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雑記帖 No.136

ハンラクのヒーロー 阪田三吉(1) Unbroken

不屈の男

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■守子の将棋指し
2017年。負け知らずの中学生棋士が、将棋界を越えて話題になっています。しかし、今から100年以上の昔、堺生まれの将棋界を越えたヒーローがいました。そのヒーローの名前は阪田三吉。むしろ、「阪田三吉は堺出身だったの?」と驚かれる方が多いかもしれません。「浪花男」「通天閣」のイメージが阪田には強く結びついています。

このイメージは阪田三吉を主役にした数々の文芸作品、たとえば北条秀司原作による舞台/映画「王将」や、船村徹作曲で村田英雄のヒット曲「王将」によって作られたものです。舞台「王将」は俳優の緒方拳をして「舞台人なら誰もが演じたい」と言わせる不朽の名作で、演歌「王将」は300万枚売り上げた戦後初のミリオンセラーとなりました。「ふけば飛ぶよな将棋の駒に賭けた命を笑わば笑え」のフレーズは、村田英雄の名前を知らない若い世代でも、懐メロとしてどこかで耳にした事があるのではないでしょうか。

しかし、メディアで伝えられる阪田のイメージはあまりにも虚像が多く実像からかけ離れたものであることは、存命当時から言われていました。阪田の弟子の中には名誉棄損だと息巻くものもいましたが、阪田本人は「わしが死んだら、きっと芝居や活動写真にしよりまっせ」とうそぶき、事実その通りになりました。
作中の阪田三吉は、変人、粗野、無学、女房を泣かしても一筋に打ち込む将棋の鬼......。では、実像の阪田三吉はどんな人物だったのでしょうか。

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▲舳松人権歴史館に再現された「はんらく」の様子。


阪田三吉の出身は現在の堺市堺区協和町(阪田が生まれた明治3年頃の呼称は、堺県大鳥郡舳松村)。その中でも阪田が生まれた「塩穴」という地域は、後に言う被差別部落でした。
当時の住環境は劣悪で、粗末な住居が密集する狭い路地は傘を広げて歩くこともできず、「半分広げて歩くのが楽」だから「はんらく」と呼ばれていました。
小さい頃は「さんきい」と呼ばれた阪田三吉は、はんらくを人一倍長い竹馬で闊歩する元気な少年でした。それまで村にある願専寺が寺子屋~小学校だったのですが、「さんきい」が入学する明治9年には舳松小学が出来たのですが、あまり通えませんでした。

阪田は読み書きが苦手で本人も「馬」と「三」・「吉」という字しか書けなかったと言っていますが、小学校でも大好きな「カキ」の2字しか覚えられなかったというエピソードがあります。後年の口述筆記による新聞コラムで垣間見せる知性・教養・緻密な記憶力や集中力を思えば、貧しくて通学が難しかったというだけでなく、学校教育の枠に収まらない個性の持ち主だったようにも思えます。

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▲現在は舳松集会場になっている一角に阪田三吉の生家があったといわれている。


この人並み外れた集中力は、学習や子守仕事には発揮されませんでしたが、将棋の世界では「さんきい」を輝かせました。
仕事の少ない村では、午後ともなると男たちがはんらくに縁台を置いて、あちこちで将棋が始まります。「さんきい」は子守をしながら将棋を覚えました。将棋に集中するあまり、奉公先で背負った子供を落としてけがさせたこともあったとか。そして、12~3才の頃には初段ほどの腕前で村の大人たちでは相手にならなくなります。

そして16才の時、父・卯之吉が40代で亡くなります。働きづめの母は病身で、小さな妹たちも多く、「さんきい」は一家を支える大黒柱とならざるをえませんでした。
阪田一家の苦境は、舳松村ではありふれたことだったでしょう。舳松村がどうしてこんなにも貧しい村だったのか、それを知るためには、歴史を400年ほど遡る必要があります。


■塩穴の400年
舳松村の長い歴史を、舳松人権歴史館で複数の職員の方から伺いました。
舳松村(塩穴村)に関する歴史的な資料はそう多くありません。最初に歴史に登場するのは、16世紀に日本に訪れた宣教師ルイス・フロイスの記録で、堺の南にまちから離れて住んでいる集落があると、差別されている人々の存在が推測されます。この集落が、おそらく塩穴ではないかと思われます。

塩穴の住人に対する差別がいつのころからはじまったのかはよくわかりません。ただ、塩穴の住人が死んだ牛馬を処理して皮革を扱う仕事をしていました。古代に神道が日本に広まると、死は穢れたものであるという価値観が生まれ、仏教が伝来すると肉食に対する忌避も伝わります。死を扱うものは穢れが多い「穢多(えた)」と呼ばれました。

しかし、千利休発案の雪駄も、塩穴の皮革を利用して作られたものです。沖縄から伝えられた三線の蛇皮を猫皮に代えて三味線が生まれたのも、堺の近くに塩穴があったことと無関係とは思えません。堺の文化・技術・生活の一部を、皮革を扱う塩穴の人々が支えていたことは確かなことです。

身分制度が固定化された江戸時代では、どんな状況だったのでしょうか。
この時代、塩穴は舳松村の一部(枝村)でした。この頃には、塩穴のものは堺に入るには山の口橋を渡る際に履物を脱がねばならないという差別が行われていたようです。しかし、江戸時代中期からの資料を見ると意外な事実が浮かび上がってきます。
1695年(元禄8年)の記録では、塩穴は50m四方ぐらいの広さに40戸185人の住民がいました。それが1830年~(天保年間)の記録では、範囲は数倍に広がり237戸909人にまで住人が増えているのです。日本全体では江戸時代中期以降人口は横ばいを続けているので、これは特異な状況でしょう。

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▲江戸時代の地図に見える「塩穴」の地名。(舳松人権歴史館の展示より)


舳松人権歴史館職員の方によると、
「貧しいという従来のイメージと違って、皮革は儲かったので塩穴は豊かとはいえなくとも食うには困らなかったのではないか。塩穴の近隣では死んだ牛馬を扱う草場権を持っているのは、和泉市の南王子村などがありました」
皮革は馬に乗る鞍や武具など武士向けの需要があり、塩穴は草場権で独占的に扱うことが出来たのです。
「それだけでなく罪人を処刑する関係で、堺奉行の配下で目明し的な存在として活動し、犯罪を取り締まる存在でもありました」
警察権を持つ奉行の手先として、塩穴の住人は農民たちから嫌悪されていたのかもしれません。
しかし、ある程度の収入があったこともあって、塩穴では口減らしのために子供を間引くこともなく、爆発的な人口増加を起こしたのでした。ひょっとしたら周辺の農村などから、職にあぶれた若者を吸収することもあったでしょう。

しかし、明治時代になって状況が一変します。劣悪な方向へ。
阪田三吉の生まれた翌年の明治四年にいわゆる「解放令」が出され、四民平等で穢多という身分も無くなったはずでしたが、差別は無くなりませんでした。
そして四民平等になって、特権だった草場権は消滅。儲かる皮革仕事に他の地域はすぐに飛びつきました。そして警察権は、新しく作られた警察組織に移行されて、職を無くした武士階級がこれにつきました。また、塩穴は処刑業の代償で免租の地とされてきたのですが、四民平等に伴って免税の処置も無くなりました。

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▲明治以後も牛の解体と食肉業に従事したものもいた。(「食を支えてきた舳松」展より)


就職しようにも差別があって容易ではなく、ろくな仕事もないのに税金は取られる。仕事も奪われて、貧しさと差別だけが残った。
「はんらく」のような、貧しさ故の劣悪な住環境は改善されず、「さんきい」に見るように初等教育もままならない。それが明治時代からの塩穴でした。
貧しく、不潔で、無学、粗暴。そんなイメージで語られる「被差別部落」の姿が出来上がったのは明治時代以降近代に入ってから。それは、差別が構造的に生み出され、しかしそのまま放置された結果だといえるでしょう。

奇人・阪田三吉というイメージの多くは、こうした被差別部落の状況を背景にしたものだと言えます。



■将棋指し「堺の三吉」
独占していた草場権を失った仕事のない塩穴で、それでも住民は食肉業や、下駄直し、くず広いなどをして生計を立てていきます。中には個人の才能がものを言う芸能の世界に身を投じたものもいるのですが、阪田三吉も広い意味ではそうしたグループの一員と言えるでしょう。彼は、熱中した将棋の世界に身を投じます。
といっても、プロ棋士ではなく、賭け将棋の世界です。

家業の「ぞうりづくり」をしながら、賭け将棋に挑みます。もはや村では敵なしになり、堺市内へ出向いたり、時には大阪で戦うようになります。家族を養わなければならない阪田三吉は、借金で得た元手を手に挑むことがあったそうで、絶対に負けられない戦いでした。20才の頃には、大阪でも「堺の三吉」で名前が通るようになっていました。


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▲現在の協和町。阪田たちが将棋に熱中したはんらくの狭い路地は無くなり、集合住宅が連なるゆったりとしたまちに生まれ変わっている。


しかし、阪田の才能に賭け将棋の世界は狭すぎました。24才の時、ドラマティックな出会いが訪れます。

ある日、阪田は初対面の名前も知らない男と将棋を指します。
「色の白い、役者のような綺麗な男」と阪田は後にこの男の第一印象を語っています。3連戦の1度目は阪田の勝利、しかし残り2戦で阪田は敗北し、ショックのあまり10日も寝込んだといいます。
この謎の男は素人ではありませんでした。「堺の三吉」を打ちのめしたこの男こそ、誰あろう、東京のプロ棋士・関根金次郎でした。
「プロ棋士が正体を明かさずに素人に勝負を挑むなんて」
阪田は悔しがります。この時因縁の生まれた関根金次郎は阪田より年上の26歳。後に名人位を争うことになる終生のライバルともいえる存在でした。

この敗北で阪田は関根との実力の違いを素直に認めましたが、関根も阪田の力を認め、大阪のプロ棋士小林七段にその存在を報告しました。小林七段は阪田の実力を測ると、
「飛車と角を等分によく使うことが出来るようになれば、将来第一人者になれる」
と評します。その言葉は阪田の励みになりましたが、すぐにプロ棋士への道を歩んだわけではありませんでした。阪田三吉が棋士として雄飛するにはしばらくの時間が必要です。

中篇では、いよいよプロ棋士となった阪田三吉の姿を追います。


舳松人権歴史館
堺区協和町2丁61-1
(人権ふれあいセンター内)
入館料 無料
開館時間 午前9時30分から午後6時30分
休館日 月曜日(祝休日は開館)・年末年始

※参考文献
『反骨の棋士 阪田三吉 その栄光と苦難の道』/舳松歴史資料館
『さんきい物語 へのまつ村の阪田三吉』/部落解放堺地区舳松歴史・文化を守る会 舳松歴史資料館
『棋神 阪田三吉』/中村浩(講談社)


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