ミュージアムへ行こう! 「博物館には何がある?」 レビュー(3)
開館40周年を迎えた堺市博物館の企画展「博物館には何がある? -堺市博物館コレクション展 Part1 近代編-」は3章立てで、第一章は堺の郷土画家岸谷勢蔵を、第二章では鳥瞰図(パノラマ地図)で堺をはじめ日本中の都市を描いた吉田初三郎を取り上げていました。岸谷勢蔵が精密に描いた戦前の堺の風景や習俗と、吉田初三郎がエンターテイメント性たっぷりに描いた鳥瞰図という二重の目線で、私たちは立体的に堺を知ることが出来たのでした。
引き続く、第三章のタイトルは「近代万華鏡」。さて、どんな展示がされているのでしょうか? 案内は、担当された江坂正太学芸員と、渋谷一成学芸員です。
■教育水準は高かった!? 江戸から続く堺の教育
渋谷一成(以下、渋谷)「第三章では、これまで展示したことがない所蔵品や、数回しか展示していないレアなものを出しています」
江坂正太(以下、江坂)「近代の堺ということで、テーマをさらに3つに分けて、教育・産業・観光の3つのコーナーを作りました」
――まずは教育ですね。堺の近代教育にはどんな特徴があったのですか?
江坂「堺は江戸時代は天領でした。天領だったところは、明治になってそのまま県になる所が多かったのですが、天領だったというプライドの高さがあったように思えます。たとえば天領だった飛騨は、飛騨県から美濃と一緒になって岐阜県になりますが、一緒にされたくないと分離運動が起きました。堺も大阪と競合して、独自の施策を取り、堺独自の教科書を作っていました」
――自立が好きな堺っぽい話ですね。
江坂「明治時代に教育を近代化させる時い、江戸時代に教育を担っていた寺子屋の師匠をお払い箱にした所と、師匠をそのままスライドさせて近代教育の教科書を作らせた所があったのですが、堺は後者でした。こちらに展示してあるのは、明治9年の堺の教科書ですが、理科、地理、習字、道徳、数学の教科書があります」
――なかなかちゃんとした教科書ですね。これを寺子屋の師匠をしていた人たちが作ったのですか? 全体的な教育水準が高くないと、こんなに教科書を作れないですよね。
渋谷「そうですね。たとえば、チベット旅行記の河口慧海の師匠である土屋弘も、慧海を教えた晩晴書院で教科書を作っていました」
江坂「私は堺に来る前から、堺で教科書を編んでいるとは聞いていましたが、予想以上に多くて驚きました」
――堺の歴史で注目されるのは、中世の次は近代で、近世江戸時代は注目されないことが多いのですが、近代堺の土台には近世堺がしっかりとあったことを証明する証拠ですね。
江坂「次の資料も貴重なものです。最初は男子校として開口神社で開校した大阪府立堺中学校、現在の府立三国丘高校の、運動会のプログラムと、校友会の雑誌『茅渟之海』です」
――明治時代にも運動会があったんですね。どんな種目があったんですか?
江坂「プログラムを見ると200m、400mの徒競走や二人三脚といった現在と同じ種目もあるのですが、『登校』とか『郵便』は何の種目か良くわからないのです。私の出身地の愛知県では、体操着から、制服に着替えて走る競技があるのですが、『登校』とはそんな競技かもしれません」
――だとすると『郵便』は、いわゆる借り物競走みたいなものでしょうかね?
江坂「どうでしょうか。そうかもしれませんね。また面白いのは、今と違って競技するのが、学年ごとにわかれておらず年齢関係無しに走っていたり、先生や来賓まで一緒に走っているんです。来賓といっても、当時の来賓は軍人でした。運動会には軍事教練という側面もあったのです」
――なるほど、軍人さんがお手本なんですね。
江坂「こちらの写真は、市立堺高等女学校、後の泉陽高校の資料で、1910年の創立10周年記念ハガキです。堺高等女学校は、翌年には府立になっているので、市立時代の貴重な資料です。写真は、園芸の授業をしている所で、背後には妙國寺の三重塔が見えています」
――男子校だった後の三国丘高校が軍事教練につながる運動会で、女子校だった後の泉陽高校が家庭的な園芸というのは、富国強兵に良妻賢母のイメージがあって時代を感じさせますね。
■堺といえば産業
江坂「堺といえば産業は外せないと思いまして、次は産業を取り上げました。まずは第5回内国勧業博覧会関連のものです。第一会場は天王寺で、堺の大浜に第二会場でした。この博覧会は日本版万博といえるもので、当時の最先端の技術や商品が集められました。お金のある県は、かなりお金をかけていまして、たとえば愛知県は第一会場に名古屋城を作って注目を集めました」
--あ、絵図の端に天守閣っぽいものが見えてます。
江坂「第二会場の大浜の売りは、西洋風庭園と水族館でした。水族館も市民に水産資源を知らしめるためのものだったのです」
――ただ単にレジャーのための施設ってわけじゃなかったんですね。
江坂「こちらの写真に写っている立派な洋館は、水族館庭園内に建てられた堺商品陳列所です。ジバシンのようなものですね。当時の堺の特産品である清酒・線香・足袋・刃物・貝細工などが陳列されていました。この貝細工がどんなものだったのか、良くわかっていないのですけれど」
――貝細工は初耳ですね。それ以外は今の堺でも代表的な商品ですね。
江坂「はい。貝細工はどんなものだったのか今ではわかりません。線香は、当時も『堺といえば線香』といわれており、4店舗ほど有名店がありました。こちらのチラシはその中の大塚薫明堂の東京出張所のものです。とてもモダンなデザインですね。匂い袋が良く売れたみたいで、匂い袋の起源に関する記事も掲載されています」
――酒造は堺の主要産業でしたよね。
江坂「こちらにはアサヒビールの創業者鳥井駒吉の清酒『春駒』の陶器の瓶が展示されています。また、清酒醸造所の米谷甚三郎家が遺した資料を、堺市博物館が引き取った米甚文書というものがありまして、そこから何点か展示しています。第1回と第2回の唎酒会の報告書などは面白いですよ。ルールは良くわからないのですが、点数表のようにになっています」
――主催メンバーに、鳥井駒吉さんの名前と並んで大澤徳平さんの名前が見えますね。今、堺能楽会館の館長をされている大澤徳平さんのお祖父さんにあたる方かな? これは大澤さんにお知らせしないと(笑)
江坂「唎酒会は、主催者名が変ってますが、同じメンバーで第2回も開催されています。しだいに大きくなっていったのでしょうね。このことは堺市史にも載っておらず、貴重な資料です」
――次は引札(チラシ)ですね。カラフルな引札で、これもデザイン性が高いですね。
江坂「これは桜之町にあった大野商店のメリヤスの引札です。メリヤスは伸び縮みするので莫大小と書きます。この引札は立派なもので、お正月に得意先に贈ったものだと思われます」
――えべっさんや国旗が描かれていて、お正月っぽいですね。
江坂「こちらにあるのは、兒山銀行の扁額です。あまり傷んでないので室内に架けていたものだと思われます」
――つーる・ど・堺でも何度も取材させてもらった中区陶器の兒山家が作った銀行ですね。
江坂「堺には山縣銀行や大西銀行などがあったのですが、明治10年代には淘汰されていきました。そんな中、兒山銀行は出来ました。この頃、地方ではこうした銀行が失敗した例が沢山あります。こりないなと思うのですが、今でいうと株を買うような感覚で銀行を作ったのかもしれません。兒山銀行は後に山口銀行に吸収されるのですが、10年間持ったのでまだ上手くいった方でしょう」
■日本屈指のリゾート地だった堺
――最後が観光ですね。
江坂「ここで紹介しているのは、大浜と浜寺の2つの公園です。明治の太政官令で、各地の名所を公園にしなさいということで、大浜公園や浜寺公園が出来ました」
――大浜は第一章の岸谷勢蔵、第二章の吉田初三郎も描いていましたね。
江坂「大浜公園は、内国勧業博覧会の後、水族館、公会堂、水上飛行場、魚市、料亭のあるリゾート地となりました。また学生相撲発祥の地として相撲大会が開催されています。ここにあるのは第2回全国学生相撲大会の中学生のトロフィーです」
――お酒を飲む杯みたいですね。
江坂「大学生のトロフィーはもっと大きなものだったようですよ」
――今に続く学生相撲大会の出発点ですね。
江坂「一方、浜寺公園は、もともと『松の浜寺』として知られていました。ところが、明治に入って、産業が重要ということで、松林が切られ始めたのです。それを維新の英傑である大久保利通が惜しんで、当時の堺県令税所篤に命じて辞めさせたのです。税所篤は、大久保利通と同郷で鹿児島のトップ3の1人でした」
――税所篤は堺県の二代目の県令でしたね。
江坂「公園になった浜寺には海水浴場が出来て、ブランコや滑り台もありました。浜寺水練場のルーツですね。この海水浴場や大浜の相撲大会は毎日新聞が仕掛け人でした。南海電車も仕掛け人として、観光スポット化に力を入れました」
――明治のリゾート開発も、新聞社と鉄道会社が仕掛け人になっていたんですね。
江坂「最後は、1932年に10数年ぶりに大阪で開催された陸軍特別大演習です」
――軍事訓練と観光がどう関係あるのでしょうか?
江坂「この演習には昭和天皇がやってきたのです。陸軍特別大演習には天皇がやって来ることになっています。そこでは地元の特産品や工芸品の天覧が行われます。製品を天皇が買ってくれれば、天皇御用達ということになって、その製品は売れるわけです。買ってくれなくても、天覧されたというだけで箔が付きます」
――すごいプレミアがつくんですね。
江坂「この時の行在所は大阪城でした。関係者も宿泊して、お金が動く、経済が動くのです。この時、天覧されたであろうものが、こちらの堺の風景を描いた『堺八景帖』です」
――あろう、というのは?
江坂「天覧品リストの中に堺八景帖の名前が無いのですが、箱書きには天覧されたことが書いているのです。箱書きに嘘を書くとも思えないので、入れ忘れたとかでリストから外れたのでしょう。こちらの内容は、明治10年に明治天皇が堺に来た時という時代設定で、堺の八つの情景を描いています。明治天皇は明治大帝と称されるほど人気がありました。孫で若かった昭和天皇にアピールするためにそういう絵を描いたのでしょう」
――軍事演習でもアピールに余念がない! 当時の堺人の逞しさ、抜け目なさを感じさせる逸品ですね。
堺市博物館のコレクションから、近大堺を浮かび上がらせた「博物館には何がある? -堺市博物館コレクション展 Part1 近代編-」は、レアものが見られるとあって、これまで陽の光が当たっていなかった堺の一面をたっぷりとみせてもらえたようでした。
そして、オリンピック対策として予定していた企画展が、図らずもコロナ禍対策にもなってしまったという堺市博物館のコレクション展が教えてくれたのは、展示室だけが博物館ではないということかもしれません。むしろバックヤードに隠れているものこそ、評価すべきではないかと気づかされた気がします。それは、学芸員さんというソフトパワーも含めてのことです。各博物館のバックヤードをつなぐ巨大な博物館ネットワークから、必要な要素をピックアップして展覧会を創り上げていくのは、学芸員さんの知識とセンス、コネクションがあってこそ。緊急事態でのコレクション展で、却って普段の博物館の仕事について思いを馳せられたような気もしたのでした。
堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201