堺事件〜150年の時を越えて〜(3)
2022年2月23日に妙國寺で開催された、第5回「堺事件-平和を築くための国際理解講座」の取材記事の3回目です。
まずは堺事件とはなんなのかおさらいしてみましょう。幕末、堺に上陸したフランス兵と堺を守護する土佐藩士の間で銃撃戦が起こり、フランス兵11名が死亡。これは外交問題となり、責任をとって土佐藩士11名が切腹したというのが事件のあらましです。土佐の侍たちは、乱暴なフランス兵から堺市民をまもったのに切腹を命じられた悲劇のヒーローだ……といった風に総括されることが多いのですが、これには当時から疑問符がついていたようです。
この時の状況というのは、幕末も幕末、京都で鳥羽伏見の戦いが終わり、徳川慶喜が大坂から江戸へと逃げ帰り、薩摩藩・長州藩を中心とした諸侯連合軍は関西を掌握したばかり、といった状況。直前には神戸において、備前藩兵が行列を横切った外国人3名を負傷させる「神戸事件」も発生しています。
非常に混沌とした状況の中で、フランス側、土佐側にそれぞれの事情や思惑があり、不幸な行き違いもあって、引き金が引かれてしまった。そんな事件であったことを第1回の記事では述べました。150年後の現在も、自分たちの責務としてこの悲しい事件を伝えていきたいという、妙國寺の岡部貫首の思いがあって、土佐藩士たちが切腹した妙國寺では法要が営まれているのです。
法要の後、一橋大学、明治大学で客員教授を務める幕末の外交史がご専門のクリスチャン・フィリップ・パラック先生のオンライン講座が開講された様子を伝えたのが、第2回記事でした。フランスでは「堺事件」は「堺の虐殺」と呼ばれているというバラック先生のお話。資料を丁寧に見ていくと、堺市民と穏やかに交流していたフランス水兵たちを、土佐藩士たちが強襲し、一方的に殺傷した様子が浮かび上がってきます。虐殺という言葉は決して大げさではないものでした。
第3回の記事では、フランス水兵を殺害した後、土佐藩士たちに起きた悲劇についてみていくことにしましょう。
■土佐藩士たちの悲劇
土佐藩士に襲撃されたフランス水兵たちは11名が死亡。数名が負傷。ひと月前におきた神戸事件とはくらべものにならない大事件となりました。事件を知ったフランス側は当然大激怒。関係者の処罰と賠償、責任あるものの謝罪を求めます。
処罰は関係者の死刑。現場で襲撃をした堺警護の土佐藩士箕浦猪之吉率いる六番隊と西村佐平次率いる八番隊から20名が死罪と決定。そして両隊長と副隊長以外の16名はくじ引きによって決められます。
「堺事件」に悲惨な暗い印象が付きまとうのは、ひとつには処罰に関するこの拙速さにあるように思います。現場で指揮をとり直接殺傷にかかわった2人の隊長が処罰されるのは仕方がないことでしょう。しかし、彼らの上役である杉大監察の名前はどうして出てこないのか。そして、隊員たちの誰が何をしたのかを調べることもなく、運任せのくじ引きで求められた処刑人数を割り当てる。土佐藩士たちの命はただの数合わせでしかない。非人間的な処置であることに寒気がします。
土佐藩士たちの処罰を決定した土佐藩や新政府はそれまで外国人排斥の攘夷思想をあおりにあおって、箕浦のような若者たちを幕府との戦いに駆り立てていました。フランス水兵襲撃の背景には箕浦たちに注ぎ込まれた攘夷思想があります。利用するだけ利用して、いざ事件が起きると手のひらを返して見捨てる。まさに冷血。土佐藩士たちは生贄として差し出されたとしかいいようがないのではないでしょうか。
この時の顛末は、華美芝居部隊が新作紙芝居「堺事件・外伝 忍びて生きた烈士ゆかりの人々」で披露してくれました。くじ引きを引き当てた土佐藩士たち20名は、侍として切腹することになります。場所として選ばれたのは妙國寺。
土佐藩士達は辞世の句を残し次々と腹を切っていきます。ところが、11名が果て12番目の藩士である橋詰愛平が腹を切る短刀を手にとった時に異変が起きます。突如処刑中止の判断が下されたのです。
■残された人々
20名の死罪の予定がなぜ11名で終わったのか。その理由はよくわかっていません。切腹の凄惨さにフランス側が嫌気がさしたとというのは俗説のようですが、殺された11名と同じ数になったからという説ももっともらしいですが、だったら最初から11名にしていたのでは? と疑問が残ります。
ともかく11名が死に9名が生き残ったわけですが、突然死罪を回避できたことを残された9名は喜ぶことができませんでした。特に寸前で切腹を止められた橋詰愛平は、よほど苦しんだのか、移送中に舌を噛み切って死のうとした所を助けられています。
土佐藩は堺警護の任をとかれ、生き延びた9名はというと、土佐藩に送り返されるのですが、罪は得たままで土佐の四万十以西にある入田村に流罪となります。
その後の彼らについては、華美芝居と現在制作途中のドキュメンタリー動画で紹介されました。
もともと土佐国は、古来罪の重い流刑囚が送られる遠流の地であり、その中でも四万十以西は特に厳しい流刑の地でした。しかし、流刑となった土佐藩士たちに堺の人々は同情の気持ちを寄せて涙し、受け入れた入田村の村民たちも、彼らはただの罪人ではなく、国のために犠牲になった人たちなで粗略に扱ってはいけない人たちだと敬意をもって接したのだそうです。
事件から半年たち、時代が明治へと移る時に、ようやく9名は恩赦されることとなったのですが、そのうちの一人川谷銀太郎は恩赦三日前に罪人のまま病死。刑死した11名が十一烈士とされ、生き延びた8名が恩赦八士とされる、そのどこにも川谷は入ることができませんでした。
妙國寺でのイベントの終盤には、宝珠院への墓参、そして十一烈士の切腹の場の見学をすることもできました。
土佐十一烈士は切腹後、妙國寺の向いにある宝珠院に葬られました。11基の墓の横に小さなお墓があり、これは寸前に切腹を免れた橋詰愛平のものです。橋詰は恩赦後毎年墓参りを欠かさず堺に墓参しており、自身の墓は自ら望んで建立したそうですが、その命日は11名と同じ日付になっています。
また、殺害されたフランス水兵11名の墓は、神戸の外国人墓地にあるのですが、そこにも橋詰愛平は墓参りに訪れていたようです。
流刑のまま病死した川谷の墓は入田村にあります。その後建てられた石碑とともに、入田村の人々は大切に扱い、藩士たちのことを語り継いでいるそうです。
今回のイベントで多くの方が口にしましたが、「堺事件」は語り継いでいくことに大きな意義があると感じました。このイベントで多角的に知ることができたように、堺事件は不幸な衝突事件で済ませていいものではありません。土佐藩士たちは、攘夷をあおった土佐藩らによって加害者の位置に押し出され、そして見捨てられた。一方で、事件を引き起こしたものたちは、罪を生贄に押し付けてほっかむりをしたままです。誰かこの事件を反省した人がいるのでしょうか。「堺事件」を歴史の教訓として、二度と起こしてはならないとするのなら、なぜこの事件が起きたのかを真摯に検証し、事後処理の残酷さも含めて後世に語り継ぐべき事件だといえるでしょう。でなければ、十一烈士だけでなく生き残った藩士も、フランス水兵も浮かばれないではないですか。
まさにそうした活動をされている「堺事件を語り継ぐ会」や妙國寺の方々には敬意を表したいと思います。
堺事件を語り継ぐ会事務局
住所:堺市堺区材木町東4丁1-4 妙國寺内
電話:090-3844-7139(担当:呉竹、戒田)