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企画展『ミュシャとアメリカ』レビュー(1)

 

優雅な曲線で描かれる美しい女性と、生物的な装飾文様。
アールヌーヴォーを代表する画家アルフォンス・ミュシャは、堺市民にとっては親しみを感じるアーティストの一人でしょう。というのも、堺市には、故土井君雄氏が寄贈した世界最大級のミュシャコレクションを所蔵する堺アルフォンス・ミュシャ館があり、また与謝野晶子はミュシャと同時代に生き、アールヌーヴォー的な装丁を好みました。
与謝野晶子関連でミュシャ風のポスター、ミュシャ風のプロダクトは、今でも良く目にします。実際ミュシャの出世作も演劇ポスターでした。そんなこともあり、ミュシャというと、画家というよりデザイナーというイメージを持たれがちです。
そのイメージはミュシャにとっては意にかなうことだったのか。堺アルフォンス・ミュシャ館で開催されている企画展「ミュシャとアメリカ」は、ミュシャの本意に触れることができる企画展でした。

 

■『スラヴ叙事詩』の資金集めのためにアメリカへ

▲サラ・ベルナール「トスカ」

 

ミュシャについては、以前はその生涯をじっくりと取材させてもらいましたが、今回の企画展はその時にはあまり触れなかったテーマです。ずばり、企画展「ミュシャとアメリカ」は、どのような展覧会なのか、担当された学芸員の川口裕加子さんに案内していただきましょう。

まず、アルフォンス・マリア・ミュシャの前半生を簡潔に描けばこうでしょうか。
1860年生まれ、1939年没。オーストリア帝国支配下のチェコに生まれ、画家を志してパリへ留学し、女優サラ・ベルナールのポスターで名を馳せる。その後も、サラ・ベルナールとの仕事は大好評で、アールヌーヴォーの旗手とされる。

――ミュシャといえばパリ。あるいは故国のチェコ。アメリカとはあまり結びつくイメージがありませんね。
川口「1904年から1910年にかけて、ミュシャは渡米しています。それ以前にもアメリカへ行ったことはあったし、この期間もずっと行きっぱなしではなくて、ヨーロッパとアメリカを行き来していたのですが、この時ミュシャはある目的があって渡米していたのです」

 

▲「サラ・ベルナールのカードの習作」

 

――どういう目的でしょうか?
川口「後に彼の代表作となる連作『スラヴ叙事詩』を制作するための資金集めです。ミュシャはサラ・ベルナールの演劇ポスターでブレイクしましたが、もともとは歴史画家を目指していました。当時は、油彩で歴史や神話を描いてこそ正統な画家というのが、美術界の常識だったのです」
――当時は、デザイナーよりも油彩の歴史画家が上という認識だったんですね。格上とか、正統派という意識は今もそうなのかもしれませんが。
川口「実はミュシャのアメリカ行きを後押ししたのも、サラでした。サラはミュシャの画業に大きな影響を与えた人物ということで、今回の企画展の3章構成のうち第1章『サラ・ベルナールとの出会い』では、サラ関連の作品を取り上げています」
--サラ自体が、まず興味深い人物のようですね。

 

■サラ・ベルナールの片腕として

▲「サラ・ベルナール:ルフェーブル=ユティル」

 

――『ルフェーブル=ユティル』。この絵で描かれているのはサラですよね。とても可憐ですね。商品のパッケージ的な絵でしょうか?
川口「パッケージではないのですが、今でいうところの企業のイメージキャラクターとして、サラが使われていて、その絵をミュシャが描いていたのです」
――芸能人が企業キャラクターになるのと同じですね。で、そのお隣にあるのが、『ハムレット』ですか?
川口「今回は有名な出世作『ジスモンダ』ではなく、こちらを展示しましたが、ミュシャのポスターの特徴が良く出ている作品です。縦長のポスター。等身大の人物。背景の精緻な装飾。色合いはきつい配色ではなく、抑え気味のパステルカラーのちょっと淡い色合い。ストーリーを暗示させるモチーフ……ハムレットの父親と恋人が描かれている」
--物語の要素が詰め込まれているのが、面白いですね。

 

▲「ハムレット」

 

――こちらは『ジスモンダ』の舞台装置を描いた雑誌記事の挿絵ですか。ミュシャはこの舞台美術も手がけたりはしたのですか?
川口「この時は違います。雑誌『ル・ゴロワ』で『ジスモンダ』の注目すべき各場面がカラー挿絵で紹介されることになり、ミュシャが抜擢されたのです」
――それにしてもミュシャは、サラとの舞台関係の仕事が多かったのですね。何故なのでしょうか?
川口「ミュシャはウィーン時代にも舞台装置の絵の仕事をしていたそうです。パリでサラと出会ってからは、ポスターだけでなく、サラの衣装デザイン、そこから生まれた蛇のブレスレットや、演劇スケッチも行っています。サラの歴史的な作品やその衣装のデザインは、歴史画家を目指していたミュシャには興味深い仕事だったのではないでしょうか」
――ミュシャがデザイナーではなく、歴史画家を目指していたということが、サラにとっては重要なポイントだったんですね。
川口「サラがミュシャに演劇関連の仕事を発注した詳細ないきさつは分かりませんが、ミュシャはパリ時代に、歴史系の書籍の仕事にも注力しました。ミュシャにとっては歴史はやりたい仕事だったからそこが合致したのでしょう。ミュシャは単なるサラのポスターデザイナーではなく、舞台の関連事業を手がけるサラのアシスタントだったといえるでしょう」
――それだけの関係性があったから、サラはミュシャを後押しして、アメリカ行きを勧めたのですね。

 

▲「ジスモンダ」の舞台装置

現代の日本でも素晴らしいポスターの数々で知られるミュシャ。歴史画家を目指していたことが、デザイナーとしての成功と不朽の名声を得ることにつながったというのは、皮肉な事なのでしょうか。
次章では、ミュシャが歴史画家として描こうとした『スラヴ叙事詩』とは何か、そのきっかけとなったパリ万博について取り上げます。

第2回へ続く)

 

 

 

ミュシャは1910年、50歳の時から約16年かけて、画家人生をかけた大連作《スラヴ叙事詩》を制作し、祖国チェコの独立と平和を願いました。本作の資金収集をするために、ミュシャは1904年以降たびたび渡米し、やがてアメリカで資金調達に成功します。本展は、この大作を成し遂げるために欠かせなかったミュシャとアメリカの関係をテーマとします。ミュシャをパリでデザイナーとして成功させ、また彼の渡米に影響を与えた女優サラ・ベルナールに関連する作品や、《スラヴ叙事詩》の構想を始めるきっかけとなった1900年のパリ万国博覧会に関連する作品、さらにミュシャが渡米していた時期である1900年代の作品など、ミュシャとアメリカに関連する作品をご紹介し、ミュシャにとっての渡米の意義、そして彼の作品や人生に与えた影響を探ります。

 

会期:開催中→2021年3月21日(日)まで
会場:堺アルフォンス・ミュシャ館
開館時間:午前9時30分から午後5時15分(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日(休日の場合は開館)、休日の翌日(2月12日、2月24日)
観覧料:一般510円(410円)、高校・大学生310円(250円)、小・中学生100円(80円)
*( )は20人以上100人未満の団体料金

 


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