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※『無題』(大正7年/大阪市立美術館) |
「三都三園」と称えられた女性日本画家島成園の企画展『堺に生まれた女性日本画家島成園』が、生家にほど近い「さかい利晶の杜」で開催されました(2019年1月27日まで)。昨今の美人画の展覧会では、必ずといっていいほど作品が取り上げられる島成園ですが、島成園個人を取り上げた展覧会は、企画した学芸員の松浦さんも「調べた限りでは見当たらない」という、貴重な(ひょっとしたら初の)機会でした。
前篇の記事では、20才で文展に入選した成園が、家族の応援もあって画業に邁進し、10年後には美術史にも輝く『無題』『伽羅の薫』といった作品を描き上げるまでを見てきました。後篇では、その直後に成園に訪れた思わぬ運命の変転……それは望まぬ結婚という形で現われた……とその後の人生を取り上げます。
■父の愛、望まなかった結婚
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▲『若き婦人』(昭和4年/大阪市立美術館)。 |
成園の結婚については新聞記事にもなっているそうです。それによると顛末はこうでした。
貧しくとも画家として独立してやっていこうとしていた成園に、父島栄吉と兄島御風(本名:市治郎)が縁談を持ち込んだのです。この縁談は、本人の知らぬ間に話はまとまっており、見合いから結納まで一気に進みました。この性急さは栄吉が重態だったためで、成園も長年に渡って成園の芸術の応援団だった父の「これが最終とだろうと思われる愛撫」と思い、諦めて結婚を受け入れたのでした。
結婚相手の森本豊治郎は、成園の弟子の兄で、京都帝国大学法学部を卒業した銀行員でした。結婚した当初は夫が成園の実家に入る形で、成園は変わらずに画業を続けることが出来ました。豊治郎は成園が画家であることに、理解のある人物だったのです。
経済力もあり、妻の仕事にも理解のある夫。父が探してきた相手だけあって、現代でもなかなかお目にかからない理想の結婚相手のように思えます。
しかし、無口な銀行員の豊治郎は、芸術の世界とは無縁の世界を生きる人でした。父栄吉と母千賀は、成園の作品を賛美し、入選や落選を我がことのように一喜一憂する存在でしたが、豊治郎はそうではなかったのです。
大正9年11月、成園28才で豊治郎と結納を交わします。その翌年、父栄吉逝去。豊治郎は上海支店での勤務となり、大正13年ごろから成園は大阪と上海を往復する生活に。そして昭和5年、母千賀逝去。
家庭に入り、制作ペースを落としていた成園に、父母という応援団を失ったことは大きな痛手だったことでしょう。
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▲『上海にて』(大正14年/大阪市立美術館)。 |
この時期以降に成園が描いた絵も展示会には展示されています。
『上海にて』『若き婦人』の二枚です。丁度、代表作『無題』『伽羅の薫』の隣に置かれているのですが、唯一無二の魅力と迫力のある『無題』『伽羅の薫』と比べると、おとなしい印象です。
『上海にて』は、大正14年の作品。上海支局で働く豊治郎のために上海に渡航した時に描かれたものです。現地の女性をモデルにして、日本とは違う異国風俗を丁寧に描いています。『若き婦人』は、昭和4年の作品。ショートカットの女性がモダンな着物を羽織って編み物をしている様子を描いています。どちらも美しい一枚ですが、それまでの内面の感情が吹き出すような絵とはまるで違います。あるいは一枚の絵で貧富の差がもたらす残酷さを描いた『祭りのよそおい』のような社会性も見当たりません。あの境地から、一体どこへ行こうとしているのでしょうか? どうやら成園自身にも葛藤はあったようです。
「私は何とかして世の中を超越した自由な絵をかきたいと願って居りますが、やはり世の人の注文もあり、束縛があり時には人知れぬ煩悶をいたします」(カタログより 島成園「何時までも若々しい気分で」『絵画清談』1917年5巻9月号)
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▲「さかい利晶の杜」では与謝野晶子の遺した言葉や作品を知ることができる。 |
顧客の注文に対しても、妻の務めというものに対しても、成園は真面目に向き合いすぎる性格で、それが災いしているように思えます。せっかく父親が、画家としての成園を束縛しない相手を捜してきたのにもかかわらず、それが裏目に出てしまったのかもしれません。
望まなかった結婚に思う所は色々あったのでしょう、学芸員の松浦さんによると、成園は結婚というものに対しても、なかなか過激なことを言っているようです。
「成園は、『近頃離婚が恐れ気なしにドンドン行われている、これは見ようによってはいいことだ。腐った家庭を持続することはない。』というようなことも言っています」(松浦)
もし、逆に豊治郎が理解もなく成園を抑圧するような夫であったら、かえって成園は三行半を突きつけて飛び出し、自由な創作活動に没頭できたのではないか? そんな想像もしてしまいます。豊治郎は瑕疵はなかったが、成園を燃えがらせる燃料をくべる人でもなかった。画家としての成園には、それは幸せなことではなかったのではないでしょうか。
丁度、女性芸術家である与謝野晶子が、結婚後に作家としての力を深化させていったこととは、まったく対照的です。
成園は、この同郷同時代の先輩芸術家にひとかたならぬ敬意を抱いていたのですが、2人の人生にどこか交わるところはあったのでしょうか?
■描き続けた画家
与謝野晶子と島成園。2人とも現在の堺市堺区の旧市街区の出身です。晶子が甲斐町東1丁、成園が熊野町東3丁。成園の生家がどこにあったのか、正確にはわかりませんが、両家の距離は500mかそこらでしょう。生年は、晶子が明治11年(1878年)生まれ、成園が明治25年(1892年)生まれの14才差。1900年頃までは晶子は堺にいたので、無名時代の2人が堺にいた時期は何年か重なっています。実家の和菓子屋で店番をする晶子と、近所の少女成園が触れあうような出会いが、さてあったかどうか……。
2人が堺を離れ、文壇と画壇で世に出てからはどうでしょうか。
実は、大正3年4月に大阪大丸で展覧会があり、晶子と成園が共に出展しています。ところが、2人が直接交流したという記録はありません。その後、大正6年に成園は「与謝野晶子に一度会いたいと思っているが、自分は取るに足りない人間なので遠慮している」といった文章を書き残していますので、大阪大丸の展覧会での出会いもなかったのでしょう。
当時、自由恋愛の結婚後、筆で家庭を支えた晶子の生き方は、当時の多くの女性の共感を呼びました。女性の自立に関する評論などは、今に通じる鋭いものがあります。成園の晶子に対する敬意も相当なもので、「自分にとっては皇后陛下に匹敵する存在」としています。おそらく、敬愛しすぎて直接会うことが出来なかったのでしょうね。もはや、ただの1ファンのようで、成園の引っ込み思案な性格が窺えます。
ただ、晶子に会うことも、晶子のように語ることも無くとも、成園は絵で語っていました。実際にはない顔の痣を描いた自画像『無題』や、年増美をテーマにした『伽羅の薫』といった”美人画”に収まらない女性像を描いた作品の背景には、晶子から影響を受けて形作った成園の思想があったことでしょう。
ですが、前述の通り、結婚後の成園の絵からは、こうした魅力は減退していきます。
▲展覧会の第三章のテーマは「画家との交流」。画面右の絵は戦後に描かれた『折り鶴』『手燭』(昭和20年以降/Eミュージアム大坂蔵) |
展覧会には、戦後の昭和20年以降の作品も2点展示されています。それは、いかにも美人画らしい美しい絵で、広告媒体に使いたくなるような繊細さやデザイン性を感じます。しかし、代表作を見た後だと、これが成園の絵と言われても「本当に?」と問い直してしまいそうです。「世の人の注文」を受け入れた結果、強烈な個性をこそぎとってしまったのでしょうか。
しかし、それでも成園は作品制作を止めませんでした。
昭和21年に豊治郎が銀行を退職し、夫婦は大阪へと戻ります。昭和23年の大阪新聞には「郷土慕う成園女史 変つた島之内に感慨無量 廿年仕える女弟子を傍に勉強し直し」(カタログより)の記事があります。この時、成園はすでに56才で、文展の入選から36年の月日が流れた大ベテランにも関わらず、「勉強し直し」しようとしていた。自由に絵の描けぬ煩悶を抱えたまま、それでも筆を折ることはなく、より良い画家を目指して描き続けたというのは、途方も無い意志です。一層強い絵への執念を持ち続けていた後半生の成園も魅力的な人物のように思えます。
この新聞記事にある「廿年仕える女弟子」とは後に養女となる岡本成薫(本名:美津子)のことで、成園は70代になってからも毎年のように成薫と二人展を開催しています。
そして、昭和45年(1970年)、心筋梗塞にて成園死去。享年は78才でした。
生涯画家であり続けた成園が画壇の第一線で活躍した時期は、デビューから結婚後しばらくまでの15年ほどと決して長くはありませんでしたが、成園が女性画家たちに与えた影響は大きなものでした。成園が道を切りひらなければ、後の多くの女性画家の活躍も随分違ったものになっていたでしょう。
成薫の他にも優れた弟子たちを育てたり、他の女性画家たちと共に活動することも多く、後に与えた影響は決して小さなものではなかったのです。
■再評価される成園
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▲『美人十二ヶ月』(大正9年/堺市蔵)。 |
堺市所蔵の成園作品は3作品あります。ポスターなどにも使われた『影絵』に、『秋乃夜』と、一年12ヶ月の行事や風俗とともに美人を描いた『美人12ヶ月』が堺市蔵で、展示された他の作品は美術館や画廊、個人からお借りしてきたものです。成園作品の情報を集める中、松浦さんは驚くことがあったそうです。
「没後もうすぐ50年になるのですが、成園の作品の評価は高くなっているのだと知りました。作家によっては時間が経つにつれ評価が下がるものなのですが、成園はむしろ上がっていて、それにも驚かされました」(松浦)
そう聞くと、ますます生まれ故郷の堺市は、成園との関わりをもっとアピールしてもいいような気がします。
成園が活躍したのは堺を出て大阪市へ移ってからですが、幼少期を過ごした堺の思い出は成園にとって大切なものだったようです。『無題』を発表して世間からバッシングを受けていた時期に、堺の風景を描いた『日ざかり』という作品も発表しています。傷ついた心を癒やすのに、幼き日の想い出の風景が成園には必要だったのでしょう。また、女性の自立を唱える与謝野晶子への共感も、自由都市堺の気風が2人のバックグラウンドにあってのことでしょう。
今こそ、与謝野晶子に続く近代堺を代表する文化人として島成園をプッシュし、堺市は成園のコレクションを充実させるべきではないか? ……なんてことも、考えてしまうのですが、いかがでしょうか!?
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▲『秋乃夜』(大正前期/堺市蔵)。島成園コレクションに、世界最大のミュシャコレクションも加えると、かなりのラインナップ。もう堺市立美術館を作るしかない!? |