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ミュージアムへ行こう! 歴史を遺すドラマがあった!!「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」(4)

 

明治に事業化されながらついに刊行されずに幻に終わった明治の『堺市史』(記事第1回)の後、大正13年(1924年)に市史編纂部が置かれ、昭和4年(1929年)より『堺市史』の刊行が始まります(記事第2回)。それから戦争を経て昭和45年(1970年)から『堺市史続編』が刊行されました。そして、この2つ(あるいは3つ)の『堺市史』を立体化したものとして、昭和55年(1980年)に堺市博物館が開館します(記事第3回)。
その堺市博物館では、2019年11月~12月22日にかけて、『堺市史』刊行90周年を記念して記念展「わたしたちの歴史を編む-『堺市史』とその時代-」が開催されていました。3章立ての記念展のうち、前回までの3回の記事で、第1章から第2章までを紹介してきました。第4回も、企画担当の学芸員渋谷一成さんの案内で、第3章「再現・堺市史資料展覧会」について取り上げます。

 

■南蛮船の堺というイメージを決定づけた展覧会

 

▲大正13年頃の開口神社。今より境内ははるかに広く、塔があり、本殿の向きも90度違った。

 

堺市史資料展覧会が開催されたのは、大正13年(1924年)の11月7日から10日の4日間。甲斐町(現堺区)にある開口神社の瑞祥閣ででした。この展覧会には、市史編纂事業に先駆けて、市民の意識を高めようという目的があったようです。
展示品は、名誉委員や展覧会出品資料募集員などが中心になって、蒐集した市内の資料でした。この時出品された資料のうち、戦火を免れたものの幾つかは、現在も堺市博物館の所蔵品や寄託品となっており、令和元年(2019年)の企画展でも展示されたのです。

第1章から第2章までが、資料や図版の展示が中心だったのに対して、第3章では実際に展覧会で展示された美術品などもあり、少し違った印象です。特に大きな屏風や掛け軸は目をひきます。江戸時代に描かれた『日本図・世界図屏風』に、『南蛮人渡来図』、『南蛮屏風足利時代堺入港図』などがそれです。こうした絵画は、堺といえば南蛮人、南蛮貿易というイメージを形作るのに大きな役割を果たすことになります。

 

 

渋谷一成(以下渋谷)「大正13年の堺市史資料展覧会では、11月8日に講演会も行われています。『堺市史』監修の三浦周行先生と、『広辞苑』を作った新村出先生が講演を行いました。講演の内容は、イエスズ会の資料の中に堺がどう出てくるかなど、南蛮貿易の時代に絞って話をされたようです。この絵自体は江戸時代に描かれたもので、描かれている環濠の様子から、南蛮貿易時代の堺を描いたものという説もありますが、長崎という説もある。実景を描いたわけでなくて、1つのパターンを描いたのだと思われます」
――今では、実際に堺港には南蛮船は入港しなかったのではないかとも言われていますよね? 長年南蛮船入港のイメージがあったのは、こうした絵の影響もあったのでしょうか。
渋谷「周行先生はこの講演会で、わりとラフに堺はこれだと言ったので、そのイメージが定着してしまったということはありますね。堺市史編纂という大きな事業に対する市民の理解を得るために、わかりやすい視覚的なイメージをあえて言ったのかもしれません」
――周行先生は、ちょっと盛ったってことですよね(笑) でもそのお陰で、「黄金の日々」のイメージが、良くも悪くも堺に定着してしまった。そう考えると、後々まで大きな影響を与えた講演であり、展覧会だったのですね。
渋谷「与謝野晶子も昭和3年に、『史実と伝説の堺展に寄す』と題して六首の歌を発表しています。『堺の津 南蛮船のゆきかへば 春秋いかに入り混りけん』などがそれです」
――それは有名な一首ですよね。与謝野晶子まで巻き込んでいたとは。

■歴史を大切にする精神を継承していく

 

▲谷宗印夫妻画像。

 

渋谷「この展覧会には19の部門が設けられており、『南蛮屏風足利時代堺入港図』は第4門一般資料部門(屏風類)にあたります。他にも第6門に、『市民ノ祖先関係』という部門が設けられています。堺の豪商を描いた『谷宗印夫妻画像』がそれです。谷宗印は、寛永11年に祥雲寺(堺区大町東)を開山し、あの沢庵宗彭を迎えています。絵の賛は沢庵宗彭のものです」
――市民が協力し、市民が伝えてきた歴史を集積したという点でも、普通の展覧会と少し様子が違いますね。
渋谷「実際、多くの堺市民が協力しています。名誉会員でもあった大和川染工所の創設者柳原吉兵衛は、堺市に様々なものを寄贈していますが、変わったものもあります。こちらで拓本になっている石碑はご存じでしょうか」
――あ、これは見たことがあります。たしか南海本線「七道」駅の駅前にありますよね。
渋谷「そうです。これは『放鳥銃定限記』といって、いかに堺の鉄砲が優れているかを書いて石碑に刻んだものです。江戸時代の寛文4年(1664年)のもので、長らく地中に埋もれていたのですが、大正3年(1914年)~4年(1915年)に行われた大和川畔の水路工事で発見されたものを、柳原吉兵衛が自然石にはめ込んで石碑として、のちに堺市に寄贈したのです」
――なるほど。だから鉄砲町にあの石碑があるんですね。長年の謎が解けました(笑) 今回の企画展で展示されている展示品をみても、バラエティに富んだ展覧会だったことがうかがえるのですが、規模的にはどの程度の展覧会だったのでしょうか。
渋谷「展覧会のときに作られた目録によれば、約1000点の資料が出品されていたそうです。資料の読み解きも緒に就いたばかりですので、今後の研究が期待されます」

 

▲『放鳥銃定限記』拓本。

 

――『堺市史』から『堺市博物館』への流れがあることも今回興味深かったのですが、開館40周年になるこの堺市博物館の今後についてはどう考えられていますか?
渋谷「開館時のコンセプトもあってか、常設展を中心にした区切りのない展示場で、企画展や特別展をするのに専用の展示室がないというのは使いにくいところです。空間のコントロールが難しくて、できることには限界があります。しかし、耐用年数から考えても、しばらくいろいろと工夫して大切に使っていきたいですね」

この日も、大仙公園の美しい緑の中を歩いてこの博物館にやってきたわけですが、公園の緑と空を背景にして威厳のある建築だと感じました。残念ながら、現代ではこうした重厚感のある建築物を作ることは難しくなっているように思います。建築ファンとしては大切に使って欲しい所ですが、博物館ファンとしてはおっしゃる通り必ずしも展示しやすい、見やすい施設ではないようにも感じます。いずれ建て直しという話も出てくるでしょう。ただ、その時でも、開館以前に堺市史の長い歴史があって、その歴史を大切にする精神を継承することを忘れないでいて欲しいと思います。そういうことを考えさせてくれる企画展でした。

 

 

堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201

 


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