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新堺史発見(2) 江戸時代 井原西鶴が見た堺(後篇)

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(※山之口商店街)
歴史時代の堺といえば、大仙陵古墳などの古墳時代の堺、千利休やルソン助左衛門が活躍する戦国時代の中世堺、与謝野晶子や鳥井駒吉が登場する明治以降の近代堺はよく取り上げられても、江戸時代の近世堺は注目されてきませんでした。せいぜい大和川のつけかえによって港が埋まり衰退したといったネガティブなトピックスが目につく程度でした。
そんな現状に一穴を開けるのではないでしょうか。堺市博物館の連続公開講座 堺の再発見では、学芸員矢内一磨さんによる「意外と知らない江戸時代の堺―井原西鶴に学ぶ―」が開講されました。江戸時代の大文豪・井原西鶴が鮮やかに当時の堺の姿を描いたことに矢内さんは注目したのです。
前篇に引き続き、後篇でも講座をレポートし、井原西鶴の筆を通した江戸時代の堺に迫ります。
■堺の長崎商人 小刀屋
前篇では、井原西鶴の「日本永代蔵」から、大小路でお酢を売っていた樋口屋のエピソードを取り上げました。新春の蓬莱の伊勢海老を車海老に、橙を九年母に代えて安く済ませて絶賛された話、雇用関係を越えた師範と弟子のような店員教育をした話などを、井原西鶴は書き残していました。
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▲堺区の山之口商店街にある小久商店の暖簾には「小刀屋久兵衛創業」の文字が残る。
矢内さんが講演で「日本永代蔵」からもう一軒取り上げていたのは小刀屋です。
「日本永代蔵」によると、「この津(堺)は長者のかくれ里、根のしれぬ大金持その数をしらず」と言われる中で、堺の長崎商人・小刀屋はさほどの商人ではないと紹介されています。そんな小刀屋ですが、ただ1人の跡取り息子が大病にかかり存続の危機となります。手を尽くし手厚く看護しても回復の兆しがなかったのですが、人の紹介で「歩行医者ながら、療治よくせらるる」とある医者を紹介されます。歩行医者というと、現代だとなんだかウォーキングの指導でもするのかと思ってしまいますが、そうではありません。
「医者には歩き医者と駕籠医者がいて、歩き医者はランクが低い医者のことです」
と、矢内さんの解説。お金が無くて徒歩で往診に来る医者が歩行医者ということですね。
小刀屋が紹介された歩行医者に診せた所息子は7割方回復したのですが、その後名医に診せた所たちまち悪くなってしまいます。小刀屋は恥を忍んでもとの歩行医者を頼った所、半年あまりで「鬼のごとく達者に」なりました。小刀屋は喜び、銀3~5枚の報酬が相当な所、銀100枚他の破格の報酬を与えます。関係者は協議して、この謝礼を歩行医者に貸す形にして家屋敷を買わせた所、程なく駕籠医者にランクアップしたのでした。
「西鶴は家の存続の危機に際して的確な判断をした小刀屋の見事な金使いを高く評価しました。また、小刀屋の謝礼を関係者が頭を使い、腕はいいがランクが低い医者のランク向上のために有益に使われ、社会全体に還元された形になった。この点も西鶴は特記することで高い評価を与えています」
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▲講演中の矢内一磨さん。
この小刀屋ですが、その子孫は現在も堺でお店を営んでおられます。矢内さんは、子孫で小刀屋久兵衛から名付けた「小久商店」も取材しています。
「小久さんは、『うちの先祖がそんな立派なところのはずがない』と謙遜されるのですが、間違いないです。160年前の大地震の時に金岡にノコギリを売りに行った記録が残っています。小久さんのおばあさんに話を聞くと、釘1つ粗末に扱ってはいけないといった商人の精神が伝わっています」
もうひとつ、小刀屋に冠された「堺の長崎商人」とは何なのかも注目のキーワードです。
それは江戸時代、日本で唯一海外へ開いた窓であった長崎で商売をした堺の商人のことでした。「日本永代蔵」には小刀屋は長崎へ出向いて商売し、成功を収め、子孫に大きな遺産を残したエピソードも紹介されています。西鶴の時代は、まだ大和川の付け替え前です。
堺の港が砂の害にあう前から、長崎とのコネクションで海外貿易の利益を得る体制に移行していたことがうかがえます。時代や環境が代わっても堺の商人はしぶとく商売を続けていたようですね。
■成熟都市 堺
矢内さんは、西鶴の描く堺をこう解説します。
「西鶴の筆は堺の社会全体にも及んでいます。大坂の高麗橋から大小路まで3里の距離だが全く別世界だと」
今日を暮らせば明日のことは気にしない享楽的な生き方をする大坂に対して、堺は年初から年末までの経費を決めて逸脱せずに暮らしている。しっかりした堅実な町で、なんとなく老け込んでしまうような雰囲気もある。堺は始末で立つ町なのです。
「山之口の商家の大奥様でも、親の代からの着物を未だに大事に使っている。それはよっぽどいいものだからでしょう。始末の精神はケチではありません。無駄なことをしない。ものを大切にする。商人の精神で、丁寧に丁寧にやっていく。大坂の場合は、天下の台所で日本列島全体のものを飲み込んでは出し飲み込んでは出しで、高度成長時代がずっと続いている。それに対して堺は成熟都市だといえる」
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▲江戸時代中期、大和川の付け替え以降に新たに掘られた内川。
成熟都市とはどのような都市のことなのでしょうか。
「堺は大和川の付け替え以前から、経済は停滞していた。しかし停滞は衰退ではない。文化が成熟した一つの形ではないでしょうか。堺は大坂のように常にバブルで回る都市ではない。ヨーロッパの都市のように、停滞ではなくて成熟した都市だったといえるでしょう。一面だけを見て、堺が衰退していたというのはおかしいのです。江戸時代の堺は、大きな破綻もなく、人のものを盗ったりすることもなく、豊かな生活を送っていました」
こうして矢内さんが、井原西鶴を案内人に描き出したのは、ヨーロッパの都市のような大人の都市、成熟都市堺でした。それはわずか3里離れた新興都市大坂がバブリーな高度経済成長都市であることとの好対照を成していたのです。
中世の自由都市堺は、江戸時代に入って葬り去られたわけではなかった。
南蛮船が直接やってくるような貿易港では(もともと大型船には不向きな港だったとの説もありますが)なかったにせよ、中世から培った交易や商売のノウハウやネットワークは江戸時代に入っても命脈を保って小刀屋のような商人を生みました。
今回の講座では触れられていませんが、鉄砲鍛冶も江戸時代に入って全国シェアNO1を維持し続けていたといいます。分業制の鉄砲鍛冶が、堺の技術水準を長く維持させ、明治の近代工業化を受け入れる素地になったはずです。
矢内さんが「江戸時代を抜きにして前後の歴史を語ることは出来ない」と言うように、歴史の連続性を無視するとは出来ません。
たとえば堺市が世界遺産入りを目指す百舌鳥古市古墳群の大仙陵古墳にしても、各時代ごとに変遷がありました。白い化粧石に覆われていたとされる創建時の姿。堀の水が農業用水や生活用水に使われていた時代。薪として木が伐採され、丸裸になった時代もありました。江戸時代には、花見の名所として幕府の保養所があったともいいます。

 

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▲講演終了後、熱心な参加者の方からの質問に個別に答える学芸員の矢内一磨さん。
江戸時代はひときわ長い時代でした。この時代の堺がどんな様子で、堺をどんな風に形作り、今の時代に何を残し、どんな影響を与えたのか。とても重要な要素であることを、この講演は教えてくれました。
今後、矢内さんや研究者の方々が、どれほどの新しい知見をもたらしてくれるのか、期待したいと思います。
堺市博物館
住所:堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
開館時間:午前9時30分から午後5時15分(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日
電話: 072-245-6201

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