ハンラクのヒーロー 阪田三吉(2) Brave heart

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村田英雄の演歌「王将」では「うまれ浪花の 八百八橋」と歌われる棋士・阪田三吉ですが、実際の生まれ故郷は現在の堺市堺区協和町になります。中世には塩穴、江戸時代には舳松村の一部で、差別にさらされる集落でした。明治に入ると、四民平等の法令にも関わらず、差別はそのままに経済的にはいっそう厳しい状況に追い込まれた地域です。(前篇
16才の時に父を失い賭け将棋で家計を支えていた阪田三吉は、35才の頃に和泉市の南王子村の竹田コユウと結婚し、その頃に大阪市西成区今池の長屋に居を構えます。阪田三吉が「浪花」男となったのはこのころでした。
不意打ちの勝負で東京のプロ棋士関根金次郎に敗れてから10年。敗北の悔しさを忘れる時はなかったでしょう。大阪の阪田と東京の関根。中篇では東西両雄の対決から、棋士・阪田三吉の戦いを見ていきましょう。
■魂をぶちこむ将棋生活へ
1903年(明治36年)に阪田三吉は、関根金次郎から五段半という奇妙な段位の評価を受けます。
1894年(明治27年)の覆面の関根金次郎との初対戦から9年たつ間に、関根は名人に次ぐ八段位となり、自ら段位を授けることが出来る存在になっていました。関根は自分で授ける最高位を五段と決めていたのですが、さりとて阪田の実力は五段で収まるものではなくまた六段ほどでもないと、五段半という中途半端な評価となったようです。
関根をライバル視していた阪田にとっては、面白いはずはありません。阪田自身はこの時期は「無段」を通しました。
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▲阪田三吉ゆかりの将棋盤。読み書きが苦手だった阪田が、後年習って書けるようになった字は「三」と「馬」、「吉」だけだった。(写真提供:舳松人権歴史館)
2人の対決の機会は1906年(明治39年)にやってきます。3月に行われた対戦は阪田の2勝1敗(通算成績は5勝6敗)で、4月4日の対戦は「指し掛け」で引き分け勝負無しとなります。4月22日の対戦で、阪田は「指し掛け」の続きからの「指し次ぎ」を求めますがどういうわけか認められずに、はじめからの勝負になります。
この時期の阪田は「新しい力が次から次へと吹き上がってくるような気がした」と、生涯でも棋力の充実した時期でした。関根を追いつめるほどの猛攻を仕掛けていた阪田でしたが、同じ手を繰り返し2人の戦いは「千日手」となったのです。
「そのままだと千日手で自分の勝ちですよ」
関根に「千日手」を指摘された時、阪田は驚きます。阪田は千日手は格上の存在が手を変えなければならないものだと、間違った理解をしていたのです。この指摘の後、阪田は劣勢に立たされ敗戦します。
千日手で勝つなんて天下の関根八段が素人同然の自分に対して卑怯だ! 阪田の無学のつけ込んでの関根の勝利に、それまでの経緯もあってでしょう。阪田は収まりません。家に帰るなり、妻のコユウに離縁を切り出します。
「俺は今日から本当の将棋指しになる。(中略)俺が将棋ばかり指すとなると、どんな難儀なことになるかも知れない。だから今のうちに出て行ってもらいたい」
美人のコユウは実はバツイチでした。若いころからコユウに惚れていた阪田は乞うて一緒になったのですが、その恋女房も子供も捨てるほどの決意でした。しかし、コユウは共に苦労したいと阪田を励まし、この日から阪田夫婦の戦いがはじまります。
後の回想録の中で、阪田三吉は「その日、その時から本当の将棋指しとしての生活が開けた」といい、「関根」という目標を目指し「魂をぶちこむ」ことになります。
■実力本位の世界へ
一方、関根は関根で、権威に牙をむいていました。
江戸時代に徳川幕府によって作られた将棋の家元制では、名人は実力によって選ばれるのではありませんでした。将棋3家(大橋本家・大橋分家・伊藤家)の中から終生名人が選ばれるのでした。しかしあらゆる制度が崩れた明治維新以降は、家元制も揺らぎます。最後の家元制名人(十一世)の八代伊藤宗印が1893年(明治26年)に死去すると、7年の空白ののち将棋3家以外からはじめて小野五平が名人位につきます。
これに異を唱えたのが、伊藤宗印の弟子の関根金次郎でした。名人就任の披露宴への招待状がなぜか関根に届かなかったこともあって憤慨し、どちらが名人にふさわしいか雌雄を決しようと果たし状を送り付けたのです。後に関根は「私の生涯の一大過失」と若気の至りを後悔しますが、この時は大騒動になり、老齢の小野の死後は関根が名人に就げばいいとの周囲のとりなしがあって関根は果たし状を取り下げます。この時の遺恨が、関根をして実力名人制への転換を後押ししたともいわれています。
この時代は家元制から実力制への過渡期でした。「千日手」で敗れ、本気の将棋指しを目指した阪田三吉も黙っているはずがありません。1910年に阪田は自らに七段を授けたと発表します。
「自分は七段の実力があると思うから、自分で認定して堂々とこれを天下に声明する。(中略)もし異存があればいつ何時でも手合わせに応じる」
家元制では段位免状を出す資格は名人だけが持っていた中、この前代未聞の発表はラディカルなものでした。阪田は「そのころの関西の将棋界はまったく活気がなかった」のでそのままにしておけなかったと、発表の理由を語っています。阪田の挑戦に、五段を持つ関西の棋士2人が勝負を挑んできますが、阪田はこれを一蹴します。
東京の棋士は沈黙し、阪田の挑戦に応じるものはいなかったのですが、世間は関根と阪田の対決を待望します。
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▲舳松人権歴史館内の阪田三吉記念室では、様々な資料を閲覧することができる。
世間の声に後押しもされ、阪田はいよいよ関根との対決のために初上京します。
「負けたら高野山に登って坊主になる」
そんな決意を胸にしての上京です。演歌「王将」に「明日は東京に 出て行くからは なにがなんでも 勝たねばならぬ 空に灯がつく 通天閣に おれの闘志が また燃える」と歌われたのは、この時の情景でしょう。
この時の5連戦、東京で行われた最初の1番が名高い「泣き銀」の1番でした。
気負いすぎた阪田の序盤の形勢は悪く、死の物狂いで銀の一手を打ちます。
「その銀は進退窮まって出た銀だった。出るに出られず、引くに引かれず斬り死に覚悟で捨て身に出た銀であった。ただの銀じゃない。それは阪田が銀になっているのだ。その銀という駒に阪田の魂がぶち込まれているのだ。――その駒が泣いている。涙を流して泣いている」
と、後の新聞連載で阪田はその時の心情を語っています。この銀は悪手で、関根が余裕をもって放置し、じわじわと仕留めれば阪田の敗北は必至でした。しかし、「阪田の魂がぶち込まれた」銀を、関根も見過ごせなかったのです。大将首を狙うように銀を倒そうとし、阪田も必死になって抗います。
この戦いは実に30時間に及びました。勝負に立ち会っていた小野名人も、
「ワシは四十年来こんな凄い勝負は見たことがない」と驚くほどの、殺気に満ちた一戦でした。関根の追撃から逃げ回るうちに阪田の銀は大暴れをし、形勢逆転で勝利を収めることができたのでした。
この「泣き銀」の一戦を含めて5連戦での戦績は阪田の3勝2敗。小野名人から、準名人である八段を公認されることになります。
■美意識に満ちた将棋指し
実力によって八段をもぎ取った阪田三吉の将棋は、どんな将棋だったのでしょうか。家元制名人の師匠について定跡を学び、軽やかな棋風だった関根金次郎に比べて、師匠をもたず我流の力将棋・喧嘩将棋などと言われます。しかし、残された阪田の証言からは強い美意識をもって将棋を指していたことが伺えます。
たとえば口述筆記の新聞連載では、桂馬の王手飛車取りについてこんな事を記しています。
「桂馬というものは、決して綺麗なものではない。よろこんで掛けるものと違う。掛けなければならぬ場合は、仕方なしに掛けるものの、嬉しがって掛けるものとちがう。況や王手に褌なんて王の尊さを知らぬ者のすることである」
王手飛車取りなんて、素人なら喜んでやってしまうところですが、阪田は桂馬の役割はそんなものではない。そして王に失礼だというのです。
また同連載では、相手が自分の妙手に気づかずに指し続けていた相手に対して「これは余程のむつかしい角だから、よく気をおつけなさい」と忠告したエピソードも紹介しています。阪田の応援団は呆れますが、阪田にしてみれば非難する方がおかしいのです。力士は立ち合いを合わせるものだし、真の武士は相手が刀を失った時は、立ち直るのを待ってやるもので、不意打ちの勝利は勝利ではないのです。
舳松人権歴史館にある阪田三吉記念室には、阪田が発明した折り畳み式の携帯将棋盤などが残されています。元職人らしい一面でしょうか。ある時、弟子から周囲に囲いをつけた落ちない駒台を作ってはどうかと勧められた時、激怒したといいます。
「将棋は勝負やで。(略)勝つもあり、負けるもあり、それが勝負や。(略)負けて落ちるところに値打ちがあるんや。落ちない将棋なんて、将棋やない」
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▲阪田三吉記念室にある阪田三吉(右)と東京で親しくしていた棋士・金易二郎(こんやすじろう)の等身大パネル。身長は5尺(約150cm)と小柄だった。
記念室にはこんなエピソードも残っています。
大事な手合い中に相手の支援者が別室で継盤研究をしていることがありました。支援者から「向こうもやっているからこちらも」と勧められても阪田は、
「自分1人で相手6~7人なら、一時に6~7人を倒せて気持ちいいじゃないか」
と応じませんでした。
阪田には、美意識と共に人生観・人生哲学のある人だったのではないでしょうか。関根の「覆面」や「千日手」が許せなかったのも、阪田の美学を知れば納得できます。
美意識は将棋だけではありません。虚像では粗野な人物として描かれる阪田ですが、実像は非常におしゃれな人物でした。
貧困に苦しんでいた頃、「千日手」の時もコユウに揃えてもらった羽織袴で出かけ、年をとってからも憐れんでもらいたくないと爪の手入れや白髪を抜いたりと身なりを整えたそうです。娘たちからも「センスのある人でした」と語られています。
まるで源平合戦の頃の武士のように、将棋の指し方も生き方も身なりも美しくあった将棋指し……伝えられてくるエピソードから見えるのはそんな阪田三吉の姿です。
■名人僭称事件
8段を得て「名物男」と世間に認められた壮年の阪田三吉に、2人の死、2つの大きな出来事が起こります。
ひとつは苦楽を共にした妻コユウの死です。
その日の食事にも事欠き、子供を連れて心中を考えたこともあった貧困生活を共に乗り越えてきたコユウは46才で世を去りました。1925年(大正12年)、阪田三吉57才の時です。白内障を患い棋士生命の危機にあった阪田の快癒を祈願して柳谷観音で水垢離の行をしたのが、命を縮めたともいわれています。
コユウは、死の床の枕元に阪田を呼び、
「あんたは将棋が命や。阿保な将棋は指しなはんなや」
と遺言を残します。ようやく貧困生活を脱した頃で、これからという時でした。この遺言と、掛け続けた苦労に報いることが出来なかったコユウへの想いを阪田は終生抱き続け、二言目には「(コユウが水垢離をした)やなぎだはんのお陰だす」が口癖になりました。
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▲名人として阪田が授けた段位の免状。「馬」と「三」「吉」の三つの文字しか書けない阪田がどうして免状を出すことが出来たのか。「坂田」と署名されていることにも注目。(写真提供:舳松人権歴史館)
もう1つは、名人小野五平の死です。1921年(大正10年)に、小野名人は91才の長寿で亡くなります。関根金次郎にしてみれば、ようやっと待ち望んだ時でした。生前、小野名人は因縁のあった関根よりも、阪田を名人にしたい意向があったようです。関根と阪田それぞれの後援者も穏やかでなく、「多くの弟子を育てた関根」と、「関根以上の実力を持つ阪田」と両雄が名人位を継ぐべき理由をいいたてます。しかし、当の阪田が「先輩の関根に」と異論を唱えなかったため、同年関根金次郎は十三世名人となります。
ところが、これで話は収まりませんでした。
4年後の1925年(大正14年)。周囲に推薦される形で阪田三吉の名人就位式が行われたのです。同じ時に、名人が2人も在位するなどあり得ない暴挙でした。
周囲が騒ぐ中、さらりと関根金次郎に名人位を譲った阪田三吉が、4年後になぜ突然名人を名乗ったのでしょうか。七段を自称した彼らしくあるようでもあるし、武士のような美意識を持つ彼らしくないようでもあります。
この謎に迫るには、後編では再び生まれ故郷の塩穴に立ち戻る必要があります。
(後篇へつづく)
舳松人権歴史館

堺区協和町2丁61-1
(人権ふれあいセンター内)

入館料 無料
開館時間 午前9時30分から午後6時30分
休館日 月曜日(祝休日は開館)・年末年始
※参考文献
『反骨の棋士 阪田三吉 その栄光と苦難の道』/舳松歴史資料館
『さんきい物語 へのまつ村の阪田三吉』/部落解放堺地区舳松歴史・文化を守る会 舳松歴史資料館
『棋神 阪田三吉』/中村浩(講談社)
※写真提供(タイトル写真他)
舳松人権歴史館

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