堺事件〜150年の時を越えて〜(2)

 

2022年2月23日、第5回「堺事件-平和を築くための国際理解講座」が堺市堺区にある妙国寺で開催されました。この講座の意義を語るために、まず堺事件とはどんな事件だったのかを振り返ってみましょう。

堺事件は、慶應4年(1868年)2月15日(旧暦)に堺港に上陸したフランス水兵と境を守護する土佐藩士の間で銃撃戦が起こり、フランス水兵11名が殺害され、その罪を問われた土佐藩士11名が切腹したという事件です。この事件は、乱暴狼藉を働いていたフランス水兵から堺市民を守るために、勇敢に戦った土佐藩士が過剰に罪に問われた悲劇と捉えられてきました。しかし、悲劇は悲劇でも、どうも残された記録を辿るとまるで違う様相が顕になってきます。その事に気づいた昭和の作家大岡昇平は記録を紐解き「堺港攘夷始末」を記しました。

第一回の記事では、「堺港攘夷始末」を元に、土佐藩士側にもフランス側とも混乱を抱えており、事実誤認や行き違いから爆発寸前の状況が生まれた様子を見てきました。この火薬庫に火をつけたものは何か。では、事件の発生を大岡がどのように描いているのか、見てみる事にしましょう。

 

■攘夷と銃撃

 

▲フランス水兵が襲撃された旭茶屋の裏手にあった神明神社。神職さんによると、事件当時の神社はもっと海側にあったが、太平洋戦争の堺大空襲で全焼し、戦後再建される時に敷地が狭められ現在の位置になったとか。

 

視察を目的に陸路堺に入ろうとしたフランス海軍のヴェニス号艦長ロアと兵庫副領事ヴィヨーを大和橋で追い返した土佐藩士達は、ロア達を迎えに堺港に上陸したフランス海軍デュプレックス号の測量隊の水兵達の元に向かいます。フランス水兵達は、後にアサヒビールの由来となる旭茶屋に入り、物珍しさに集まってきた堺市民と互いに菓子やサンドイッチを振る舞いあったりして友好的に過ごしていました。

土佐藩士達は70名の隊員に地元の鳶職や同心も加えた軍勢を旭茶屋と、その周囲に密かに配置します。半分の兵力を率いる六番隊の隊長箕浦猪之吉は、儒家でもあり攘夷家でした。旭茶屋の2階に上がって高所を押さえた彼の目には、この時大坂湾に浮かんでいた16隻とも20隻ともいわれる多数の外国軍艦の姿が見えた事でしょう。

一月半ほど前には、箕浦達も参加した鳥羽伏見の戦いがあり、幕府側の徳川慶喜は、大坂から江戸へと逃げ帰ったばかり。薩摩藩と長州藩を中心とした諸侯連合軍は、権力を手中に収めつつありましたが、攘夷家達が期待したような外国勢への強硬姿勢とは真反対の弱腰姿勢を見せていました。なんと外国諸国公使による天皇謁見が大坂で実現しようとしていたのです。箕浦の心中は憤懣やる方ないものだったと推測されます。

 

▲フランス水兵たちによる堺港測量の記録をスライドにしたもの(バラックさんの講演より)。フランス水兵が堺港から環濠の奥まで測量していたことがわかる。図の上(東)に向かって伸びる水路を左右(東西)に渡る橋が勇橋、上下(南北)に渡る橋が栄橋をあらわしている。左上の余白(原画では文字が書かれている)部分は、現在南海本線「堺」駅駅舎やホテルアゴーラリージェンシー堺があるエリア。

 

一方、フランス水兵達も、約束の15時になってもロア達が現れないことに焦りを感じた事でしょう。フランス水兵達は、わずか2.4キロほど北の大和橋でロア達が追い返された事を知りません。

時計が17時を回ります。フランス水兵デュレルとルムールの2名が旭茶屋を出て、栄橋通りを市街地に向けて歩き始めます。その二人を、民家に潜んでいた西村佐平次率いる八番隊が姿を現して立ち塞がり、拘束しようとしたところ、ルムールが逃げ出します。

ルムールは仲間の水兵達に警告を発して、ボートに飛び乗りエンジンを動かそうとします。その様子を見た箕浦が「撃て」と命ずると、土佐藩士達が銃撃を開始します。武器を携帯していなかったフランス水兵達は抗う術はなく、ルムールは即死。負傷し水中に逃れた水兵も、鳶口で引きずり上げられて殴られるなど、土佐藩士達の攻撃は容赦ないものでした。

一方、デュレルは最初の攻撃で負傷して倒れていたために死亡したと思われ放置されていた所、堺市民(大岡は後の証言者善宝院竜海と推測)に逃げるように目配せされたおかげで、ボートに辿り着き逃走に成功します。デュレルは数少ない現場に居合せ生き残ったフランス水兵として貴重な証言者になります。

 

▲かつて旭茶屋のあった付近から、栄橋方面を望む。この通りと水路で「堺事件」は発生した。

 

 

デュレル以下4名の生存者を収容したデュプレックス号の艦長プチ=トアールは、しかし報復攻撃をしようとしませんでした。これはロアとヴィヨーが堺市内で拘束されている可能性を考えていたからでした。プチ=トアールは、ロッシュ公使に状況を報告し、事件は政治化していく事になります。

 

これが堺事件の前段に当たる部分の概要です。フランス水兵の身に起きた悲劇はフランスではどのように伝えられているのか、公開講座に話を戻し、講座の第二部、幕末における日本とフランスの交流史を研究している専門家クリスチャン・フィリップ・パラック先生によるオンライン講演を聞いてみましょう。

 

 

■『堺の虐殺 Le massucare de sakai』

 

▲「堺事件を語り継ぐ会」の代表井渓さん。

 

公開講座の第二部は大広間に場所を移して行われました。大広間からは、妙國寺の名を世に知らしめている大蘇鉄が中庭に植っているのが見えます。織田信長を恐ろしがらせた『夜泣きの蘇鉄』。妙國寺で切腹に臨んだ土佐藩士達も、この蘇鉄を見たことでしょう。

 

まずは堺事件を語り継ぐ会代表井溪明より、プログラムの変更についてのお詫びがりました。実は第二部では、堺事件に先立って起こった神戸事件で切腹を命じられた備前藩士瀧善三郎の曽孫である瀧正敏氏の講演「神戸事件とは」が予定されていました。しかし、新型コロナウィルスの感染状況が悪化しており、やむをえず来堺を断念したのでした。

「瀧さんの講演は次回以降に必ずいたします。この公開講座も後10年は続けようという話をしていたら、岡部貫首に100年はやらんかいとお叱りを受けました。堺事件について色々やっていこうという時に、神戸事件を取り上げることになったんです」

神戸事件は、堺事件を遡ること1ヶ月、1月11日に発生しました。

神戸事件とは、備前藩士たちが西宮警護の交代のため三宮の外国人居留地を通行中に、行列を横切ろうとしたフランス水兵と諍いになり負傷者が出たため、発砲を支持した第三砲兵隊隊長の瀧が責任を取り切腹したというものです。

旭茶屋の2階に籠った箕浦の頭には、神戸事件同様責任を問われれば、自分一人が腹を切ればいいという思いがあったのかもしれないと、大岡は推測しています。

その瀧善三郎を曽祖父にもち、瀧善三郎を偲ぶ会の代表である瀧正敏さんの講演、来年こそ実現して欲しいものです。

 

オンラインでの講演。背後には堺の歴史を400年以上見続けてきた大蘇鉄。

 

そして、いよいよクリスチャン・フィリップ・パラック先生のオンライン講座です。

「堺事件は、フランスではル・マスカル・サカイ Le massucare de sakai。すなわち『堺の虐殺』と呼ばれています」

と、パラッククさんの話は、いきなり刺激的な言葉から始まりました。しかし、言われてみれば水兵とはいえ戦場ではない場所で一方的に11人も殺されたのです。それは「虐殺」と称されてしかるべき事件でしょう。

 

一橋大学、明治大学で客員教授を務めるバラックさんは日本語にも堪能で、講演も「原稿を読むとつまらない話になるので、生き生きとした話がしたい」と原稿無しの講演にしたほどです。

パラックさんは、講演の内容を2部に分け、まずは事件の背景として、幕末における日本とフランスの交流史を紐解きます。

 

日仏関係は、1844年に琉球王国にフランス人がやってきたことに始まります。捕鯨船の那覇入港が許され、フランス人神父が2年をかけて日本語を習得し、1846年開国前の日本にフランス艦隊が到着。そして1858年の安政五カ国条約に含まれる日仏修好通商条約で国交関係が結ばれます。パラックさんは言います。

「(当時の将軍)徳川家茂は非常に優れたビジョンを持っていました。日本を開国せねばらない。外国のレベルにならないといけないと考えた、日本で最初の近代化の先駆者と言えるでしょう。彼はアメリカに使節団を送りました。福澤諭吉、小栗上野介らのいた慶応使節団です。彼は近代化に貢献した将軍と言えるでしょう」

 

この頃のフランスの主要産業は繊維産業でした。世界最大の絹織物産業の国です。しかし、蚕の伝染病によりフランスの養蚕業は壊滅的な被害を受けます。これを救ったのが、同じく絹織物を主要な産業としていた幕末の日本でした。日仏修好通商条約を結んだ際の記念品交換で日本の生糸が贈られ、これを輸入できるのではないかと考えたのです。フランスの技術者によって有名な富岡製糸場をはじめ20箇所の製糸場が作られ、日本からフランスに向けて生糸が輸出されるようになります。

「日本とフランスの間に海のシルクロードができました。日本とフランスの相互依存の関係がここに始まります。徳川家茂が大きなヴィジョンを持っていたからで、この相互依存の関係は第一次世界大戦まで続いたのです」

つまり、堺事件発生以前から、フランスと日本は経済的に相互依存しており、非常に友好的な関係にあると思われていた。どうしてこんな事件が起きたのかわからないというのが、フランス側から見た印象だったのです。

 

▲堺事件は当時のフランスでも絵付きで紹介され『堺の虐殺』として知られている。

 

パラックさんは、今から40年前に堺事件について調べ始めます。そしてフランスの防衛省資料館、海軍資料部に残っていたデュプレックス号艦長の報告書を発見したのです。

この資料をバラックさんは大岡昇平に見せています。パラックさんの調査が無ければ、『堺港攘夷始末』の内容は随分違ったものになっていたことでしょう。

フランスの資料を見れば、上陸したフランス水兵と堺市民は友好的に接してる様子、土佐側は待ち伏せし計画的にフランス水兵を襲撃してきたのに対してフランス水兵が攻撃していない様子が見て取れます。それは今回の記事において『堺港攘夷始末』を参考に見てきた通りです。

「完全に計画的な虐殺であるというのが、フランス側の見方です」

そうした現在のフランスの見解を紹介した日本の図書新聞の記事では、森鴎外の『堺事件』はフィクションで歴史的には信憑性が無いこと、また大岡昇平の事についても触れられています。

 

法要の卒塔婆で名前が記されていたように、パラックさんの調査のおかげで、犠牲になって死亡した11名と負傷した5名のフランス水兵の名前は判明しています。彼らはみなフランスでは貧しい階層の出身だったようです。

講演後の質疑応答では、参加者から「フランス水兵の中には、身代わりとして日本に来た水兵がいるとのことだけれど、その水兵についてはどれだけのことが分かっているのか?」といった質問もありました。

残念ながら、身代わり兵士も含め16名の家族やその子孫については何もわかっておらず、パラックさんはその調査を今後の宿題としたい、とのことでした。子孫の方たちとつながり、事件から150年たっても、日本でその死が悼まれていることが伝わればと願わずにいられません。

 

『堺事件』はフランス側にとっては『堺の虐殺』と言うしか無い悲劇でしたが、名誉の切腹を遂げて土佐烈士と称えられている土佐藩士たちにとってはどうだったのかというと、死では終わらない悲劇が彼らを待ち受けていました。その悲劇について次回は見ていくことにしましょう。

 

 

堺事件を語り継ぐ会事務局
住所:堺市堺区材木町東4丁1-4 妙國寺内
電話:090-3844-7139(担当:呉竹、戒田)

 


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