SATOKOライブレポート@紙カフェ
SATOKOさんが、紙カフェに帰ってきました!
SATOKOさんは、堺出身でがんサバイバーのミュージシャンです。もう10年も前、紙カフェが山之口商店街で産声を上げてすぐの頃、 SATOKOさんは、歌手と観客、双方向のコミュニケーションによって生まれる癒しの場『カフェ・フェリシタージ』を開催してくれました。音楽とコミュニケーションの相乗効果は、毎回その日その場でしか生まれない一期一会の空間で、お客様は他では味わえない体験に魅了されたものでした。
2024年1月14日、紙カフェにてSATOKOさんが久々にライブを開催。綾ノ町へ移転後初めてのライブがどのようなものだったのか、その様子をお届けします。
■再会と卒業の場
開始前から、店内の様子はなんだかふわふわとしていました。次々と集まってくるお客様の表情は皆笑顔で、これから始まるライブへの期待が溢れ出て、楽しげな気分が会場に満ち満ちていたからです。
そんな中、開演に先立って、店主の松永友美さんから重大発表がありました。
「3月末で紙カフェを完全に卒業します。FaceBookなどを見ていただいている方はご覧になっていただいていると思うんですけれど。堺の観光事業としてSakai Experience JAPAN(SEJ)という名前で新しい活動を開始させていただいています。これまで堺のガイド活動をしてきたのですが、日本人の方の反応はすごく良かったんです。(紙カフェに併設されている)ゲストハウス知輪で海外の人が泊まってくださる機会が増えて、堺のことを説明したら分かってくれるし、面白がってくれるんだという手応えがあったんですね。それで英語が喋れて、日本の伝統や文化をちゃんと理解も説明もできるという方を集めて、ガイド組織を作る。今は、その育成プログラムに取り掛かっています」
そう、今回のライブは、松永さんにとっても、紙カフェにとっても大きな節目。SATOKOさんのライブには、その門出を祝うという意味もありました。 新生紙カフェもそのあり方が確立し、スタッフも成長。松永さんの手を離れて独り立ちできるほどに充実し、松永さんはまた新たなフロンティアを開拓すべく船を漕ぎ出したのです。
そして、堺エクスペリエンスジャパンでは、松永さんの相方、共に堺を盛り上げていく仲間として、堤祐治さんが紹介されました。堤さんは外国からの観光客に堺で包丁研ぎ体験などをしてもらう活動を行っています。その実績は、5年間で1000人ほどという驚くべきもの。
SEJには、堤さんだけでなく、松永さんがこれまでの活動で知り合った方々が参加され、堺出身のSATOKOさんも活動への協力を約束してくれました。
さて、SEJの活動、どのようなものになるのか、皆さんぜひご注目ください。
■音楽と癒しの場
ギターを爪弾きながら、SATOKOさんのMCが始まりました。
「私は今、西東京市という、新宿から30分圏内なんですが、畑で採れた野菜を100円で無人販売しているような東京に住んでいます。私は世界の人に堺をプレゼンしたいていうことと同時に、西東京市をプレゼンしたいという気持ちもあるんです。いい加減、堺を離れて30 年ぐらい経つんですけど、いまだに大阪弁は抜けへんねって言われるしね。どこに住んでいても、この住まう地球にいることは皆同じ。みんな同じ地球の上にいます。その中でも、やっぱり私は堺という町がとても大好きです。外から見える堺はどんな風に見えてるんでしょうか? これから松永さんがその通訳をしていただいて、言葉だけじゃなくて、皆さんの皮膚としての体験として、広く多くの方に世界から堺への玄関口となっていただく。この取り組みに私自身もワクワクしております。私も一個人ですが、私の音楽を通して、私という人間が浮かび上がってくる曲がいっぱいあります。『咲く花』という曲を最初に選びたいと思います」
このMC自体が、詩の朗読のような、小さな作品を耳にしているようで、そこから境目なしに、すうっと自然に歌が始まります。
SATOKOさんは、白血病と子宮頸がんのサバイバーです。がんを宣告され、命が脅かされた時に、もし命が助かったのなら、その後の人生は音楽を通じて、ざっくばらんに皆と語り合う場を作りたいと思ったのだそうです。
病を克服する過程で宮古島で体を癒していた折に、SATOKOさんは活動を開始。その時、会場として紙カフェの存在を紹介され、携帯を握りしめて見ず知らずの松永さんに電話したのが事の始まりでした。
そこで次の曲は「てぃんさぐの花」。沖縄本島を中心に、宮古島をはじめ南の島々で歌い継がれてきた民謡です。てぃんさぐとは鳳仙花のこと。鳳仙花の花で爪を赤く染めるように、親の教えを心に染み込みなさい。花や夜空、自然を折り込みながら、親が小さな子供に語りかけるような優しく美しい歌です。
一曲が終わり、さてその次は?
「ところ変わって、私はブラジルのサンバやその場が大好きなんです。皆さんはお好きですか? 悲しみをサンバにして踊る。タイトルそのものが悲しみというサンバをお送りしたいと思います」
爪弾くギターは軽快に、「新しい歌、新しい世界を作ろう」というメッセージを載せて一曲が歌われました。SATOKOさんの『カフェ・フェリシタージ』にしてもそうですが、松永さんにしても、紙カフェを経て、堺エクスペリエンスジャパンを始めるまでの道のりは決して平坦なものではなかったでしょう。ブラジルの黒人奴隷の間から生まれたとされるサンバは、明るさの中に悲しみを内包しながら、生きるために前へ進む歌。この場にふさわしい門出を祝う一曲だったのでした。
■繋がりと船出の場
ライブの合間には、SEJの仲間でアメリカ人のローレンスさんが結婚式をあげている奈良公園からの中継があったり、ウクライナからの難民である二人のアーティスト、ニーナさんとダリアさんによるウクライナ料理ボルシチの販売がありました。当然、ご飯を食べながら、観客同士やSATOKOさんを交えてのおしゃべりも盛り上がります。また、SATOKOさんがお題を出して観客に答えてもらうサイコロトークもあり、すっかりみんな打ち解けたざっくばらんとした空気が濃密に充満したのでした。
それは『カフェ・フェリシタージ』という「対話」による人の繋がりの場に、もう一つ松永さんが紹介する多彩な人の繋がりが重なって生まれた不思議な空間でした。どこが中心軸とも言えない、参加者全員が「主役」とは言わないまでも、傍観者ではなく「個」としてそこにいて、目に見えない何かで繋がっているネットワーク。それはSATOKOさんであれば、歌や観客、松永さんであれば繋がりある人々に対して、敬意を持ってそれぞれの「個」を立てて接しているからこそ生まれるものだと思えたのでした。
食事タイムに、SATOKOさんに短いインタビューを試みました。
ーーお久しぶりです。この間、コロナ禍でパフォーマンスアーティストの方には難しい時期があったと思うのですが、SATOKOさんはどう過ごされていましたか?
SATOKO「私はコロナを通して新しい出会いがありました。オンラインコンサートで大学の小児病棟と繋がったんです。そこで、障がいを持っているお子さんがいるお母さんから、息子さんが大きくなっても障がいはあるということで、学校に行ったり色々勉強している。そんな色んな思いを詞にしたので、曲をつけてもらえないだろうかと頼まれたんです。それで曲をつけて、奈良県でもう50年近くやっている『わたぼうし音楽祭』というのに出たんです。私は賞を取るとかに全く興味は無いんですけれど、『おばちゃんが絶対グランプリ取るからね』って約束してグランプリをいただけたんです」
ーーすごい! 有言実行じゃないですか。
SATOKO「その子のおとうさんも堺出身で、ご縁があるなと思ったんですけれど。グランプリを取った後に、お母さんも大変身をして、お母さんも障がい者のお母さんであるという以外に、自分がやりたかたバレエを習ってみたり、障がい者の服作りをしているデザイナーさんのファッションショーに出たりしたんです。そんな風に思いがけない交流があったので、それが一番ですね。コロナになって、なんとか手繰り寄せて音楽ができた」
ーー災い転じて福となす、ですね。
SATOKO「今でも病院のコンサートは続けています」
ーーそれは素晴らしいですね。
SATOKO「ただ現場は忙しすぎて、まだ(以前の)8割ぐらいしか戻ってないんじゃないでしょうか。現場に行ける病院もあるんですが、オンラインでやっています。今日もまたオンラインの繋がりで来月のコンサートの依頼が来て、最近の曲でお願いしますって(笑) 私は藤井風さんってアーティストが好きなんですけれど、そういう自分のライブだと中々歌えない曲も、皆さんのリクエストで色んな歌を歌う機会が出来るので嬉しいですね」
ーーなるほど。今回、久しぶりに堺に来てどうでしょうか? 新しい紙カフェになりましたけど。
SATOKO「そうですね。思い出に浸る暇はない。愛と勇気と希望を持って船は出発したって感じがします。だから振り返ることなく、残りの人生を走りたいと思いました。卒業ってメランコリックなイメージもしますけれど、そんな事言ってられない。色んな風が吹いて、その風に乗って行きたいと思います」
ーーありがとうございました。
さて、食事を終えて、後半がスタートします。引き続き、SATOKOさんの歌声が流れ、前半と違って席の入り乱れた店内はいっそう雑然と、まったりとしています。まるで、ここは南の島の森で、森の動物たちが集った音楽祭のようにも見えたのでした。
冬の夕刻。早い夜の気配が少し漂うころまで、ライブは続いたのでした。