『三好長慶(みよし ながよし)』という、戦国武将の名前を、堺のあちこちで目にすることが多くなってきました。
一般には耳慣れない武将ですが、実は織田信長に先駆けた”天下人”として、現在の徳島から京都までの一円に勢力を誇り、千利休とも縁戚関係にある『茶の湯』をたしなむ文化人でもあったとか。一時は、三好一族の後押しで『堺幕府』が樹立したとか。
この三好長慶の座像を、堺の名刹『南宗寺』に建立しようと周知活動されているのが、『堺・ちくちく会』です。何故三好長慶にスポットライトを当てているのか、定例会にお邪魔しお話を伺いました。
■安請け合いで大弱り
「5年前に都市整備公社の支援事業で、まちづくりワークショップに参加したのがきっかけなんです」
とは、代表世話人の竹内魁成さん。
「1年間のワークショップに30人ぐらいの参加者がいたと思います。それが終了した後このまま解散するのはもったいないとなり、有志が集まったんです」
「最初は15人だったかと思います」
当時からのメンバーで世話人の崎田公明さんが指折り数えます。
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▲一度大阪に出た経験から、堺のことをよく考えるようになった竹内さん。けやき通りのまちづくりや、朝5時55分から始める勉強会など精力的に活動中! |
▲芥川城のウォークイベントなどにも参加された崎田さん。 |
そのメンバーの1人が南宗寺にお墓を買ったというのが、南宗寺との最初の縁でした。
「南宗寺にご挨拶に行く機会があって、その時にお寺の扁額が台風で飛ばされたと知ったんです」
南宗寺の甘露門にかかっていた『龍興山』という大きな扁額があるべき場所にない為に、観光ボランティアも困っていました。
「その扁額を私たちの会の力で直そうと言ったんです。ところがこれが安請け合いでした。後で聞いたら、大きな額だと何百万もすると言うじゃありませんか、真っ青になりましたよ」
しかし幸いなことに、落ちた扁額は保存してありました。飛ばされたのは二百年もの時間で釘が腐ってしまったからでした。
「これなら何とかできそうだ」
と、『堺・ちくちく会』の面々は胸をなでおろしましたが、もっと大きな壁が待ち構えていたのです。
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▲扁額が台風で被害を受けたという甘露門。観光案内にも載る国指定の重要文化財ですが……。 |
■大きく丸い老師様
「まずは南宗寺のご住職にご挨拶にいかねばと会いに行ったのですが、いざ会おうとなると皆も緊張でガチガチです」
南宗寺のご住職は、臨済宗大徳寺派の中でも数少ない『老師』の尊称を持つ高僧です。
「『何をしにきたんや』と老師様自らがお茶を立ててくださると、恐縮してしまって……いきなり何かさせてください、というのは失礼だと思いました。まずはちゃんとお布施をさせていただこうと」
お布施といってもお金のことだけではありません。お寺やご住職と人としての関係を結ぶということ。
「崎田さんはお茶を習うことにして、私は座禅をしにお寺に通うことにしたんです」
そうして関係性を築きながら、扁額修復のための活動を開始します。
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▲座禅での席取りは自由でも、参加者は遠慮して老師様の近くに行く人が少ない中、「空いているのならと、私は二番目の場所に座っています。老師様にはそんな懐の深さがあります」 |
「扁額を取り付けるのに使う釘は特殊な釘で特注になります。作ってもらえるか、作ってもらえるとしてもいくらぐらいになるのか、さっぱりわかりません。紹介されて『水野鍛錬所』さんに伺い、恐る恐る事情を説明したんです。すると快く引き受けてくださったばかりか、『そういうことでしたらお代は結構です』と」
またこの釘を打つのにも特殊な技術が必要だったのですが、偶然にも崎田さんが習い始めた大工の先生の中康さんが、その技術の持ち主だったのです。
見事にスタッフが揃い、扁額の復元を『堺・ちくちく会』は成し遂げたのでした。
「復元式ではじめて、老師様がにっこりと笑ってくださったんです」
と、世話人の畠中春美さんは思い出を語ります。
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▲「最初にお会いした時から、厳しそう怖そうな印象はあっても言っていることは優しい感じだったんです。お体と同じように大きくて丸い感じの方で、近寄りやすい方なんです」と、畠中さん。竹内さんが「老師様に気軽すぎるんや」と呆れるほどの老師様ファンです。
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そして、この復元の式典が、今度は『三好長慶』と出会うきっかけになります。
■三好三代で堺のお寺を結びたい
扁額の復元の式典に先立って式次第を老師様にお見せした時のことでした。式次第に南宗寺ゆかりの人物として、千利休の肖像と徳川家の家紋を使っていたのですが、老師様が、「千利休ではなく三好長慶にしてほしい」とおっしゃられたのです。
『堺・ちくちく会』が三好長慶の名を知ったのは、まさにその時でした。
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▲『三好長慶会』の会長・出水康生さんの書。出水さんには三好一族に関する著書もあります。 |
父である元長の菩提を弔うため、南宗寺の造営に力を注いだ三好長慶について話を聞くうちに、『堺・ちくちく会』の次の目標が定まってきます。
「南宗寺に三好長慶の座像を作ろう」
三好長慶の像は、まだ故郷の徳島にもありません。
座像の制作は、堺の彫刻家の岡村哲伸さん。岡村さんは堺港の乙姫さんこと龍女神像の復元や、堺駅南口の南蛮船をはじめ、堺の随所に設置してある作品を手がけられています。堺に暮らしていれば、どこかで必ず岡村さんの作品を目にしているでしょう。
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▲堺が誇る彫刻家・岡村哲伸さん。 |
「座像の製作費は、岡村さんにも協力していただいて随分抑えることが出来ましたが、それでもまとまった金額が必要でした」
『堺・ちくちく会』は、この座像を市民による寄付でまかなうことにしました。市民一人一人の力によって座像を建立することに価値を見出したのです。
この活動に驚き喜んだのは、三好一族の本拠地である徳島や、三好氏が居城とした芥川山城がある高槻市です。
「ついに堺が動いた! と衝撃が走ったそうですよ」
その後、時に徳島や高槻の「三好長慶会」「三好芥川城の会」などと協力し、縁の地で歴史ウォークを開催したり、講演会を開催。その都度、広くカンパを募りました。
また武者行列など派手なパフォーマンスも。堺祭のパレードでは三年連続武者行列で参加し、三好長慶の名を知らしめることが出来たのです。
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▲徳島県人会・近畿連合会会長兼堺・ちくちく会の木岡清さんによると、伊達政宗の仙台城の築城工事の際に『すずめ踊り』を披露した堺の石工たちは、堺区の少林寺町に住んでおり、ルーツをたどると、徳島(阿波)に行き着くそうです。復元式では阿波踊り『南大阪連』と地元少林寺町のすずめ踊り『仲囲巣連』に舞ってもらいます。 |
そして2014年の7月6日。
「戦国天下人三好長慶公」座像建立除幕式が開催されることとなりました。
寄付金も目標金額まで、あと一歩・二歩の所まできています。いよいよ5年間の夢が叶うのですが、実はここが最終地点ではありません。
三好長慶の業績に対して、正当な評価をし讃えるためだけではなく、さらにその先を見据えた思いが『堺・ちくちく会』にはあります。
「応仁の乱で京都が焼けた時に、沢山のお寺が堺に避難してきたのをきっかけに堺には沢山のお寺があります。しかし、お寺同士には、これといったつながりはないのです」
『堺・ちくちく会』はパッチワーク作りのようにちくちくと活動をつづけ、目途とした2030年には三好一族の三人の座像を縁のある堺の三つのお寺に建立しようと考えています。
「三好一族の座像を通じて、堺のお寺がつながる。それによって堺の町も元気になってほしい」
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▲新メンバーを加え、この日集まった『堺・ちくちく会』の面々。 |
この日の定例会には2人の新しいメンバーが加わりました。『堺・ちくちく会』の活動に共感した若い堺市民です。気が付けば、設立当初の中では一番若いということで代表世話人になった竹内さんも、今では長老株の1人になっていました。