さかい利晶の杜企画展「立花大亀と茶の湯」レヴュー(1)
明治から平成まで。19世紀から21世紀まで、3世紀を生きた堺の偉人がいます。
その名は立花大亀。臨済宗大徳寺派の大本山大徳寺の第511世で、政財界に大きな影響力を持ち、戦災で焦土と化した堺の文化復興に貢献した人物です。そのルーツをたどると、堺に鉄砲(種子島)をもたらした橘屋又三郎に行き着き、以前につーる・ど・堺で取材した「タチバナ印刷」さんとは、親戚筋になります。
大亀さんと、親しみを込めて呼ばれることもある、この立花大亀さんを題材にした企画展がさかい利晶の杜で開催されています。題して「立花大亀と茶の湯 三世紀を生きた堺の禅僧」。会期前の内覧会で、学芸員さんにじっくりとお話を聞くことができました。
■達人の手紙
内覧会で案内してくれたのは、担当学芸員の木村栄美さん。
――今回の展覧会の趣旨はどのようなものでしょうか? なぜ立花大亀さんを取り上げたのでしょうか?
木村栄美(以下、木村)「立花大亀を取り上げることで、堺の茶の湯を振り返るというのが趣旨です」
――大亀さんは、堺の茶の湯に関しても貢献された方ということなのですね。
木村「立花大亀は、近代の禅と茶の湯に大きな足跡を残した人物です。今回の企画展では3章にわけて立花大亀と茶の湯について紹介しています。まず第一章「潮風の吹く堺に生まれて」は生まれ故郷である堺との交流を中心に紹介しています。まずはこの引札(チラシ)をご覧ください」
――この引札は以前、タチバナ印刷の立花啓司さんに見せていただきました。
木村「この引札に小間物 立花源治郎と書いてあるのが立花大亀の父です。その横の諸紙商 立花清治郎は、その兄弟で啓司さんの曾祖父にあたります」
立花大亀さんが、生まれたのは明治32年。西暦では19世紀末の1899年。堺市材木町(現在の堺区材木町)の立花小間物店の末っ子長男として生まれます。跡継ぎだったわけですが、仏門に入り20才で得度し、昭和43年には京都の大徳寺のトップに登り詰めます。このように若くして堺を出て活躍をした人ですが、その後も堺との交流は密なものだったようで、それを示すような書簡などが数多く展示されていました。
木村「大亀和尚は筆まめでした。これは従兄弟の立花久壽の息子章(啓司さんの父)に印刷のお礼を書いたもので、絵は一休さん(禅僧一休宗純)です」
――この赤い線はなんでしょうか?
木村「これは木刀を表していて、一休さんが堺の町を木刀を帯びて歩き回った故事にちなんでいます。文章は『心とは如何なるものとたずぬれば 墨絵かけし松風の音』。松風とは茶の湯においては、茶に用いられる湯を沸かす音にも例えられます」
――墨絵に描いた風。目に見えないけれどあるものですよね。お礼状ひとつにも、禅の思想を感じられることを書いてるんですね。
木村「こちらの手紙はもらった方が表装しています。内容は確定申告をするために必要な書類を作ってもらったお礼状で、達磨が描かれています」
――こんな芸術性の高いお礼状は、うかつにもらってしまうと、表装するしかないですよね。
■紙を愛した人
木村「こちらには立花章さん宛の封筒が展示してありますが、よく見てください。包装紙なんです」
――包装紙を再利用したんですか?
木村「包装紙自体は、京都の京田辺にある茶舗奥西緑芳園さんのもので、大亀和尚が命名した『花橘』という抹茶を販売しています。こちらは茶道具屋さんのカレンダーを利用した封筒もあります」
――高僧が、主婦の節約術みたいなことをしていたとは。精神性の高い芸術家としての側面以上に、驚かされます。
木村「実家が紙を商っていたということもあり、貴重な紙をとても大切にしていたのだと思います。こういう几帳面な一面に加えて、可愛らしい一面もあって、大亀の名前にちなんで、亀グッズを集めたりしています」
――すごいお茶目な人ですね。
言葉少ないながらも、雄弁な絵手紙は達人の手によるものですが、お手製封筒や亀グッズを見てしまうと、なんとも言えない親近感も感じてしまいます。
次回は、こうしたプライベートな交流を離れて、大亀さんが堺の茶の湯文化に対して行った大きな貢献を見ていきましょう。
さかい利晶の杜
堺市堺区宿院町西2丁1番1号
072-260-4386
http://www.sakai-rishonomori.com/
企画展「立花大亀と茶の湯 3世紀を生きた堺の禅僧」
会期:2019年9月14日(土)~10月20日(日) (9/17、10/15は休館)9:00~18:00(入館は17:30まで)
観覧料:一般300円、高校生200円、小学生以下100円