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あの夏の日を忘れない~『終戦記念日を考える市民参加のミニ平和と戦争展』

 

75年目の夏が巡ってきました。
75年前の夏を生き、直接の経験を持つ人々が少なくなっていく中、私たちは戦争の記憶をこれからどう伝えていけばいいのでしょうか。8月8日、堺市東区にある東文化会館で『終戦記念日を考える市民参加のミニ平和と戦争展』が開催されるとお知らせがありました。市民主体で、戦時中の記憶をつないでいこうと毎年されている活動とのこと。どんな展示なのか、見に行ってきました。

 

■ゲタ履きの展示を志す

▲戦時中の海軍志願兵徴募のポスターと現代の子どもたちが描いたポスターが並ぶ。

 

展示は東文化会館の入り口に作られていました。
「コロナの影響で、展示スペースは小さく、集会もソーシャルディスタンスを取るため人数が制限されてしまいました」
と語るのは、この展示の主催は「昭和の庶民史を語る会」の柴田正己さん。柴田さんには、近代建築に関してのお話なども伺ったことがあります。柴田さんは言います。
「私たちは専門家ではないけれど、できる範囲で戦争を語り継ぐのが役割だと思っています。大きな博物館の展示ではなく、小さな展示で、ゲタ履きで行けるような生活に密着した展示にも意味があるでしょう。左右どちらからも文句を言われることもありますが、私は右も左も無いと思う。これは戦時中に生まれた者の務めだと思っています」

まずは、NHKスペシャルで制作されたドキュメント番組「日本はなぜ戦争へと向かったのか」第1回『”外交敗戦”孤立への道』のDVDを鑑賞。放送は2011年と9年前のものですが、膨大な資料を基にした番組だけあって引き込まれます。根拠のない安易で楽観的な見通し、一度決めた事を変更できない硬直した思考、誰も責任を取ろうとしない無責任体質によって、外交的に敗北し続け国際連盟を脱退し奈落へ落ちていく日本。
「日本はなぜ孤立化したか。それは長期的視野が無かった。内向きの都合のいい現実を見ようとしていた。方針を一本化出来なかった」
なんだか今の日本の組織でよく見る光景で、90年前の日本の病理を今の私たちが払拭できたのか考え込んでしまいます。

 

▲長年展示と企画展を開催してきた柴田正己さん。

 

DVD鑑賞後、参加された方からも、「今の状況と一緒ではないか」という声が聞かれます。
柴田さんは戦時中の中国で生まれました。戦後、中国旅行で偽物の土産物を掴まされそうになった時に抗議すると「お前達は昔もっと酷いことをした」と責められた苦い経験もあります。しかし、日本と中国の橋渡しをしたいという気持ちがあり、こうした活動を続けてきましたが、それも難しくなってきたとのこと。
「(この活動も)15~6年になるけれど、そろそろ閉鎖しようと思っています。体力的な問題もありますし、コロナで今後の活動は難しくなってきました」
そんなこともあって今年の展示は小さなものでしたが、なかなか見応えのあるものでした。

 

■庶民の体験した戦争史

▲展示を担当した南明弘さんに解説をしていただきました。ケース一つの中は超高濃度の展示でした。

 

展示を担当されたのは、南明弘さんで、個人的なコレクションから厳選して展示されていました。
最初の展示は大阪城にあった国防館についての、写真雑誌の記事です。
「幻の国防館と言われていて、木造平屋建ての施設でした。戦死した軍用犬や馬の剥製があって触れることが出来たり、毒ガス体験などが出来たようです。一種のアミューズメント施設で、戦争賛美USJとでも言えばいいのか、子どもたちに戦争を体験させるための施設ですね」
国防館が幻と言われたのは、開館していた期間が短かったこともあるようです。記事には昭和15年3月10日に開館とありますが、いつ閉館したのかは正確にはわかりません。翌昭和16年12月に太平洋戦争が開戦し、昭和17年9月には大阪城は軍事施設として民間人は立入禁止になります。おそらくその間には閉館していただろうということでした。

 

▲大東亜戦争戦果スタンプ。戦争アミューズメントパークなんて、ディストピア(悪夢の理想郷)映画のようでもありますが、戦時中の感覚ではこれが普通なのでしょう。

 

戦争アミューズメントの資料として、もう1つ「大東亜戦争戦果スタンプ」なるものが展示されていました。これは今でいうスタンプラリーのようですが、一体なんなのでしょうか?
「これは南京で行われた大東亜戦争博覧会のものです」
――戦時中の南京で博覧会をやってたんですか?
「はい。乃村工藝社が一括受注していて、ドイツのバウハウスで学んだ山脇巌がプロデュースすることになったのですが、博覧会といってもパビリオンがわずか2館しかなくて、山脇には呆れられたようです。わざわざ山脇がする仕事ではないと、弟子と乃村工藝社でやったようですね」
――その2館とはどんなパビリオンだったのですか?
「一つは五族共栄パビリオン。もう1つは日本軍の戦果に関するパビリオンでした。他に野外に兵器の展示もあったようです。これ(展示品)は、戦果スタンプの朱印帳ですね。開戦からミッドウェーまで。スタンプを押し間違えたのか、この人は2回回ってます」
ミッドウェー海戦での大損害を機に、日本軍は敗走を重ね戦局は悪化していくので、スタンプがミッドウェーまでというのも何か示唆的です。

 

▲太平洋戦争末期に登場した戦闘機・紫電改の半分は堺で作られていたそうです。現在兵庫県加西市の鶉野飛行場跡地で模型展示があるそうです。

 

子ども向けのものとしては、戦時絵本の展示もありました。中でも、南海ホークスや高島屋、メンタムのデザイナーで知られ、今竹七郎の戦時絵本は目玉展示です。日本のモダンデザインの父とまで呼ばれる今竹の戦時絵本は貴重なものだそうです。

こうした絵本を見て軍国少年に育った方のものなのでしょう。実際に書かれた少年飛行兵募集要項の展示もありました。この要項を見ると、12~14才の少年が募集されています。今でいう中学生を戦闘機に乗せて戦わせようとしていたのです。
「これはオリジナルで、泉大津の人から譲り受けました。裏面は申込書になっていて、学校の成績を書く欄があるのですが、この人は全部100点と書いてありますが、飛行兵に落ちたようです。受かっていたら、死んでいたかもしれませんね」
そして、この日は実際に特攻隊の飛行兵として戦い、生き残った方を夫にもっていた女性からお話を伺うことができました。

 

■北野くめ子さんの戦争体験談

▲94才の北野くめ子さん。最近死別された旦那さんは、特攻隊員の生き残りだったそうです。

 

この日の展示会の参加者の中でも最高齢の北野くめ子さんは94才。静岡県の富士見市出身でしたが、戦時中の昭和16年兄を頼って東京で暮らしていました。
「女学校まで兄が出してくれました。学校では洋裁を習いましたが、生地が無いでしょう。一年間でエプロンをひとつ作ったぐらいです」
戦時中で食べるものもなく、埼玉の親戚のところにお米を買いだしにいっても、帰りの立川駅で見つかって没収されてしまったそうです。
その後立川市の飛行機工場で働いて、タイプライターを打つ仕事をしていると、やっかまれもしました。しかし、お隣に住んでいたおじさんが飛行機工場の重役だということがわかると、途端に手のひら返しで対応が変ったとか。
後の旦那さんに出会ったのもその頃でした。
「兄のところに所沢の航空学校の生徒さんが3人ほど遊びにきていました。みんな特攻隊になり、そのうち2人は来なくなりました。主人は兄に気に入られて、結婚することになったのです」
昭和23年。結婚して九州へ。
「九州は道が綺麗で、草もなければ、ゴミひとつなかった。食べられるものは何でも食べたからです。何かあったら食べる。草も食べる」
昭和40年になり、新日鐵が堺に出来たことで、大阪に引っ越します。長年連れ添ったご主人も今は故人となりましたが、北野さんは、
「いい人生だったと思いますよ」と話を締めくくられました。

時間があれば、もっと詳細にお話をききたい所でしたが、北野さんのお話を伺っていると、柴田さんが言うように「大きな博物館の行う企画展ではない小さな展示にも意味がある」ということの意義が強く感じられました。NHKがドキュメンタリーで取り上げるような大きな決断をした、あるいはしなかった政治家や軍人の言動を記録することも大切ですが、その決断に人生を左右されてしまった庶民の人生を記録することにも大きな意義があるのではないでしょうか。戦争という大きな波に翻弄される小舟のような存在かもしれませんが、数千万数億の庶民たちの人生の積み重ねこそが、私たちにとっての歴史なのですから。

 

堺市立東文化会館
〒599-8123 堺市東区北野田1084-136
TEL072-230-0134 FAX072-230-0138
【休館日:水曜日(祝日の場合は開館)・年末年始(12月29日~1月4日)】

 


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