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堺能楽会館の軌跡1 「旦那」たちの時代

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堺市に能舞台があることをご存じでしょうか?
「堺能楽会館」は総檜造り・桧皮葺の本格的な能舞台ですが、行政のものでも企業のものでもなく、日本で唯一個人が所有している能舞台なのです。しかも、現在の所有者・館主大澤徳平さん自身は能楽師やその家系ではありません。個人が能舞台を所有しているという不思議を知るために、大澤家の歴史を紐解いてみます。
■大澤徳平商店の軌跡
南海本線「堺」駅から、徒歩数分のダイトクビルの中に「堺能楽会館」はあります。
大澤さんに案内されたのは、このダイトクビルの2階にある「おやじのギャラリー六平」。このギャラリーには、掛け軸に陶器に花器などが数知れず展示されています。この「お宝」のほとんどは、大澤さんの父・鯛六さんが残した莫大なコレクションで、大澤家の歴史に囲まれているといった風情です。
このビル、そして「堺能楽会館」「おやじのギャラリー六平」の所有者である大澤徳平さんの家系は、江戸時代から酒造業に携わるお家でした。当主は初代から5代目までが徳右衛門の名を継ぎ、明治に入ってからの6代目以降は徳平の名を継いでいます。今の大澤徳平さんは1932年生まれの9代目で、元の名前は庸恭(つねやす)といいましたが50歳の誕生日に正式に改名しました。
「この字で『つねやす』とは中々読めないでしょう。家業の酒造業は辞めていますから、襲名ではなく改名といっていますが」

 

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▲昭和7年生まれの大澤徳平さん。
明治から昭和にかけて堺の繁栄をけん引した主要産業は酒造業でした。
数多ある酒造業者の中にはアサヒビールの創業者鳥井駒吉もいます。大澤さんが手に入れた酒造番付「明治二十八年度全国酒造家造石高見立鑑」を見ると東の前頭八枚目にアサヒビールの前身である「鳥井合名会社」の名前が見えます。
「堺の酒造業は沢山でてます。うちの名前(6代目の大澤徳平)もこんな小さいですけど載ってます」
石高順の番付には堺のお店がずらりと並び、当時の興隆ぶりが伺えます。

 

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▲番付に記した赤い矢印の先には大澤徳平商店の名前も見えます。堺の酒店に貼ったオレンジのシールも十数店を数えます。
大澤家は江戸時代には「華屋」の屋号でお酒の小売と醤油の醸造を商いとしていたのを、明治に入って6代目の大澤徳平さんが大きく飛躍させ、本店の蔵に加えて、北蔵、南蔵と三つの蔵を持つようにもなります。大澤徳平商店のお酒は「國光」「千代鶴」「麒麟正宗」という銘柄があり、東京には「國光」、四国には「千代鶴」といったように出荷する場所によって銘柄を使い分けていたそうです。
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▲保管されていた「國光」のラベル。

 

6代目徳平さんは冒険心にも富んだ人だったのか、日本初の大旅行にも出かけています。
「これが当時のパスポートです。今のパスポートと違って大きいでしょう」
大澤さんが見せてくれたのは、明治41年の6代目徳平さんのパスポート。6代目は、これをもって朝日新聞の企画した世界一周旅行に旅立ったのです。
横浜港を出発し、ハワイ、サンフランシスコでアメリカに上陸。シカゴからナイアガラ見物に赴き、ボストン、ワシントンから大西洋を渡ってイギリスのリバプール、ロンドン。ドーバー海峡を渡ってパリ、ベルリン。ロシアではペテロブルグ、モスクワを巡ってシベリア鉄道でウラジオストックへ。日本海を渡って敦賀へ到着。約90日間の行程だったとか。
この旅は毎日一行の様子が新聞記事となり、当時の第28代アメリカ大統領ローズヴェルト氏に謁見した様子なども掲載されています。
この世界旅行からも堺の酒造家の財の大きさの一端が伺えますが、後の7代目・8代目もやはりスケールの大きな人物でした。
■関西蒐集界の最高峰
ギャラリーの壁一面のガラス棚や戸棚には、大小さまざまな土人形が飾られています。
「親父が全国に旅行に出かけた時に買い求めた当時の郷土玩具です。親父が良く言っていたのは、こうした顔のあるものは、箱の中にしまってはだめ。外に出してあげないといけないと」
人がいつでも顔を合わせることが出来る人形たちは年を経た証拠に、うっすらと汚れも伺えます。「お宝」としてしまいこまれていたのではなく、「生きた」コレクションとして大切にされていた証です。
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▲戦前の郷土玩具である土人形。今年の干支の申を並べています。
大澤家の7代目は6代目の長女・濤(なみ)さんと結婚した養子の徳次郎さん(後に徳平)。その息子が、8代目の醇吉、号を鯛六と称した9代目徳平さんのお父さんです。徳次郎さんは全国を旅行しては郷土玩具を購入する蒐集家でしたが、鯛六さんはその影響を強く受け、当時の日本全国の紳士録である「趣味大観」という本では「関西蒐集界の最高峰」と紹介されるほどでした。鯛六さんの蒐集した郷土玩具の点数は10万点を越えたといいますが、残念ながら戦火にもあって残った数万点の中から一部が展示されています。これだけでも戦争前の大衆文化の一端が伺える貴重なコレクションといえそうです。
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▲ギャラリーの中でも目を引くのが等身大の雛人形です。「これは親父のコレクションの中でも一番貴重なもので、今から260年前の享保年間に作られた『享保雛(きょうほびな)』です」

 

鯛六さんの功績は、郷土玩具の蒐集だけではありません。堺に伝わる湊焼の復活は大きな業績でしょう。
楽焼にルーツを持つ湊焼は、明治時代になって途絶えていました。それを嘆いた鯛六さんは窯の権利を譲り受け湊焼の復活を目指します。
「京都から陶工・吉村与四郎他3~4人を呼び寄せ、堺市大町の自宅酒蔵の裏庭に窯を作って湊焼を復活させたんです」
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▲向かって左が鯛六さんが復活させた昭和の湊焼。鯛六とは、生まれた時に大きな鯛が六匹送られてきたことにちなんだ号。

 

ギャラリーには鯛六さんが作らせた昭和の湊焼が展示されています。中には、鯛六さんが参考にさせた明治の湊焼と同じように作られた昭和の湊焼が並べられています。鯛六さんの名前にちなんだ鯛の香盆や、ダルマのような形をしたフクスケの手あぶり、柱を中心に盆が回転する扇型の重箱もあって、見た目にも楽しくデザインや色彩もどこかしゃれています。
「こういうものは普通はないですね」
といって、大澤さんが手に取って見せてくれたのは、一合升だったり一人用の鍋だったりと、この遊び心が、いかにも茶の湯が栄えた堺の湊焼の特徴のようです。
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▲扇の形の重箱は要の部分を中心に段をずらすことができます。

 

この惜しみない文化への支援は、堺の豪商たちの伝統でした。
アサヒビールの鳥井駒吉も書画や歌にも堪能でしたが、学校を設立したり被災地への支援を積極的に行っています。大澤家も、社会貢献にも熱心な一面を見せ、まちに道案内の石碑を作ったり、歴史的事件の石碑を作ったこともあります。
「妙國寺の前にある『とさのさむらいはらきりのはか』の石碑も大澤家で作らせたものです」
これは幕末の動乱のさなかに起きた「堺事件」の石碑のこと。「堺事件」は、土佐藩士がフランス人水兵を殺傷した罪により11名が切腹することになった事件で、堺市民には身近な歴史の一コマです。
「堺出身の文芸作家・村上浪六さんがひらがながうまいというので、字を書いてもらって石碑を作ったんです。それを写したものがここにあります」
このギャラリーの中には、石碑を採拓したものも展示してありました。
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▲「とさのさむらいはらきりのはか」の石碑の拓本も展示。

 

大澤さんによると、当時の堺の商人はお茶とお能の謡(うたい)、女性はそれにお花をするのが習いでした。
「自らもこうした芸事に達者で、博識で、羽振りのいい人のことを『旦那』といったんです。昔は『北の旦那』『中の旦那』『南の旦那』といって、まちに旦那がいて、なにかあると『よっしゃよっしゃ』といって応援してくれたんです」
大澤さんの父・鯛六さんも、こうした「旦那」の一人でした。しかし、鯛六さんは若くして世を去ります。
「病気になって、その頃は戦争が激しくて、まともな治療も受けられませんでしたから。徳平の名前を継ぐ前に48歳の若さで亡くなったんです」
それは昭和19年11月のこと。その頃には、堺の酒造業も大きな曲がり角を迎えており、翌年の堺大空襲では堺は焼野原となって多くの酒蔵も焼失し廃業へと追い込まれます。大澤家も主も家も蔵も無くし、遺された鯛六さんの妻・美代さんは、まだ幼い徳平さんら5人の子どもを抱え、育てていかねばならなくなります。
堺能楽会館
住所大阪府堺市大浜北町3-4-7-100
最寄り駅 南海本線:堺駅
電話 0722-35-0305

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