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ミュージアムへ行こう! 歴史を遺すドラマがあった!!「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」(1)

 

堺市の過去を何か調べようとすると、まず紐解いてみるのが「堺市史」という書物です。
「堺市史にこう載っていた」「堺市史を見てもわからなかった」
答えがそこなってもなくてもまずは堺市史にあたる……堺市史は堺の歴史のアーカイブ(記録保管所)であり、モノサシでもあるといえるでしょう。
2019年11月、堺市博物館では企画展「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」が開催されました。歴史書がテーマという、地味といえば地味だけれど、堺の歴史好きにとっては要注目のこの企画展を取材してみました。

 

■刊行90周年の特別展

▲堺の歴史を探るものは必ずお世話になる「堺市史」。その成立にも歴史ドラマがありました。

 

大仙丘陵の高台。大仙陵古墳(仁徳天皇陵)と道を挟んだお隣の大仙公園内に堺市博物館はあります。雑木林と小さな古墳に囲まれた深い緑と人工池を控えた姿は威厳に満ちています。古墳から発掘された石の棺をモチーフにしているとされていますが、歴史を閉じ込めた巌といったイメージです。
眺めていると騒がしいおしゃべりの声が聞こえてきました。制服姿の学生たちが教師に引率されて博物館に向かっているのです。

「世界遺産に認定されてから、修学旅行などのコースに入ることも多くなったのです」
と言うのは、今回の企画展を担当された学芸員の渋谷一成さんです。確かに認定後の堺市博物館はいついっても、平日であっても観覧者の姿が多くて賑やかです。
渋谷一成(以下、渋谷)「古墳目当てで来られる方が多い中で、あえて今回は『堺市史』を取り上げました」
--なかなか挑戦的な企画のようでね。しかし、なぜこの時期に『堺市史』なのでしょうか?
渋谷「堺市史が刊行されたのは、昭和3年度、正確には年が明けて昭和4年の3月なのですが、今年はそれから90周年にあたるのです。本当を言えば3月までに出来れば良かったのですが、同じ年ということでなんとかそれを記念した企画を開催することができました」

この企画展の冠に、堺市史編纂90周年記念展と銘打たれているのは、そういうわけだったのです。
考えてみれば日進月歩の歴史学の世界で、90年前の書物が未だにバイブルのような役割を背負っているというのは相当なことのように思えます。堺市史がどうしてそれほどの価値を持っているのか、その秘密がこの企画展で解き明かされるのでしょうか?

渋谷「この企画展では、三章立てになっています。まず、堺市史がどんな事業でどんな人が関わっていたのか、次に続編として昭和40年代に出された『堺市史続編』について、さらに堺市史刊行前の大正13年に開口神社(堺区)などで開催された、市史資料展覧会についてとりあげています。資料としては、堺市中央図書館に多くの資料が残っていましたので、協力として堺市立中央図書館をクレジットしています」

渋谷さんの案内で、まずは1章から見ていくことにしたのですが、ここでいきなり意外な事実を知ることになります。

 

■幻の明治・堺市史

 

▲全てはここから始まった! 堺市史事業に関する市会報告書。市会報告書が展示される展覧会というのも激シブです。

 

渋谷「堺市史には、実は前史があるのです。昭和3年度に刊行される前に、明治34年から36年にかけても市史を作ろうという動きがあり、実際に途中までは作られていたのです」
--それは初耳でした。一体どういうきっかけがあって、明治の堺市史は企画され、そして幻に終わったのでしょうか。
渋谷「当時、大阪市が市史を作っていて、隣の堺市でも自分たちもという対抗心があったのだと思われます。大阪市史を担当したのは、幸田成友(しげとも)という人物で、あの小説家幸田露伴(ろはん)の弟にあたります。帝国大学で国史を勉強し、近代的な歴史学の文章を書くことが出来る人物でした。堺市は、幸田さんを呼びたかったのですが、大阪市の同意が得られなかったのです」
--大阪市としてもライバルの堺市に塩を送るような真似はしたくなかったということでしょうか。
渋谷「そこで、堺市は地元の歴史に詳しい人を嘱託職員として雇って市史編纂をはじめたのです。編集委員に選ばれたのは、学校の先生など教育関係者が多かったようです」

 

▲上の写真と絵面があまりかわりませんが、こちらは「堺史料類纂 学芸」の展示。

展示ケースには、明治の編纂委員たちの肉筆による資料が多数展示されていました。
渋谷「ここには『堺史料類纂』の『学芸』の一冊を展示しています。このページのあたりは過去の書物から千利休について言及されているものを抜き書きしたものになっています。これも相当分厚いですが、他にも『経済』や『商業』といった項目があり、全部で59冊になります」

これは、広大な書物の海から拾い集めてきた本の種ともいうべき資料集なのです。この本の種から、次の段階の市史を編む作業を行った様子がわかる2冊も展示されていました。それが『堺大観稿本』で、赤い罫線の原稿用紙に書かれたものと、青い罫線の原稿用紙に書かれたものがありました。
渋谷「『堺大観』という本を刊行しようと考えていたようです。赤い原稿用紙のものは草稿で、青い方は印刷前の下原稿になります。赤い方にはびっしり書き込みがあるけれど、青い方は綺麗でしょう。このまま活字を組んで印刷に回すための原稿です。赤い方が7冊、青い方も7冊残っています」

 

▲堺大観稿本。赤い原稿用紙は草稿で推敲のあとがあります。青い方は印刷前の下原稿でもう訂正はわずかになっています。

 

--完成一歩手前までいって、どうして明治の堺市史は作られずに、幻に終わってしまったのでしょうか。
渋谷「明治の市史事業は、当時の市長大西五一郎の名前で議案が提出されています。丁度明治36年に開催される第5回内国勧業博覧会を睨んで、2カ年の継続事業として計画されたのですが、36年度の予算が付かずになぜか事業が打ち切りになってしまったのです。その経緯は残念ながらわかっていません」
予算が膨らむことを嫌ったのか、何か他の意図があったのかは分かりませんが、1年半の市史編纂事業は終了してしまったのです。
渋谷「ただ唯一刊行された書物があります。それは明治36年に出た『堺市案内記』という薄い一冊です。堺市のお寺や人物などがこれを見たらわかるようになっています。第5回内国勧業博覧会の開催にあたって、この一冊だけが観光案内的に日の目をみたのでしょう。あとの資料は死蔵されてしまったのです」

こうして2年弱の月日をかけて資料を集め、もう一歩の所までこぎつけた堺市史は書庫の中に眠ることとなりました。
しかし、頓挫した計画がどうしてもう一度芽吹くことになったのでしょうか? それは堺市史の第2の謎といえるでしょう。第2回では、昭和の堺市史に迫ります。

堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201

 


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