白い木製の燈台は、堺市民には馴染みのまちのシンボルです。小学校の時計台に、市政100周年の際に作ったマンホールの蓋に、和菓子のモナカに、様々なもののデザインモチーフとして採用されています。
この旧堺燈台の中を見たという人は、あまり多くないでしょう。残念ながら普段は旧堺燈台は中に入れないのです。しかし、海の日とその前日の2日間だけ内部公開をしており、毎年1000人程度が見学に訪れています。
一般公開の日、夏の潮の香りが強まる港へ向かい、旧堺燈台を目指しました。
■堺燈台の歴史
南海本線「堺」駅の南口から旧堺港へ。乙姫様こと「龍女神像」を右手にみながら港を囲む遊歩道をぐるり進むと、高速道路の高架をくぐった先に目指す旧堺燈台があります。
遊歩道から少し突き出た燈台の土台の階段を登ると、閉ざされていた扉が開け放たれていました。
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▲紙芝居方式で旧堺燈台の歴史、トリビアを堺市文化財課の職員さんが解説してくれました。 |
初めて足を踏み入れた燈台の内部は広めのリビング程度のスペースです。いくつかある窓が開けはなたれ、真正面の窓は曇り空と海の景色を切りとり、大阪湾を渡ってきた風が吹き抜けてきます。
「窓際は特等席ですよ」
と、解説役の堺市文化財課の職員の方。
階段の下からがらんとした空間を見上げると、階段の隙間から2階・3階が見えます。内壁は1階は白塗りですが、2階以降は木肌のままなのが見てとれました。
「実はあれは木目塗りといって、わざわざ木目を描いているんです。わたし達も解体修理をして初めて知ったのですが」
この燈台についての様々な秘密が明らかになったのは、15年前に行った全面解体修理のおかげでした。
「平成13年から18年にかけての5年間。旧堺燈台を全て解体し、土台の石組も5段目までばらして修理をしました。周囲の護岸工事も行ったので時間はかかりましたが、様々なことがわかりました」
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▲1階から2階を見上げると木目が描かれた内壁が見えます。 |
この燈台が出来たのは明治10年(1877)、同時代の人物としては翌年に与謝野晶子が誕生しており、同じ場所に現存する木製洋式燈台としては日本最古のものです。
「土台に使用している石は石の産地として有名な瀬戸内海の白石島などから切り出したピンク色の花崗岩です。燈台に登る石階段に使われているのは青味がかった凝灰岩です。青い階段にピンク色の土台の上に白い燈台と、なかなかおしゃれな燈台ですね」
土台の石積みは備前の石工さんの手によるもので、波の影響を軽減するために船の舳先のように海に向かって尖った形で組まれています。
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▲海に向けて船の舳先のように石組みがされています。 |
「燈台本体は堺の大工さんによるものです。この燈台には6本の長い杉の柱が使われていますが、長さは3丈5尺(10.6m)になり、根本の2mほどが石組みの中に埋め込まれていました。これだけしっかりした作りにしているから100年以上も無事だったんですね」
この修理で2本の柱は痛みがひどく新調することになりました。燈台の内部には、この2本も置かれており、風雪に長年耐えた跡を見ることが出来ます。
「2本の柱以外は、ほぼ修理前の材料で建てなおしています。旧堺燈台は文化財ですから無闇に新しくしてしまってはなんのことかわかりませんので」
土台の石組からしっかりと組み直された旧堺燈台は、さらに長い年月この場所に立ち続け、堺の港と海を見守ることになるでしょう。
■建設当時の姿
旧堺燈台の修理と並行して文献の調査も進められており、その成果も職員さんは披露してくれます。
「旧堺燈台は3階建てですが、建設当時は今と違ったところがありました。当時の絵を見ると1階部分には壁板がなかったんです」
明治27年(1894)に旧堺港周辺を描いた堺大魚夜市の絵では、旧堺燈台の1階の壁板は無く、×印に筋違い(すじかい)が架かっている様子が見てとれます。
「明治36年(1903)に行われた第五回内国博覧会のチケットに描かれた燈台には壁板があったので、この間に1階の壁板はつけられたのでしょう」
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▲建築当初には1階部分に壁板はなく、骨組の筋違い(すじかい)がむき出しでした。 |
燈台の点滅機器は横浜から派遣されたイギリス人の技師ビグルストンによってフランスのバービエール社のレンズが取り付けられました。光源には当時は灯油が使われていましたが、現在は火災の恐れもあるためLEDが使われているそうです。光の色は当時から決められています。
「旧堺燈台の灯は、不動緑光といって、緑色の光になっています」
ランプが設置されている灯篭部へは階段の傾斜が急なため、内部公開でも2階以降は立ち入り禁止になっています。
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▲痛みのひどかった2本の柱は取り替えられました。資料によると当時の値段で6本で78円という記録が残っています。 |
■堺市民に愛される燈台
職員さんからお話を伺っている間も、親子連れや友達同士など見学者はひっきりなしです。
観光客に場所をよく尋ねられるけれど高速道路が邪魔になって駅から燈台が見えないのが問題だと憤る人、燈台の歴史について細かに尋ねる人など、見学者にも思い入れの強い人が多く、旧堺燈台がシンボルとして多くの堺市民に愛されていることがよくわかります。
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▲公開期間中には燈台のライトアップも行っています。 |
「燈台はずっとこの場所にあったのですか?」
そんな中でも多くの人が口にした疑問が燈台の位置です。何しろ、今の旧堺燈台は海に面しているといっても、周囲は陸地に囲まれ水路の奥まった位置にあります。これでは燈台としての役に立つのか疑問に思えます。
「江戸時代にあった燈台は、大和川の付け替えで土砂が堆積した影響もあって何度も位置を変えたようですが、明治10年に出来たこの木製燈台はずっとこの位置です。埋め立てが進んで燈台の周囲に次第に陸地が出来ても、1968年までは燈台としての役目も果たしていました」
堺市民の暮らしからは海は次第に遠ざかっていっていますが、役目を終えてなお燈台は立ち続けています。戦後作られたコンクリート造りの建物が無くなってもなお、燈台はあり続けることでしょう。
このように旧堺港は時代時代で次第に姿を変えて今にいたります。その歴史を刻んだ史跡も少なからず存在するのですが、旧堺燈台に比べればまるで知られていません。その中でも最大のものが、今熱い注目を浴び始めています。それは「堺南台場」。江戸時代に築かれた海の要塞、防衛拠点です。
この日は、旧堺燈台の内部一般公開と合わせて「堺南台場」の見学会も開催されていました。
後篇では、新たなホットスポットになりつつある「堺南台場」について迫ります!
旧堺燈台
堺市堺区大浜北町5丁