堺市博物館の企画展「堺と芝居-興行の場とゆかりの人々-」を、担当された学芸員の渋谷一成さんに案内していただいています。
前篇では、江戸時代の近世堺の芝居小屋の変遷や、幕府の政策によって翻弄される興行や演劇人の姿を見てきました。
後篇では、時を明治、近代堺へと移し、渋谷さんが「千利休・与謝野晶子・行基・坂田三吉・河口慧海」に次ぐ、堺生まれの歴史上の偉人と評価する曾我廼家五郎にスポットをあてます。
■堺の繁華街生まれ
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▲戦前の宿院界隈。中央に当時の宿院頓宮。奥に見えるのが卯之日座。(「戦前の宿院方面の図(堺市博物館蔵)) |
明治に入って、新地の龍神橋通にあった芝居小屋「龍神座」が、宿院に移転し改称し「大山座」そして「卯之日座」となります。丁度、宿院頓宮の北向で、今はファミリーレストラン「デニーズ」になっているあたりに、「卯之日座」はあったようです。
曾我廼家五郎(本名:和田久一)は明治10(1877)年にこの宿院界隈で生まれました。明治11(1878)年生まれの与謝野晶子とは1才違いのご近所さんです。父は弁護士のような仕事をしていたそうですが、曾我廼家五郎が5才の時に亡くなります。曾我廼家五郎は、母の生家である堺区錦之町の浄因寺で育ちます。
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▲『役者番付卯之日座』(堺市博物館蔵)。二段になっている上の小さな字が俄役者の名前で、下が演じる歌舞伎役者の名前になっている。 |
そのまま成長すればお坊さんになる運命が待っていたかもしれない曾我廼家五郎ですが、14才の時に大阪に丁稚奉公に行き、そこで芝居と出会い運命が変わります。16才で歌舞伎の中村珊瑚郎に弟子入りし、大部屋役者・中村珊之助となります。
しかし、歌舞伎の世界は血筋が物をいう世界。大部屋役者・中村珊之助には、いつまでたってもいい役は回ってきません。
ついに、歌舞伎の世界から飛び出して、新たな境地に挑むことになります。その境地とは「笑い」。前篇の記事で見たように、当時の「笑い」としては、歌舞伎役者のモノマネを大げさに行う即興芸「俄(にわか)」がありました。こうした「笑い」は、歌舞伎よりも一段低く見られていました。
中村珊之助、改め曾我廼家五郎は「笑い」に自らの活路を見いだします。しかし、それは簡単に切り拓くことは出来ない茨の道でもありました。
■「喜劇」を生んだマルチクリエイター
歌舞伎界を飛び出し、同じく歌舞伎役者だった中村時代(本名・大松福松)改め曾我廼家十郎と共に、俄(にわか)を発展させた笑いの芝居を志します。
――曾我廼家五郎が目指した笑いの芝居とはどのような特徴があるのでしょうか?
渋谷「俄は即興劇でしたが、曾我廼家五郎は台本がある筋がしっかりとしたコメディを目指しました。内容も誰でも笑える、間口が広いものでした」
この筋のしっかりした笑いの芝居を曾我廼家五郎は「喜劇」と呼びました。曾我廼家五郎によると、雑誌「文芸倶楽部」に掲載された尾崎紅葉の小説「喜劇夏小袖」から「喜劇」という言葉を取ったとしていますが、文芸倶楽部には該当する小説は掲載されておらず、曾我廼家五郎の記憶違いかもしれません。
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▲日露戦争号外の展示。世相を切り取って笑いに変えるのも喜劇の役割といえるでしょう。 |
いずれにせよ「喜劇」は曾我廼家五郎によって、舞台芸術として世に送り出されましたが、その旅立ちは苦難の華々しいものではありませんでした。
明治36年伊丹の桜井座での初公演は、興行的には不入りで失敗。故郷堺の卯之日座での興行も振るいませんでした。
渋谷「転機となったのは、明治37年2月の大阪道頓堀の浪花座での公演で、『無筆の号外』という作品の好評によるとされています。これは近所の洋食屋の開店のビラを、文字が読めない人が日露戦争の号外だと勘違いしたところから始まるドタバタ劇でした」
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▲曾我廼家五郎の手による印刷物はどれもクオリティが高い。 |
ようやくヒット作を生み出した曾我廼家五郎は、マルチな活躍を始めます。
曾我廼家五郎は、役者であり、脚本家であり、演出家であるだけでなく、プロデューサーとしての才能にも恵まれていたようです。
企画展には、曾我廼家五郎が作らせたパンフレットや公演案内ハガキが多数展示されていますが、いずれもデザイン的に凝っており、目を引くカラフルなものです。これらの絵ハガキから評判のいいものが、『五郎劇宣伝意匠絵葉書傑作輯』として出版されました。
また、曾我廼家五郎の脚本は数度にわたって出版され、1930~33年には『曾我廼家五郎全集』全12巻が刊行され、98編の脚本が収められています。
こうした出版物と演劇の相乗効果で、曾我廼家五郎の「喜劇」に多くのファンを生み出していきました。今でいうマルチメディア展開を明治時代に行ったのが、曾我廼家五郎だったのです。
――曾我廼家五郎は、とてつもないマルチクリエイターですね。
渋谷「今回の展示ではそこまで手が回らなかったのですが、曾我廼家五郎は映画に出たりレコードを残しています」
曾我廼家五郎の仕事ぶりもすさまじいもので、年間スケジュールを見ると、毎月のように全国で公演を行っており、年間休み無く働いていたことがわかります。それも、南座や歌舞伎座といった大劇場でも頻繁に公演しており、トップレベルの人気を誇った「客の呼べる」演劇人だったことがわかります。
■曾我廼家五郎を巡る人たち
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▲チャップリンと握手する曾我廼家五郎。(出典不明/浄因寺蔵)
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公演案内絵ハガキをひいき筋にマメに出していた曾我廼家五郎の交友関係は幅広いものだったようです。曾我廼家五郎全集の内容見本には、演劇界のみならず歌人、宗教家、新聞関係者などから幅広く推薦の言葉が寄せられています。
「日本の喜劇王」と呼ばれるエノケン(榎本健一)やロッパ(古川ロッパ)よりは一世代上にあたりましたが、酒席を共にするなど親しく付き合っていたようです。そして、「世界の喜劇王」チャップリンも、昭和7(1932)年に来日した際、新橋演劇場で公演中の曾我廼家五郎を楽屋に訪ね、2人の握手している写真が企画展でも展示されています。
では、故郷堺の人々との交友関係はどのようなものであったのでしょうか。
14才の時に丁稚奉公に出た曾我廼家五郎でしたが、自らを「泉州堺の産・一堺漁人」と称していたそうで、堺にアイデンティティーを置いていたようです。
「千利休堺の巻」という作品では、自ら千利休を演じるために、京都や堺で取材を行い、京都の裏千家今日庵や大安寺、堺の南宗寺も訪れています。
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▲千利休に扮した曾我廼家五郎。(堺市博物館蔵/和田敬三氏寄贈) |
そして、古今の堺人を評した一文を残しています。
「余り英雄豪傑は出ませんが芸術に遊ぶ人をピヨコピヨコ生む土らしい。古の堺の奇人としてはお茶の千利久(利休)に指を屈します。(中略)三味線の創始者である龍達(隆達)和尚、女形の名優と今に名を遺してゐる中村富十郎の昔は知らず、現在私の知つて居る人々でも、小説家の村上浪六さんは私の先輩、小学校から顔馴染の歌人晶子さんは大道筋のお菓子屋の娘さん、先年物故された文楽の竹本越路太夫さんも同じ学校友達、脚本家の食満南北さんも蜻蛉釣りの仲間の一人、中学時代の友達の詩人の河井酔茗さんも此の間久々に御目にかゝつて懐かしかつた、女流画家の島成園さんだの、前美術学校の校長さん、竹細工の名人竹芳斉(前田竹房斎)師――夫れから夫れからと考えたら限りなき風変わりの人揃ひ。堺からこんな人達が生まれなかつたら如何に日本は淋しかろう、秀吉もナポレオンも国になくてはならぬ人には違ひないが、堺が生んだ風変わりな芸術家も必要には違ひないと、一寸お国自慢をさせて戴きます」(『十五年の足跡』昭和12年の巻「無条約時代」から抜粋/仮名遣いは原文のままとしましたが、漢字は常用漢字に直しました。人名表記も五郎の原文に従い、括弧で補いました)
なかなか親愛の情を感じさせる優しい語り口の一文です。秀吉やナポレオンのような英雄豪傑は出ないが、堺が生んだ風変わりな芸術家も必要に違いないと、芸術家の価値を英雄豪傑に劣らないとしているところに、矜持を感じさせます。自由と文化を愛する自治都市堺の面目躍如といった所でしょうか。
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▲脚本家の食満南北は絵にも堪能でマルチな才能の持ち主だった。(堺市博物館蔵) |
企画展では、この一文の中に登場する三味線の高三隆達と、同世代人で親交のあった脚本家食満南北についても取り上げています。特に食満南北は、この企画展の名脇役といった役どころで、絵も書もうまい粋人の魅力の一端を知ることができます。この食満南北といい、曾我廼家五郎といい、堺生まれの芸術家は一芸に収らず多分野で才能を発揮するルネサンス型の人物が多いのかもしれませんね。
その後の曾我廼家五郎の芝居は、評論家からは勧善懲悪的な筋立てがマンネリを指摘されたりもしましたが、大衆には根強い人気で、大きな劇場での興行を長年続けることになりました。戦後も芝居を続けましたが、昭和23(1948)年3月に咽頭がんの手術を行い、声が出せなくなります。それでも曾我廼家五郎は舞台に立ち、同年9月の中座公演が最後の舞台となります。その2ヶ月後の11月、曾我廼家五郎、咽頭がんにより死去。享年71歳でした。死の間際まで、曾我廼家五郎は舞台人だったのです。
翌月五郎劇・松竹家庭劇及び劇団すいと・ほーむが合同し、松竹新喜劇が生まれ、今に続きます。
「堺の喜劇王」曾我廼家五郎は、その功績に比べて知名度は低いものですが、その「笑い」の血脈は現代にしっかりと受け継がれているといえそうです。
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▲堺市博物館の学芸員渋谷一成さん。 |
堺市博物館
堺市堺区百舌鳥夕雲町2丁 大仙公園内
072-245-6201