石丸久-より
北海道函館の啄木像
場所:函館市日出町25
大森浜小公園
建立:昭和33年10月18日
像 :詩集『あこがれ』を手にした
啄木像
歌 :潮かをる北の浜辺の砂山の
かの浜薔薇よ今年も咲けるや
*弓張り状の海岸線に白波が打ち寄せている大森浜に彼の像が建っている。
~与謝野晶子の啄木を悼む歌~
■与謝野晶子は、明治45年(1912年)5月某日巴里へ旅立った。
その直前4月13日愛弟子啄木が逝った。
寛は渡航前に「この世で、啄木と二度と会うことはないだろう」と思い、
病床を見舞おうとしたが、まわりの弟子たちに
「感のするどい啄木だから、先生が行けば自分の死を察知するだろう」
と押しとどめられた。寛は、啄木の死を異国で知った。
晶子はこの時、出発前で繁忙であったろうに、啄木追悼歌を即座に、
各紙に投稿しているとは、さすが歌人の女王である。
簡単に外国旅行が出来る現在でも、準備で気ぜわしい頃。
ましてや晶子は、渡行費用のために『百首屏風』の製作や、
『新訳源氏物語』の原稿を期日までに執筆の最中である。
家庭には7人のこどもが…。私にはとても出来ない芸当だ。
■啄木の死後、昭和6年寛、晶子は北海道旅行した。
その折、愛弟子の墓を宮崎郁雨らの案内で詣った。
寛も晶子も感無量であったろう。浜菊を郁雨が墓に添えた。
4年前、函館を訪れた私は、立待岬に佇み、啄木を思う
与謝野夫妻に胸を熱くした。