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海の社会見学

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▲ライフジャケットを着て海へ。(写真提供:高田利夫)

 

古くから海とのつながりで栄えてきた堺。
海との関わりも少なくなった現在に、子どもたちを海へと誘う社会見学が40年近く続いています。
始めたのは出島漁港の堺漁業協同組合の元組合長の高田利夫さん。
少し小柄でいつも笑顔の漁師さんに、あなたも小さな頃船に乗せてもらった記憶がありませんか?
■海の案内人
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▲一度に100人も乗せられる船で海へ。現在は80人乗りの船を使っています。(写真提供:高田利夫)
海の社会見学は、出島港から出港して1時間弱の船旅です。
子どもたちを乗せた船は、港の中をぐるりと回り、大和川の河口へ、そして堺の工業地帯へ。
「関電の巨大煙突を海から見て『何本に見えるかな?』ってクイズを出すんですよ。煙突は6本あるんですが角度によって重なって見えます。子供たちは『1本に見える』とか『2本だよ』なんてね」
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▲関電の煙突。(写真提供:堺たんけんクラブ 小松清生)
かつて巨大な船が造られた日立の造船所を巡ったりして、また出島漁港へ。でも社会見学はこれで終わりではありません。
高田さんが仕掛け人として始めた『出島漁港とれとれ市』を会場にして子どもたちからの質問大会です。
「間違ったことを言ってはいけないから大変なんです。『海の水はなぜ塩辛いの?』『シラスはどのくらい大きくなるの?』なんて子どもたちはきいてくるんです」
漁師さんでも簡単には答えられない質問もあるみたいですね。ちなみにこの二つの質問。皆さんならなんと答えますか?
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▲とれとれ市を会場に小学生からの質問会。(写真提供:高田利夫)

 

社会見学の締めくくりに高田さんはいつも一つだけお願いをしてきました。
「漁師さんが困っている事。それはゴミを捨てないで欲しいということなんです。町で捨てるゴミ。それが小さいゴミであればあるほどいつかは海へ行くんです」
子どもたちだけでなく、私たち皆で叶えたい願いですね。
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▲世界中の海で大物の魚を釣り上げ、『ジャパニーズポパイ』の異名を持つ高田さん。「行ってないのはトンガだけ」

 

高田さんが海の社会見学を始めたのは40年ほど前。最初は身体障害者の方が「魚を触りたい」「船に乗りたい」と希望したのを叶えようとして始めたのでした。
「子どもも乗せるようになって教育委員会から支援の申し出もありましたが断りました。あくまで個人のボランティアです」
その後、あまりにもの人気で対応しきれなくなって抽選制になりましたが、「子どもたちの笑顔を見るとやめられないよ」と高田さんはいいます。
海や魚に関して研究者も顔負けの知識を持つ高田さんですが、その半生は戦後の堺の海の歴史そのものと言えます。
■海の守人
三宝地区の松屋町で高田さんが生まれたのは戦時中の事。姫路や横浜と全国を転々とし、終戦後三宝に帰ってきた時は堺は戦災で壊滅状態でした。
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▲今は、生まれた松屋町でお住まいです。馴染みの喫茶店の看板犬コウちゃんといつも一緒。「私の息子です」
父と祖父に魚の捕り方を教わったのもその頃でした。漁と海に魅せられた高田さんは漁師となり、二十歳の頃には船を手に入れ、漁業と釣り船業を始めるようになりました。
堺の海は豊かな海でした。
その海に大きな変化が訪れます。臨海地帯の開発、そして埋め立てが始まったのです。
「渡船の船でたくさん社員や人夫を運びました。現場への通い船でね」
埋め立てが終わると需要は無くなり、もとの漁業と釣り船業に戻ったのですが、海は元通りではありませんでした。昭和40年代、化学工場などの排水の垂れ流しが始まったのです。
「海は油の海になって、魚は売れなくなりました」
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▲海岸は工場が建ち並ぶ堺の海。

 

ひどい公害に人々が長く苦しめられる時代が続き、環境汚染が叫ばれるようになり、ようやく汚水処理施設も作られるようになりましたが、不十分なものだったと高田さんはいいます。
「雨が降ったら汚水が海に垂れ流しですよ。設備の改良を何度も申し入れました」
ただの市民であれば相手は耳も貸さなかっただろう。高田さんは組合を組織し海を守るために戦い続けたのです。
粘り強い活動の結果、川も海も少しずつ美しさを取り戻し、大和川にはついに鮎が遡上するようにもなりました。
子どもたちの川遊びする姿に高田さんは目を細めます。

 

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▲大和川で川遊びをする子どもたちと網を打つ高田さん。 ▲毎週土日開催のとれとれ市では泉州の海でとれた新鮮な海の幸も。高田さんの弟さんのお店にて。
とはいえ、まだまだ楽観視できる状況ではありません。
「サッカー場や野球場なら構わないんです。でも工場が稼働すると生物への影響はとても大きい。震動が水に伝わり、いっぺんに海の生物が逃げてしまう。空気の汚染も酷い」
海から見ると風に乗った汚れた空気が泉北の丘陵地帯へ押しやられ曇って見えるのだそうです。
環境汚染を語る時、海の守人の顔も怒りと悲しみに曇ります。
■世代を越えて
高田さんは釣り人として世界中の海で巨大魚に挑んできました。
「アマゾンのピラルク、ヨーロッパの肉食魚バラマンディも釣り上げた。シーラカンスにも挑んだけれど日本のテレビに邪魔されてね」
高田さんの漁師小屋には、世界中でつり上げた魚たちとの写真と一緒に社会見学の子どもたちの写真が本棚いくつ分も保管されていました。
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▲何百キロものカジキを釣り上げオーストラリア記録を持っています。
「35年前に船に乗せてもらった人が孫を連れてやってきたよ。『あの時の船長さんはもういないでしょうけど』と言ってね。その船長が私なんだけれどね。何も言わなかったよ」
そんなエピソードを語る時、高田さんは茶目っ気のある笑顔を浮かべるのです。
組合長を辞めて、高田さんの始めた海の社会見学は組合が引き継ぐようになりましたが、大和川の水辺のイベントには、網を持って参加します。
ここで学んだ子どもたちが将来高田さんのように、海や川や魚たちを愛し、世界を舞台に活躍するようになって欲しいですね。

 

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▲川遊びの体験イベントには欠かさずに出かけます。

 

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