ミュージアムへ行こう! 歴史を遺すドラマがあった!!「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」(2)
堺市博物館の2019年最後の展覧会は「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」。テーマとなっている堺市史は、刊行から90周年となる古典ですが、堺に関する昔の事を調べるならば、まずページをめくるのは堺市史というぐらい、完成度の高い市史です。
ところが、この堺市史が作られる前に、幻となった明治時代の堺市史事業があったというのが、前回の記事でした。1年半の事業期間で完成寸前までこぎつけながら、事業が中止となり、ついに日の目を見ることがなかった幻の堺市史。その挫折から四半世紀の時を経て、堺市史事業が復活することとなりました。その復活の理由は何か? そしてどんな顛末となったのか?
第2回の記事でも、堺市博物館の学芸員渋谷一成さんの案内でお届けします。
■再び立ち上がった堺市史事業
渋谷一成(以下、渋谷)「大正13年(1924年)の2月に編纂室が置かれ、再び堺市史が事業化されることとなりました。この時の市長が斎藤研一市長です。この人は2度堺市長をやっていて、1度目が明治43年~大正元年(第五代市長)、二度目が大正6年から大正15年(第七代市長)です」
――この頃の市長は選挙で選ばれた人ではないですよね?
渋谷「そうですね。公選ではありません。市会(現在の市議会にあたる)により適任者が選ばれる形でした。市議会議員も大正14年3月以前は普通選挙ではなく、納税者により選挙権が限られていた制限選挙でしたから。斎藤市長は、もともとは大阪府の役人出身で、優秀な人だったそうです」
――府の役人からというのは、堺市長の定番コースだったんですかね? しかし、どうして斎藤市長は事業を再開させようと考えたのでしょうか。
渋谷「明治に挫折したことが残念だったということがあるでしょう。また、大正12年(1923年)9月に関東大震災があって、多くの貴重な資料が焼けたことを理由の1つとして斎藤も述べています。堺でも災害で資料が無くなるかもしれないという危機感があって事業が必要とされたのです」
――関東大震災では、与謝野晶子も源氏物語の現代語訳の原稿を焼失していますしね。
渋谷「この斎藤市長ともう1人重要な人物が、監修を担当した京都帝国大学の三浦周行さんです。周行という名前は『ひろゆき』と読むのですが、私達(歴史関係者)は音読みをして『しゅうこう』先生と呼ぶことが多いです。周行先生は、中世の港町の研究をされていた方で、堺市教育委員会で講演されたこともあります。それで堺のこともよくご存じだったのです」
――三浦周行さんが監修ということは、他に編集長的な立場の人がいたのでしょうか?
渋谷「そうですね。周行先生は事業開始に先立って講演を行ったり、全体の統括を頼まれていたようで、実務のトップは別にいました。こちらの2枚の写真を見てください」
――集合写真ですね。
渋谷「まず、こちらは名誉委員の集合写真で、堺の旧家の当主や市や府の議員など有力市民の方々です。中でも印刷業を営んでいた前田長三郎、大和川染工所の柳原吉兵衛、南宗寺檀家総代の鹿嶋円次郎らは、堺の歴史にも詳しく、自らも蒐集家でした。周行先生も彼らには特別な配慮をされていたようです」
――堺の旧家の協力がなくては市史制作は難しかったでしょうね。
渋谷「そしてこちらが、臨時組織として作られた堺市史編纂部の写真です。後の和装の2人は事務方のようで、前列の中央が三浦周行先生。その左右にいるのが、三浦の教え子で初代と2代目の編集長です。向かって右側が初代編集長の中村喜代三です。中村は、京都帝大で学んだ日本史の専門家で、京都帝大の本科で学んだエリートでした。しかし、編纂の途中で、台湾帝国大学の先生に就任することになってしまいました。後を継いだのが2代目の編集長の牧野信之助です。牧野は家の事情で遠回りをした人物で、中村より年上でした」
――初代がエリートで、2代目がたたき上げって感じですね。
渋谷「はい。牧野は家庭の事情で学校の先生をしていたので、専科生でした。本科の定員に余裕がある時に、師範学校の先生などで、もう少し勉強したいと希望したい人がなることができるのが専科生です。また、牧野は編集のエキスパートでした。堺市史の前に、福井県の県史、滋賀県の県史の編纂も行っていたのです。牧野が中村から仕事を引き継いだのが昭和3年(1928年)度からで、その時には市史の本編の原稿は出そろっているなど、堺市史の土台は出来上がっていました」
■堺市史の完成と波紋
それだけ内容が出来上がっていたというのなら牧野は一体どんな仕事をしたのでしょうか。
渋谷「堺市史の事務資料は残っていないのですが、滋賀県史の事務資料は滋賀県の公文書に残っています。展示してある資料は、東京帝国大学や宮内省の資料を調べるのに滋賀県からいちいち上京していては大変だから、現地(東京)の人を雇って欲しいという手紙です。牧野がどのように仕事をしたのか、こうした資料からうかがえるのです」
――堺市史に関する資料は、残っていないのでしょうか?
渋谷「いえ、そんなことはありません。こちらの『書籍台帳』は市史編纂部で集めていた書籍をイロハ順に並べたもの。『資料採訪目録』は、誰がどんな資料を持っているかの目録で、展示してあるのは比較的綺麗なページですが、済のハンコが押してあるページもあります。これらの資料によって、調査の全体像がわかるようになっています。そして、具体的な資料として、3種類ぐらいが形として残っているものがあり、今回展示してあります。市史編纂主部は、史料の筆写・撮影・複製を行っています。筆写された史料は、『堺市史史料』全145冊として残されています。これは崩し字で書かれた古文書を、写し取り楷書に直したものです。そして、2つ目がこちらの撮影の資料です」
――重厚な箱がありますね。
渋谷「これは『市史写真ガラス乾板収納箱』で、そのまま展示しています。市史編纂事業では特に重要な文書や絵画・美術品・景観などの写真撮影を行いました。これらがガラス乾板と台帳貼付写真の形で残されています。写真は約770葉あるのですが、堺市立中央図書館では現在はデジタルデータ化が進められています」
――3つ目が複製ということですね。
渋谷「絵図などが手書きで複製されました。こちらの並べてある絵図はその1つで『中筋村田畑地並絵図』の実物と模写です。茶色の斑点のような所が荒れ地です。非常に正確に模写されていますね。牧野は、こうした写真や図版などのレイアウトも行っています。牧野は芸術にも深い関心を持っており『芸術的史学者』と呼ぶものもいました」
――なるほど『堺市史』八巻が展示されていますが、こうしてみるとなかなかお洒落な装丁の本ですね。
渋谷「装丁は帆船と波がモチーフとなっており、堺出身の画家高岡徳太郎が手がけています。高岡は高島屋百貨店の薔薇の包装紙のデザインで知られています。このデザインを、記念展の図録のデザインにも使わせてもらっています。また見返しの絵は、堺八景の現代版で日本画家の杉田勇次郎によるものです」
――相当凝った本になっていますね。
渋谷「この八巻本は1000部ぐらいしか作られなかったと思われます。値段も45円と、当時のお巡りさんの月給ぐらいの値段がしました」
――それは簡単には手が出る値段じゃないですね。
渋谷「それもあって、昭和6年には要約版として『摘要堺市史』が刊行されましたし、昭和3年時点で堺市の概要を記した『堺市案内記』という本も出ています。これは市勢要覧と観光ガイドブックを合わせたような性格の書物です。また市史編纂事業とは直接の関わりはないのですが、名誉委員で南宗寺の信徒総代である鹿嶋の発案によって私家版の『南宗寺史』が作られており、序文は周行先生の筆で、市史編纂部の人々が深く関わっていました」
――明治の『堺市史』と違って、昭和の『堺市史』は無事に出版されたんですね。
渋谷「いや、この時の事業でも斎藤市長から引き継いだ森下仁平市長は、議会で随分いじめられたこともあったようです。予算の無駄だと責められて」
――今の私たちとしては、よくぞ無事に刊行してくれたと言うところでしょうか。もちろん、当時の議員が、目の前にしなければならないことがある時に、過去の事は気にとめていられない、もっと優先すべきことがあるという意見は確かにわかります。しかし、歴史を遺すという行為は、未来のために決して無駄にはならない。むしろ教訓として活かすことが出来るとも思います。このせめぎ合いが、明治でも昭和でもあったということなのでしょうね。
明治の挫折を乗り越え、こうして『堺市史』は昭和4年、刊行されました。その編纂事業が波紋のように広がり要約版などが出版されたというのも、市史編纂事業がどれだけ分厚い事業であったかを物語っているようです。なにしろ、さらに時を経て続編も編まれることにもなったのですから。第3回は、戦後に編まれた『堺市史続編』について、展示を見ていきましょう。
堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201