劇場から世界を変える!! アジアンユースシアターフェスティバル(5)
マレーシアのリゾート地として知られるコタキナバルで開催されたアジアンユースシアターフェスティバルには、12カ国14団体の子どもたちが集まりました。筆者は日本チームに帯同しました。子どもたちが主役のフェスティバルだからと、どこか傍観者のような気持ちでいたのですが、それは大間違いでした。子どもたちが未来を信じられるよう、大人たちには手本となるような態度が求められる。筆者はプロデューサーからがっつり怒られてしまいました。
最終日の4日目(第4回記事)は慣れないながらも、子どもたちの輪に飛び込んでみました。その時にお手本としたのが、ベトナムチームのカメラマントゥルン(Trung)さんでした。英語がほとんど喋られないにもかかわらず、笑顔とカメラでコミュニケーションを取るトゥルンさんを見習うことにしたのです。それをきっかけにベトナムチームと仲良くなれたのは、自分としては成果でした。
4日目が終わって、トゥルンさんらとお酒を酌み交わす約束もしたのですが、行き違いがあって会うことは出来ませんでした。残念な気持ちを抱えたまま帰国日を迎えます。
■アジアの現実
4日間のフェスティバルが終わった翌日、日本チームは運営チームからジャングル観光に誘われました。4日間、ホテルと会場の往復だけで、市内観光一つできなかった日本チームに気を遣ってくれたのです。どう考えても運営チームの方がクタクタであることは想像に難くないのですが、遠方から来た仲間をもてなしたいという気持ちがあふれていたのです。
残念ながら、筆者だけは所用がありホテルに居残っていたのですが、その用事も済ませ、チェックアウトの手続きをするためにロビーに降りると、そこで思わぬ再会をします。
トゥルンさんが、カメラを抱えて姿を現したのです。
トゥルンさんとは、写真を撮るもの同士、カメラ談義をするようになり、日本の撮影班ヨッシーさんとトゥルンさんもすっかり仲良くなっていました。英語の話せないトゥルンさんでしたが、スマホの翻訳アプリを使えば意思疎通が簡単にできることに気づきます。
すると、トゥルンさんの壮絶な半生がわかってきました。トゥルンさんの父親はベトナム戦争の時に殺されたのだといいます。彼が生まれ故郷の町の名前をホーチミンとはいわず、サイゴンと言い続けているのには理由があったのです。
父親を亡くしたトゥルンさんは、兄弟がカメラマンであったこともあり、ウェディングカメラマンを職業とするようになります。あの完璧なポージング指導も納得です。そしてその技術を彼はチャリティにも使うようになります。まだ戦争の傷跡の残る地方の村や貧困地帯に行って、写真を撮る活動をしているのだそうです。人の心にすっと入ってくる彼の笑顔の秘密がようやくわかったのでした。
ベトナムチームは、1人ホテルに残っていた筆者をランチに誘い、またコタキナバルにある巨大モスクの見物にも誘ってくれました。フェスティバル中は、シャイな様子もあったベトナムチームでしたが、一端親しくなるととびきりの親切さを発揮するようです。
「ベトナムに来たら、案内するから」
と、若者たちは言います。
もちろんベトナムに会いに行きたいし、写真でボランティア活動をするトゥルンさんの活動にも興味があります。ところが、それに対して、トゥルンさんの返事は芳しくありません。
「来るべきではない。政権は腐敗していて危険だ。ヴィザも降りないだろう」
観光ならともかく、国境地帯や社会の矛盾が噴出している地域で活動するトゥルンさんの活動は、政権からすると反政府的な活動ととられかねません。それに外国人が参加するというのは危険な事に違いありません。
ベトナムだけではありません。今回の参加国それぞれの国内事情があることは、子どもたちの様子からも見て取れました。
「ギターを弾いている男の人を見ていると涙が出てくる」
というミャンマーの少年は、ギタリストだった父親を軍事政権下で殺されていたそうです。
一見、日本と並ぶ先進国としてフェスティバルを支えるシンガポールにしても、政府による検閲が厳しくて、表現の自由が奪われている状態だそうです。
2019年のアジアンユースシアターフェスティバルのテーマは「環境問題」でしたが、貧しいアジア諸国に環境問題が発生する理由の一つは、先進国が途上国の人権を軽視するなど国際社会の矛盾がひずみとなって途上国に現れるからです。今回のフェスティバルでも、「環境を大切にしよう」といった表層的な取り上げ方ではなく、深層にある社会の矛盾に切り込んでいた作品も少なくありませんでした。
■アジアの未来にとって重要なフェスティバル
ジャングル観光から帰ってきた日本チームと合流すると、ホテルでベトナムチームと別れを惜しむ間もなく車に乗り込むことになりました。帰国するための飛行機が発つのは深夜。それまでの間運営チームの事務所で休むように計らってくれたのです。1階は運営チームのメンバーが経営するフィットネスジムで、このビル自体が自社ビルだそうで、シャワーや仮眠室を使わせてくれました。
事務所にいる猫と遊んだりして、やや落ち着いた所で、運営スタッフが集まってきました。
振り返りのミーティングが始まったのです。流れでこの会議に日本チームも参加することになってしまいました。
このディレクター会議でもアジアの現実を突きつけられました。
来年のアジアンユースシアターフェスティバルの開催は、ミャンマーが手をあげていました。ミャンマーはアジアの最貧国の一つで、長く軍事政権下にあり、民主選挙が実施されたものの、その影響から脱し切れていません。今世紀最大の難民問題の一つであるロヒンギャ難民の問題も抱えています。
ディレクター会議では、ミャンマーでの開催は難しいのではないか、という議題があがっていたのです。というのも、ミャンマーのホスト団体は、アメリカの組織が支援しているのですが、参加希望国の中にはアメリカとの関係が良好と言えない国もあるのです。今回は、大臣からの働きかけがあったにも関わらず、ラオスチームの入国が拒否され、参加することができませんでした。
「来年はミャンマーでなく、ラオスになるって。トントンが悲しむね」
と、日本チームはうなだれます。
トントンとは、日本チームが仲良くなったミャンマーチームを率いるリーダーのことです。
ミャンマーの子どもたちからはグランパと呼ばれ敬愛されているのですが、お金も無いのにハードロックカフェに行って子どもたちを困らせたり、どこか憎めない人物です。
「トントンは、来年の会場をもう予約していて張り切っていたのに、開催されないと知ったら悲しむよ。なんて言ったらいいのかわからない」
もちろん、このときは翌年コロナが世界を襲い、さらにその翌年にはミャンマーにクーデターが起きるなんて事は誰も予想できようはずもなかったのです。
もう1つ、日本チームが運営チームから求められたのは資金援助のことでした。
今回の参加国の中で、助成金も補助金も出なかったのは唯一日本だけでした。運営資金の実に80%はシンガポールが負担したのだそうです。
「経済的に豊かなものが、貧しいものを支援するのは当然」
そんな意識が運営チームにもアーティストの間でもありました。最も豊かな日本がフェスティバルを支援しないということが理解できない……日本チームは肩身が狭い立場でした。
「来年のために、今から準備をしないといけない」
このフェスティバルの間中言われたのは、「あなたに何ができるのか考えなさい」ということでした。「何もできないと言うのなら、笑顔だけでもいい」と。
4日間の濃密な演劇体験は、子どもだけでなく、大人も大きく揺さぶりました。このフェスティバルで国境を越えて結ばれた友情は、未来に向けて花開くことでしょう。現在問題の多いアジアにおいて、それは小さくない意味を持つはずです。
アジアでも豊かな国日本、演劇・パフォーマンス教育も充実した日本、そんな日本に住む私達に何ができるのか、その答えを出すことが求められています。
その答えは翌年に出されることになります。「2022年のアジアンユースシアターフェスティバルのレジデンシー(合宿)プログラムを日本で開催する。アジアの子どもたちを日本に招く、それは簡単なことではないでしょうが、子どもたちにとって貴重な体験になるはずです。
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