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水無月祭~堺と演劇文化の狭間をつなぐもの~(2)

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ヨーロッパ生まれの現代演劇システムによるお芝居が、堺で公演されようとしていました。
堺区並松町の「SPinniNGMiLL」を会場に、日本の劇団ガンボと香港の演劇人Aska Leung Ka Wai(梁家維アスカ)が日本香港協働プロジェクト『水無月祭~In The Wind Of Memory~』を開催したのです。
記事の前篇では、プロジェクトの始動から作品の制作過程を追いました。後篇では本公演のレポートと、2人の演出家へのインタビューをお届けします。
■儀式
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▲明治時代に紡績工場として作られた「SPinniNGMiLL」は、撮影スタジオ、ライブ会場、イベントスペースなどに使われています。
堺区の並松町にある「SPinniNGMiLL」は、現在はフォトグラファーの小野晃蔵さん(颯爽人記事前篇後篇)によって、スタジオ兼イベントスペースとして生まれ変わりましたが、もともとは明治時代に作られた紡績工場でした。明治時代、堺にはいち早く近代産業が導入され、それに伴って建てられた近代建築の中で今に残る貴重な一つがこの「SPinniNGMiLL」なのです。
この日公演される『水無月祭』は、香港の演劇人アスカが学んだポーランド生まれの演劇手法”Poor Theatre”(プアシアター)に基づいて作られた作品です。
2週間の練習を見学し、アスカさんが学んだ「プアシアター」は、劇団ガンボのベースにあるフランスの風刺劇を起源に持つ「ルコックシステム」とは、まったく異なるものであることがわかってきました。果たして「プアシアター」による作品制作はうまくいったのでしょうか?
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▲音楽家の竹中洋平さん。ドラム、ハピドラムだけでなく、様々な楽器で音楽を担当します。
開演。
「SPinniNGMiLL」2階の会場は、ぐるりと壁沿いに椅子が並べられていました。周囲から客席の真ん中にあるステージの芝居を見るスタイルです。
入り口と対角線の角にはドラムセットが組まれ、音楽家の竹中さんがハピドラムを奏でています。ハピドラムは木魚のような打楽器で、硬質の途切れることない調べは、漆喰と木の空間を神秘的な洞窟に変えたかのようです。
そうこうするうちに、扉が開いて役者たちが1人、また1人と姿を現します。登場したのは客演メンバーの4人です。彼らの衣装はお揃いで、赤い袴のようなボトムスに、袂の膨らんだ白いトップスで、一見巫女のようですが、よく見ると独特のシンプルだけど凝ったデザインの衣装です。

 

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▲お茶の提供は木津川市の「芳樹園」からほうじ茶です。
4人が観客に対してお茶の給仕を行っていると、続いて劇団ガンボの3人も姿を現しました。衣装は同じものなのですが、頭に網目になった飾りをつけ、隈取のような化粧をしているところが違います。
合わせて7人が給仕をしながら観客の間を歩いている姿は、最初の練習の日の歩き方の練習を思い起こさせました。お芝居が始まっているのかいないのか、始まっているのか分からない不思議な時間が続きます。

 

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▲お芝居が始まっているのかいないのか、不思議な時間が続きます。
この時間を打ち破ったのは、アスカさんの登場でした。
照明が落とされ、アスカさんの歌声が響きます。
それはあの広東語の子守歌でした。歌うアスカさんを4人の役者たちが囲んで和し円を描く輪舞が始まります。広東語の歌が終わると同時に、今度は日本の童謡「ゆりかごの歌」の歌が始まります。これをリードするのは、それまで控えていた劇団ガンボの3人で、3人は輪舞をすり抜けると、内側で円を描きはじめます。外側の輪は糸がほどけるように崩れて広がり、ゆりかごの歌が終わると同時に内側の輪もほどけて7人が整列します。

 

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▲”プアシアター”の創始者グロフツスキーは、アフリカで出会った伝統的な儀式からインスピレーションを得た。
するとアスカさんの口から掛け声がほとばしります。掛け声はワンフレーズが繰り返され、体の奥底から生命の衝動が噴出してくるかのようです。掛け声に呼応して、役者たちは足を踏み鳴らし、力強いダンスを始めます。その様は、呪術師が執り行う原始の儀式のようでもありました。
儀式めいたシークエンス(シーンの集合)が終わると、今度は少し趣の違うシークエンスとなります。それは、役者1人1人にスポットをあてたシーンの連続体でした。おそらく役者個人個人の思いや過去の体験をもとにしたシーンです。恋愛、家族、喪失、青春の苦悩。
そんな中で、劇団ガンボの3人は、その衣装や化粧が暗示するように特別な役割を与えられています。時にシーンを支える要素となりながら、シーンとシーンを繋ぐ象徴的な存在…..タイトルロール.「風」として機能していたのです。
そして、さらにシークエンスは変化します。
■堺市民劇団
1人、1人と役者が姿を消し、舞台では大城戸洋貴さんの1人芝居になります。三島由紀夫の短編の戦火で燃え盛る情景を朗読しながらの、のたうちまわる芝居です。
このシーンが終わり、最後の役者も舞台から姿を消すと、わずかな静寂が訪れます。
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▲大城戸洋貴さんの1人芝居。戦火のまちがあらわれる。
一体どうなるのだろう。
戸惑いを破るように、扉の向こうから新たなキャラクターが騒がしく登場します。
ベレー帽のいかにも芸術家然とした男性は、「堺市民劇団の演出家」を名乗ります。キャラクターがセリフをしゃべった時点で、これまでの抽象的な芝居と切り替わったことがわかります。
「演出家」は、これまで水無月祭の成功を目指してやってきたけれど、「役者」たちに自分の芸術は理解されず、これまでのシーンは大失敗だったと告げ、観客に語り掛けます。
「今までのシーンは面白かったですか? 面白くなかったでしょう? 何が言いたいかわかりましたか? 分からなかったでしょう? 大失敗だ」
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▲西原亮さん演じる演出家(左)と、柿澤成直さん演じる元子役の青年(右)。
これまでのシーンを自ら説明させるため、「演出家」は「役者」を舞台に呼び寄せます。出てきた「役者」たちも衣装がガラリと代わって、皆「普段着」の衣装です。
「演出家」と「役者」たちとの会話劇の中で、シーンの背景にあった「役者」個人の思いが解き明かされて行きます。誰もが経験してもおかしくない日常の中の感情、記憶がシーンの根っこにあったことがわかります。
そして、さっきまでの観客が息を殺して集中していたシークエンスとはがらりと変わってのコミカルな会話劇の演出に客席は笑いに包まれます。
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▲堺市民劇団のドタバタ。コミカルなシーン。
シークエンスは更に変化します。
堺市民劇団の「役者」たちは、解散の危機に『All that jazz』を歌って対抗します。
『All that jazz』、すなわち「なんでもあり」の歌とダンス。それは創造の喜び、アートへの讃歌のようでした。
堺市民劇団が一斉に舞台から姿を消すと、再びアスカさんが傘を手に登場します。傘を手に歌うのは『雨に唄えば(Singin’ in the Rain)』。
「SPinniNGMiLL」がミュージカル会場になり、アスカさんが歌いきると、退出した役者たちが最初の白と赤の衣装に身を包んで姿を現します。彼らの手にも傘が握られていました。
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▲傘は時に津波になり、ゲバ棒になり、キノコ雲となった。
クライマックスの演出は、この傘を使ったものでした。
表現したのは日本の歴史的事件。東日本大震災、秋葉原無差別殺人事件、地下鉄サリン事件、安保闘争、原爆投下……。傘は時に、押し寄せる津波になり、人を襲う武器となり、キノコ雲となりました。
それは、73年前の夏から今日まで数多くあった死の悲劇のうちの幾つか、私たちの社会が刻んだ記憶でした。
『水無月祭』は翌日も公演があり、合計二回公演されました。初日の集客はやや苦戦しましたが、二日目は満席となりました。
その翌日は大阪北部を大きな地震が襲って大きな被害を出し「大阪北部地震」と名付けられることになりますが、そんな中アスカさんも香港へと飛び立ち、無事帰国しました。
■新しい挑戦が始まる
こうして日本香港協働プロジェクトは終了しました。
参加者それぞれに何かの挑戦があったプロジェクトですが、企画者本人達は、このプロジェクトをどのように評価しているのでしょうか。
まず、帰国したアスカさんに、今回の『水無月祭』について、ネットを通じてインタビューしてみました。
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▲香港で活躍するアスカさん。
――どうして、劇団ガンボと「プアシアター」をやってみようと考えたのですか?
アスカ「かつて私はプアシアターのワークショップと学習をしたことがあります。それを劇団ガンボとシェアしたかったのです」
――「SPinniNGMiLL」を会場として選ばれた理由はなんでしょうか?
アスカ「あの場所がとても素晴らしいからです。クリアな場所ですし、観客は丁度シェアパーティー会場のように、周囲に座ることができます」
――私はあなたはとてもすぐれた先生だと思いました。しかし、生徒の中には素人もいました。あなたは何か特別な方法でこのミッションを行ったのでしょうか?
アスカ「演出家として。私はハートが一番大切だと考えます。もし、生徒や役者がハートを持っているなら、彼または彼女は良い役者になるでしょう。彼または彼女が初心者であっても」
――今回の芝居で、はじめて演劇を劇場で見たという観客の方が、役者の息遣いや動き、情熱に驚かされたといっていました。
アスカ「どうもありがとうございます」
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▲役者個人の歴史から創造を始める。
――私は、あなたが役者個人の記憶に焦点を当てていたのに対して、劇団ガンボは社会の記憶に焦点を当てていたように思えました。違いますか?
アスカ「私はそれには同意しません。私は役者の歴史から始めました。そこから創造し始めよ、です」
――”プアシアター”はいつもそのような手法をとるのですか? それともあなたのオリジナルの手法なのでしょうか?
アスカ「スタートはそこからです。私はそれについて理解しており、そのやり方に自分の方法を加えました」
――では最後の質問です。このプロジェクトはあなたの歴史の中でどんな経験になりましたか? またショーを体験した多くの堺市民は驚き喜んでいましたが、彼らにメッセージをお願いします。
アスカ「異なる役者たちと一緒に仕事をしたことは、私にとってとてもよい経験でした。そして堺市民と私の演劇思想を共有することが出来たのは素晴らしいことでした」
――ありがとうございました。
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▲フランスの”ルコックシステム”を学んだ田村さんは、”プアシアター”をどう見たのか?
続いて、劇団ガンボの代表・田村佳代さんにもインタビューしました。田村さんの学んだ”ルコックシステム”と”プアシアター”はどのような違いがあったのか、まずはそんなところから尋ねてみることにしました。
――体験してみた「プアシアター」とはどのようなものでしたか?
田村「はじめはプアシアターをやるつもりだったのですが、途中からプアシアター出身の演出家によっての作品に参加するという風に変わりました。というのも、プアシアターというのは、5年6年と訓練をしないといけないと分かったのです。ちょっと感じてみようというのにはやはり恐れ多い」
――習得するのが難しいものだったのですか?
田村「(プアシアターには)強烈な訓練が必要です。ランナーズハイになった時に上演するのがプアシアターです。日常とは違う状態。思考よりも肉体が強くなる瞬間。トランス状態で無になった時に発する言葉やエネルギーが真実だということなのです。(プアシアターの創始者)グロトフスキーが、アフリカンダンスを見て、その儀式を芝居に取り入れたのです。ルコックとは全然違うけれど、そぎ落としていくということは一緒ですね」
――プアシアターに触れたことは、有益な体験になりましたか?
田村「そのシステムを習得した人が、そのシステムを使って演出するということは、どう使うかによってシステムが生きたり死んだりする。改めて台本は大切だと思いました。アスカとはものすごく議論しました。日本ではなかなかシステム論が出来ないのですが、今回はシステム論が出来て良かったです」
――アスカさんは個人の記憶に焦点をあて、劇団ガンボは社会の記憶に焦点をあてたように見えました。
田村「個人的な思いが集まって社会になる。ですが、私たちは個人的なことで生きているわけではないです。子どもを虐待している母がいたとして、その母が「こんなにも愛しているのに虐待してしまう」と悩みを相談員に話す。すると母の記憶が相談員の記憶になる。個人の記憶の行きつく先が社会になる。個人的な記憶が広がって、社会に成るというのをしたかったのです。アスカの思いも潰したくなかったし。堺市民劇団の話も、堺市民劇団の人たちが、何か表現できると思って参加したり、彼氏募集中だったり、引きこもりだったり、それぞれ社会で生きている人たちで、そんなごくつまらない理由で彼らはプアシアターに出会うという話です。後からお客様の感想で、堺市民劇団のシーンになってから面白かったという感想を幾つかいただきましたが、それは面白かったのではなくて、分かった、納得したということなのだと思います」
――演出手法での対立は、必ずしも昇華・止揚しきれたわけではなさそうですね。
田村「あの衣装の力や、会場のSPinniNGMiLLの場の力も借りた形になりました。ただ、今回非常に心を打たれたのは、(初顔合わせのメンバーに出会って)誰もが表現したいことがあるのだと分かったことですね。それはいいことでした」
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▲シンボリックな”風”から、ヒョウ柄の大阪のおばちゃんへ、そしてシンガーへ。顔を変える田村佳代さん。

 

――3度目になりますが、堺で公演して何か手ごたえはありましたか?
田村「堺は歴史が面白い。ほんまに。包丁一つとっても、あれが芸術になり得る。アートと共存できるまちです。かつての南蛮行列も、堺市民が南蛮人の格好を面白がってしてパレードしました。それは演劇に通じます。2年前に開催した堺アルテポルト黄金芸術祭は意味があった。堺は掘っても掘っても尽きないまちですね。やはり港町で、外と繋がっていくことが出来る、新しいものを受け入れてくれるまちだと思います。今回の作品は個人的なことで終わって、堺ならではのことが出来なかったのが残念でした」
――それでは、また堺で公演することもあるのでしょうか?
田村「そうですね。まず、劇中に出てきた『堺市民劇団』を実際にやってみたいと思っています。堺市民の方と劇団を作って、最終的には作品の発表に向けて、やっていきたいですね。今回は香港のアスカが来てくれましたが、世界各国で知り合ったアーティストにも堺に来てもらいたい。パフォーマンスのアーティストだけでなく、例えば現代アーティストが舞台美術を作るとか、総合芸術の演劇では色んなコラボレーションが可能です」
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▲今回の舞台にパワーを与えた衣装を担当した衣装デザイナーの佐藤光さん。

 

堺には、三線から三味線を作り出し、能の一派も輩出するなど芸能の世界でも『黄金の日々』がありました。大正時代には大浜に少女歌劇団が設立されたこともあり、堺と舞台芸術の縁は歴史的には薄いものではありません。
それがいつしか、台風災害で歌劇団は解散し、昭和の頃には「能の謡を習う習慣はあれど、能舞台はない」といった状態で、舞台芸術は下火になっていました。
しかし、酒造で財を成した大澤家が私財をなげうって大浜に堺能楽会館を建て、その50周年の記念プロジェクトが始まり、堺東の商店街では堺少女歌劇団が復活しました。舞台芸術のエッセンスが堺に再び満ちようとしています。
そんな中で、フランスのメソッド「ルコックシステム」をベースにした劇団ガンボが、各国のアーティストとコラボレーションする堺市民劇団を立ち上げることで、いわば堺演劇ルネサンスの流れは加速するかもしれませんね。
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▲さて堺市民劇団は実現するでしょうか?

 

Theatre Group GUMBO
SPinniNG MiLL
堺市堺区並松町45

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