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「二代目中村富十郎の娘みたきと中村芝翫のつくしの権六」(堺市立中央図書館蔵) |
今回紹介するのは、明治から昭和にかけて活躍した、堺生まれのある演劇人です。
彼の名は曾我廼家五郎(そがのやごろう)。
堺市博物館の企画展「堺と芝居-興行の場とゆかりの人々-」を担当された学芸員の渋谷一成さんによると、堺生まれの歴史上の人物としては、千利休・与謝野晶子・行基・坂田三吉・河口慧海といったメンバーの次に来る重要な人物なのだとか。”堺神5″ともいうべき5人に次ぐ曾我廼家五郎とは一体どんな業績を残した人物なのでしょうか?
曾我廼家五郎に迫るために、渋谷さんに企画展「堺と芝居」を案内してもらうことになりました。曾我廼家五郎と近代堺の演劇界を知る前に、まずは前史として江戸時代の堺の芝居小屋について教えてもらうことにしましょう。
■海へ拡張し続ける堺市街と芝居小屋
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▲『戎島絵図』(模写/堺市立中央図書館蔵)。誕生したばかりの戎島もさっそく市街地化がはじまり、人々を引き寄せるために芝居小屋が作られた。 |
1615年4月28日、大坂夏の陣の前哨戦で堺は焼き討ちにあい、中世堺は消滅。しかし、同年6月には復興が始まり整然とした近世堺の町並みが生まれます。近世堺は中世堺と比べると、東に堀を移動させ一回り敷地を大きくしました。
それだけではなく、大阪湾の海流によって砂が堆積することで陸地が誕生し、西方向へも市街地が広がっていきます。伝説めいているのは戎島で、1664年8月に一夜にして海から島が隆起して生まれたとされています。
江戸時代初期の近世堺に芝居小屋が建てられたのは、そんな海に広がった堺の新地にでした。
1670年に今の南半町の鎰(かぎ)町に芝居小屋が出来、1677年には戎島にあった芝居小屋が幕府に営業を許可されます。
渋谷「新地に芝居小屋が作られたのは、それまで何も無い新地でした。人を呼び寄せて市街地を発展させるために作られたのかもしれません」
こうした芝居小屋では、出雲阿国が1603年に始めた歌舞伎踊りにルーツを持つ歌舞伎が主に上演され、人気を博したのです。
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▲『堺鎰町芝居絵図』(模写/堺市立中央図書館蔵)。向かって左が舞台。馬蹄状の区切りが枡席で、その間にあるのが一般席。 |
企画展には、出来たばかりの戎島や、海岸線が陸化して拡大し新地がしだいに広がっていった様子の地図など、様々な当時の資料が展示されています。
鎰町と戎島の芝居小屋の平面図も展示されており、当時の芝居小屋の様子がわかります。
それによると舞台の正面に一般席があり、一般席の周囲を馬蹄状に枡席が取り囲んでいます。
――芝居小屋はしっかりした建物だったのでしょうか、それとも仮設の小屋のようなものだったのでしょうか?
渋谷「立体の絵図が残っていないのでどういう建物だったのかはわかりません。ただ、長年使われていたので、耐久性のある建物だったとは思われます」
■寺社へ移転
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▲『大日本大相撲勇力関取鏡』(堺市博物館蔵)。力士達のそろい踏みが美しい。この中には天保12(1841)年の堺での相撲で西大関を務めた力士もいるそうです。 |
その後、1704年に大和川の付け替えが行われ、川の運ぶ土砂によって、堺の海への土砂の流入は加速します。七道あたりにあった港も使うことが出来なくなり、何度も港の移転を繰り返さねばならぬ苦労に見舞われますが、代わりに広大な土地を得ます。これは今の三宝町や鉄砲町あたりになります。昔の海岸線には、新地を隔てる環濠が掘られ、これが今の内川になります。
こうして時代は移ろい、2つの芝居小屋も営業開始から100年が過ぎ、新地から移転することになります。
――どうして芝居小屋は移転したのでしょうか?
渋谷「記録では芝居小屋が大破したとありますが、なぜ大破したのかはわかりません」
鎰町の芝居小屋が大破し移転したのが1780年。戎島の芝居小屋が大破し移転したのが1808年と、2つの芝居小屋の移転時期は、随分と時間が空いているので同じ理由ではなく、経年劣化が理由の移転と考えていいのかもしれません。
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▲『和泉名所絵図 宿院』(堺市博物館蔵)。 |
この2つの芝居小屋の移転先は、当時の堺の中心地である宿院界隈でした。それも鎰町の芝居小屋は大寺(開口神社)に、戎島の芝居小屋は宿院頓宮へと寺社境内への移転です。
この頃の興行では、歌舞伎だけではなく、相撲や曲独楽なども行われていました。企画展の展示には、相撲の番付表も展示されています。
――相撲興行は、地元のお相撲さんたちによるものなのですか、それとも現代のような全国組織なのですか。
渋谷「全国組織です。江戸と大坂に相撲興行の組織があって、全国を巡業して回っていたのです。番付表が展示されているのですが、今と同じ紙を縦にして番付を書くタイプのものが江戸のもので、紙を横にして書くタイプのものが大阪のものですが、次第に縦型に統一されたようです」
――それにしても歌舞伎に相撲と、幅広い興行が堺で行われていたのですね。
渋谷「他にも軍事噺、操芝居などもあり、堺で最も繁華な場所と評されるようになりました。しかし、天保年間になると幕府から規制がかけられるようになります」
――それは何故でしょうか?
渋谷「天保の改革が始まり、贅沢が禁じられるようになったからです」
■役者のアジールとしての堺
天保の改革は江戸時代の三大改革の1つで、天保年間(1830~43年)に行われました。当時、天保の大飢饉や大塩平八郎の乱など国内では災害や騒乱もあり、その中で始まった改革でした。改革の中には、奢侈禁止があり、芝居などの各種興行に対する規制が始まります。また寺社の境内地で可能な興行形態も限定されることになります。
渋谷「寺社では、講談など固めの興行が許可されたようです。大寺と宿院頓宮にあった芝居小屋は新地へと移転することになります」
二度目の引っ越し先は、天保年間に更に海に向かって広がった新地です。丁度、現在の南海本線堺駅南口より、さらに南のエリアに北芝居、南芝居という2つの芝居小屋が作られることになります。
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▲『堺海岸絵図』(模写/堺市中央図書館蔵)。今と同じ、かぼちゃのような形の旧堺港の姿が示されている。新地の芝居小屋は今の堺駅南口の近くになる。
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――ここではどのような興行が行われていたのでしょうか。
渋谷「新地では公認の芝居小屋として普通に歌舞伎の興行がされていました。一方、大寺境内では規制がある中、それでも色々な理屈をつけて興行が行われていました。例えば、子供芝居といって子供がでる芝居をしていたのですが、実際には子供は言い訳的に数人でる程度で、大人の役者が多かったようです。また、俄(にわか)という即興コメディも行われました。当時人気の歌舞伎役者のモノマネをして大げさに演じるようなことをした、パロディ要素のある短いコメディ劇でした」
企画展には、俄芸人と真似をする歌舞伎役者の名前が連ねて書いてある役者番付も展示されていますが、得意のモノマネがあるたたり現代のモノマネ芸人と非常によく似た存在だったようですね。
この天保の改革によって移動させられたのは、芝居小屋だけではありませんでした。人気歌舞伎役者達も規制によって居場所を追われたのでした。
江戸では七代目市川團十郎が江戸追放となり、そして大坂では二代目中村富十郎が大坂町奉行所管轄下の摂津・河内・和泉の三カ国から追放となったのです。2人は江戸と大坂を代表する歌舞伎役者で、見せしめのために罪を着せられたようなものでした。
追放刑にあって、市川團十郎は改名し旅回りの舞台に立つようになりましたが、中村富十郎は堺へとやってきます。三カ国の境にある堺でしたが、管轄は堺奉行所で大坂奉行所ではなかったのです。境界線上にあった堺は、その特性から中村富十郎にとってのアジール(避難所または法外の地)として機能したのです。かつては「河原」というアジールで興行を行い、「河原者」と呼ばれた歌舞伎役者が、弾圧によって堺というアジールに避難してきたのは必然だったのかもしれません。
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▲中村富十郎は人気の女形だった。(『中村富十郎錦絵』(堺市立中央図書館蔵)より/冒頭の一枚も) |
堺に移った当初は、小間物屋などしていた中村富十郎だったそうですが、周囲から推されて再び舞台に立ちます。天保15(1844)年4月以降、堺の新地南芝居を拠点として、京都・江戸・名古屋などでの興行にも出演します。
堺で活躍した中村富十郎は、天保の改革が失敗した後も、追放刑は解かれず、安政2(1855)年に亡くなります。その年には、新地南芝居で追善興行も行われました。中村富十郎の住居も新地南芝居のすぐ近くにあり、その跡地である堺駅南口の交番の裏手には石碑が建っています。数年前に同じ並びに、大衆演劇場がオープンしたのも、ひょっとしたら中村富十郎が呼び寄せたのかもしれませんね。
この中村富十郎のお墓は、堺区寺地町の本成寺に今もあります。
さて、その後、時代は明治へと移り、中村富十郎の死から22年後、1人の男が堺に生まれます。その男こそ、世に”喜劇”という言葉を広めた演劇人・曾我廼家五郎(そがのやごろう)でした。
後篇は、企画展の第二章から、近代堺が誇る演劇人・曾我廼家五郎について取り上げます。
堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201