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再発見・戦国の絵師 土佐光吉(1)

※作品の写真は、堺市博物館特別展「土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師」図録より転載。
展示風景の写真は堺市博物館の許可を得て撮影。
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土佐光吉筆・源氏物語手鑑より『賢木』/和泉市久保惣記念美術館蔵(重要文化財)

 

“土佐光吉(とさみつよし)”という名前を聞いて、何者かがわかる人は多くはないでしょう。
しかし”やまと絵の土佐派の絵師です”と説明すると、土佐派なら当然知っているというアートファンは少なくないことでしょう。土佐光吉は戦国時代を生きた土佐派の絵師なのです。
個人としてはマイナーな存在である土佐光吉ですが、実は日本の絵画史上非常に重要な人物だとか。
一体、土佐光吉とは何者なのか、現在(2018年10月6日~11月4日)堺市博物館にて開催中の特別展『土佐光吉 戦国の世を生きたやまと絵師』を担当された学芸員の宇野千代子さんに話をお聞きしました。
■土佐派・堺へ
宇野さんと一緒に、展示エリアに向かうと、そこには展示品を熱心に見ている先客がいました。宇野さんが声をかけます。
「須藤館長!」
かつてつーる・ど・堺でもインタビューさせていただいた堺市博物館の須藤健一館長でした。
須藤「これだけの素晴らしい作品が一堂に会することはめったにないですよ」
宇野「たくさんの美術館やお寺などに御協力いただけたおかげです」
宇野さんは、そう言いますが、
須藤「『チヨマジック』やな。じっくり見ていってください」
と、部下の仕事を褒めてさらりと須藤館長は去っていきました。
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▲『土佐光吉像』(土佐派絵画資料)/京都市立芸術大学芸術資料館蔵。土佐光吉の息子・土佐光則筆。
須藤館長の言うとおり、一瞥しただけで、今回の特別展は広いスペースに大物の屏風絵などがたっぷり揃っている様子。ただならぬ本物の匂いが立ち込めているようですが、まずは基本的な所から話をうかがいましょう。
――土佐派とはどういう人たちなのでしょうか?
宇野「約500年続いたやまと絵の画派で、室町時代には京都で天皇や公家、足利将軍家寺社などをクライアントとして肖像画や物語絵、縁起絵などを描いていました。やまと絵とは、大ざっぱな言い方になりますが、中国的な絵に対して、日本的な絵のことを言います」
――土佐派の中でも、土佐光吉は知られた存在なのでしょうか?
宇野「土佐光吉は堺に移り住んで工房を構えたのですが、堺でもほとんど知られていないと思います。土佐派で堺の人たちに名前を知られているのは、土佐光吉の孫の土佐光起(みつおき)は、開口神社の由緒を描いた絵巻物『大寺縁起』(重要文化財)の作者として知っている人も多いかもしれません」
――堺の歴史好きの人なら、『大寺縁起』はあれかと思い当たる人も少なくないでしょうね。しかし光吉という名前は初耳のように思います。どうして光吉は堺にやってきたのでしょうか?
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▲『土佐光茂譲状御写』/宮内庁東山御文庫蔵。土佐光茂が土佐家の跡職・粉本・文書・知行などを玄二に譲り、孫の養育や工房のことを頼む内容。
宇野「きっかけは戦争です。光吉の師匠である土佐光茂(みつもち)の息子の土佐光元(みつもと)が織田信長に従軍して永禄12年(1569年)に若くして戦死します」
――絵師なのに従軍したんですか? それは戦死しそうですね。
宇野「永禄12年というと、織田信長が15代将軍足利義昭を奉じて京都、そして堺にやって来た翌年です。光元は義昭から所領をもらっている関係上、信長の戦に従うはめになったのかもしれません。しがらみでしょうか」
――義昭や信長に対して槍働きでもアピールしようとして、無理して戦死したのかもしれないですね。
宇野「光元の子はまだ幼かったため、光茂の弟子の玄二(げんじ)という人物が、光元の遺児の養育をし、遺領を譲り受けることになりました。この玄二が絵師として光吉を名乗ったと考えられています。遺領の中に今の堺市南区の上神谷(にわだに)がありました。上神谷は今でも上神谷米が有名ですが、当時から米がよくとれ、多くの武士に狙われた土地でした。『土佐家文書』の中には、織田信長に『三好義継に上神谷に攻め入ってくるので所領を安堵してほしい』と頼む書状があります」
特別展の最初のエリアには、土佐派に残された書状をまとめた『土佐家文書』から多くの史料が展示されていました。
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▲『土佐家文書』より土佐光元書状。上神谷の所領について、織田信長から安堵の朱印状を得たことなどが記されている。
――上神谷って重要な土地だったのですね。
宇野「そのようですね。光元の遺領の上神谷に近いということもあって、土佐光吉は裕福な商人の町、堺にやってきたのかもしれません。こちらの掛軸(楠木慶音像模本/京都大学総合博物館蔵)の裏面の書き付けを見てください。ここに『堺川端住人土佐源左衛門』とあります。土佐源左衛門というのは、光吉の息子の光則のこと、川端町は開口神社(大寺)の南にあった町名です。この川端町の辺りにお父さんの光吉も工房を構えていたのではないかと思われます」
――堺に工房を移した土佐光吉はどんな絵を描いたのですか? 土佐派のクライアントだった天皇も貴族も堺にはいませんよね。
宇野「では、次に堺の土佐派がどんな絵を描いていたのかを見ていきましょう」
■合理的な肖像画
次に案内されたエリアで、宇野さんが見せてくれたのは、肖像画の下絵でした。男性もいれば女性もいます。
宇野「土佐派が得意としたジャンルのひとつが肖像画なのです」
――これは、どんな人達の肖像画なのでしょうか?
宇野「堺の商人や商人の妻たちが描かれています。堺の豪商・今井宗久の肖像画もありますよ」
――豪商の肖像画なんですね。奥さんまで描いてるなんて、ルネサンスの肖像画を思い出しますね。
宇野「どうでしょうか。北方ルネサンスと時期的にも重なるかな(笑) さて、こちらでは、当時の肖像画の描き方がわかるように展示の仕方を工夫してみました」
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▲『天王寺屋宗閑像あるいは紅屋たしゅく像』(土佐派絵画資料)/京都市立芸術大学芸術資料館蔵。鏡で絵の裏を見ると、違う顔を貼った肖像画が見える。

 

それは不思議な展示でした。透明の展示台に載せられた肖像画の下絵。その展示台の下には鏡が置かれており、絵の裏面が映し出されています。鏡に映っているのは、表面とは別の人の顔と表面の絵がトレースされた胴部でした。
宇野「顔の所に小さな別の紙がはってあるのがわかるでしょうか。顔だけを小さな紙に写生して、胴部を描いた大きな紙に貼っています。顔の方は何パターンか描いて、一番似ているものを注文主に選んでもらっていたようです。胴部は表面で2人分、裏面は表面をトレースして1人分、合計3人分に同じ絵が使われています。この効率的な感じは、なんとなく堺商人らしい感じもしますね」
――これは、完成画じゃなくて、下書きなのですか?
宇野「そうです。この下書きを紙形(かみがた)というのですが、紙形さえあれば、それをもとに絵師たちは同じ肖像画を描くことが出来たのです。光吉が描いた紙形をもとに、工房の絵師が本画を描くこともできたわけです」
――なんだか、アニメのキャラクター指定書みたいですね(笑)。こうした肖像画は何度も描く必要があったのですか?
宇野「現代でも法事で何回忌ってありますよね。当時はそういう時に、肖像画を飾ったのですが、古い肖像画がいたんだり、複数の肖像画が必要になった場合など、紙形をもとに同じ肖像画を再び描く時もあったようです」
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▲『今井宗久像』(土佐派絵画資料)/京都市立芸術大学芸術資料館蔵。白い箇所は胡粉を使った修正。
――絵師たちにとって、紙形はとても大事なものだったのですね。
宇野「展示中の紙形は大正頃まで土佐家に伝わったもので、現在は京都市立芸術大学芸術資料館に一括して収蔵されています。堺の町衆の肖像画は、完成作が残っていたらよかったのですが、堺は大坂夏の陣で焼けてしまったので、その時に焼けて失われてしまったのかもしれません。しかし紙形は光吉の息子の光則が持って避難したのでしょう。
--この人物は紙形と完成作が両方残っているのですか?
宇野「室町幕府13代将軍の足利義輝ですね。紙形にはあばたが描かれているのですが、本画ではあばたは描かれていません」
――あばたなしで描いてほしいというクライアントからのオーダーなんでしょうね。現代でいうとフォトショップで写真を修整するようなものでしょうか。どうやら、土佐光吉と土佐派は堺でうまくやっていたようですね。
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▲『足利義輝像』(土佐派絵画資料)/京都市立芸術大学芸術資料館蔵。室町幕府13代将軍足利義輝の紙形であばたが描かれている。源弐の署名だが、花押は玄二のものと同じで、玄二こと土佐光吉の筆と思われる。

 

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▲『足利義輝像』/国立歴史民俗博物館蔵(重要文化財)。義輝13回忌のために制作された。こちらではあばたは描かれていない。

 

■狩野永徳からの手紙
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▲『土佐家文書』より、狩野永徳から土佐光吉への手紙。緑青(緑色の絵の具)のお礼を述べ、光吉の上洛を促している。

 

宇野「こちらを見てください。そんな光吉に狩野派の棟梁である狩野永徳から来た手紙で、京都で一緒に仕事をしようと誘っています」
――光吉は応じたのでしょうか。
宇野「どうでしょうか。しかし拠点を堺から移すことはなかったようです」
――狩野派はライバルになるんですよね。どうして狩野永徳は光吉を誘ったのでしょうか?
宇野「ただ一緒に仕事をしたかっただけというよりは、土佐派の大切な下絵類や技術を手に入れようとしていたのかもしれません」
――だとすれば、土佐光吉が堺から動かなかったのは、狩野派を恐れてのことなのでしょうか? なんだかドラマが見えてきますね。
資料から土佐派と狩野派の間の関係も見て取れるようです。
後篇では、土佐派のもうひとつの得意分野を紹介しながら、両派の関係性の変化、そして土佐光吉の絵画史上の重要性や人となりについて迫ります。
(→後篇へ)
堺市博物館
住所:堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
開館時間:午前9時30分から午後5時15分(入館は午後4時30分まで)
休館日:月曜日
電話: 072-245-6201
会期:2018年10月6日(土)~11月4日(日)
※休館日 月曜日(但し、10月8日は開館)
時間:9:30~17:15(入館は16:30まで)
会場:堺市博物館
観覧料:
一般500円(400円)、 高大生 250円(170円)、小中学生 50円(30円)
※( )内は20人以上の団体料金
※市内在住・在学の小中学生は無料
※市内在住の65歳以上の方、および障害のある方は無料(要証明書)
※和泉市久保惣記念美術館特別展「土佐派と住吉派 -やまと絵の荘重と軽妙-」[会期:10月13日(土曜)~12月2日(日曜)]のチケット(半券可)を受付でご提示いただくと、観覧料を団体料金に割引いたします。
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