古墳の丘を歩む人~「よみがえる百舌鳥古墳群」著者宮川徏さんに聞く~(1)

 

ユネスコ世界文化遺産に百舌鳥古市古墳群が登録され、古墳ブームが賑やかになってきた今、注目すべき一冊の本があります。それは『よみがえる百舌鳥古墳群 失われた古墳群の実像に迫る』です。一読して、古墳紹介本とは一線を画す本というインパクト。
観測データを積み上げて古墳の謎に迫る章は上質の科学ミステリーのよう。古墳保存運動の顛末の章は日本の文化財保護・社会運動史の貴重な記録。そして戦時中、少年の目で見たB29の編隊と空襲についての章は、古墳と戦争が無関係ではなかったとこれまでになかった視点を提供してくれました。おそらく日本の古墳研究者の中で、最も大山古墳(仁徳天皇陵)と間近で密接に関わり続けてきた著者だから書ける一冊。
学術書でもあり、ドキュメンタリーでもあり、エッセイでもある。この多面的な魅力をもった一冊の著者の名は、宮川徏(すすむ)さん。奈良県立橿原考古学研究所の研究顧問であり、歯科医師でもあります。田出井山古墳(反正陵)のほど近くの宮川歯科でお話を聞くことができました。本の内容が多彩なだけあって、今回の取材記事も長いものになります。

■自分にしか書けない本

 

▲宮川歯科のロビーで宮川徏さんのお話をうかがいました。

 

宮川歯科のロビーには、堺市博物館で開催中の特別展「百舌鳥古墳群-巨大墓の時代―」の大きなポスターが貼ってあり、本棚には著書「よみがえる百舌鳥古墳群」が収められていました。
――この本を書かれたきっかけは何かあったのでしょうか?
宮川「協同で古墳について書く機会があって、私はイタスケ古墳の保存運動を中心にまとめたのですが、文字数を相当オーバーしてしまったことがありました。その仲間の1人の勅使河原くんから、『そろそろ一冊本を書きませんか?』と言われたのがきっかけですね。古墳の解説書は色々あるけれど、その古墳にどんな話が纏わっているかを書いた本はない。森浩一さん(考古学者)も亡くなって、同級生もホームに入っていたりして、今元気なのは自分だけ。戦後のことを知る人間は自分しかいません。自分が書かなかったら、伝聞でしか残らないでしょう。実際に見た人間として、書き残しておこうと思いました」
――戦後の古墳にまつわることが色々あったのですね。
宮川「世界遺産の問題があります。世界遺産で盛り上がること自体は悪いことではない。しかし、戦後の状況があまりにもひどかった。あの時になぜ、今の十分の一でも古墳を残そうという気持ちが無かったのか……人間的にもひどかった」

宮川さんの半生は、戦中戦後の古墳の苦難の歴史と寄り添うものでした。まずは戦時中。日本全土が爆撃の洗礼で焼け野原にされていく、その中で宮川さんが見たものとはどんなものだったのでしょうか。時計の針を1945年に合わせてみましょう。

 

■農学校の泥田の上で学ぶ

 

▲宮川さんが通った大阪府立農学校。大山古墳のそばにあった。

 

宮川さんは、小学生の頃から古墳好きの少年でした。古墳をもとめて、飛鳥地方を歩き回るほどだったそうです。
宮川「堺中学校に進みたかったんだけど、算数がダメでね。当時は先生の言うことは絶対です。お前は大阪府立農学校へ行けと言われて、受験することにしたんです。ところが、受験日の1945年の3月13日。大阪は空襲を受けて、受験どころじゃなくなった。府下で試験は出来なかったので、受験を希望したものは皆合格ということになったんです。しまった! と思いましたね。堺中学にしておけば良かった(笑)」
――決して希望した進路ではなかったんですね。
宮川「でも、行って良かったことがいくつもあった。ひとつは農学校では農業実習がずっとある。古代の古墳造営がどういうものだったのか、泥田の上に立って初めてわかることがあった。多くの古墳研究者が頭でしか考えなかったことだけど、水田稲作農耕を3年間体験したことは観念的ではなかった」
――宮川さんの本の中で、古墳造営の単位として手を広げた長さ「ヒロ」が重要な尺度になっていると気づかれたのも、農業体験からですね。
宮川「水田は泥の中だから歩きにくい。歩数じゃなくて、ヒロが重要です。それと農学校の校舎は、大山古墳(仁徳天皇陵)の外濠の南西にありました。窓の向こうは大山古墳。校舎の屋根の上から、ずっと古墳を見下ろしていた。古墳研究者の中で最も濃密に大山古墳と向き合ったのは僕でしょうね(笑) 農学校に行ったことは、色んな意味で良かった。回り道をしても、決して無駄ではありませんでした」

 

■空襲を観測する

 

▲百舌鳥古墳群をランドマークに編隊飛行するB29。指さす先の農学校には宮川少年がこの編隊を見上げていた。

 

――その頃は、空襲もどんどん激しくなっていった時期ですよね。
宮川「農学校には生徒用の防空壕は無くてね。毎日やっていた農業実習は野外実習ですから、空襲警報が出たら勝手に逃げろてなもんです。農業実習の農地があったのは、イタスケ古墳の近く、今支援学校があるあたりです。だから、空襲へ行くB29や艦載機の様子も良く観察することができました。すると、空襲のために、地上の巨大な緑の鍵穴をランドマークにしているらしいことに気づいたのです」
――実際にご覧になって気づいたんですか?
宮川「ある時、南からやってきた艦載機が大山古墳の上でくるっと(2時方向に)旋回したんです。すると翼から二筋の炎が噴出して、最初は(日本軍の)高射砲が当たったと思って、やったーと叫んだら、ロケット弾を発射したんですね。八尾空港、当時は大正飛行場と言ったんですが、それを攻撃したんです」
――巨大な前方後円墳の特徴的な形を目印にしていたってことですか。
宮川「アメリカ軍はレーダーを使っていたといっても、当時のレーダーはまだそれほど精密なものではなかった。飛行コースを決める際に、大きくマクロな目標だけでなく、ミクロな飛行コースとそのためのランドマークも必要です。(写真をとりだす)これは、アメリカ軍のとった写真ですが、住友金属(現在はUSJ)を爆撃に行く時の編隊です。百舌鳥古墳群よりずっと海側を飛んでいる。ここに農学校が写っているのですが、実はこの時私はこの農学校からこの編隊を見上げていた。この写真を撮った米兵と私は目が合っていたんです」
――まさにこの編隊を見ていたのですか?
宮川「30機ぐらいの編隊で、高射砲にやられてB29が一機撃墜される瞬間も見ました。片側の主翼が吹き飛んで、太陽の光をあびて銀紙のように輝いてひらひらと舞い落ちていきました。機体はきりもみをして大阪湾に墜落していき、白いパラシュートが1つだけ降りていくのが見えました」

あの巨大な爆撃機から脱出できたのはただ1人の乗組員だけ。戦争の残酷さを目の当たりにして、敵機の撃墜に喝采をあげた農学校の生徒たちも、残された乗組員たちの運命に思いをはせた様子だったとか。

そして、戦況はいよいよ逼迫し、戦火は堺の町と、古墳にも迫ります。

第2回へ続く。

 

「よみがえる百舌鳥古墳群―失われた古墳群の実像に迫る」

著者:宮川徏
出版社: 新泉社
ISBN-10: 4787718053
ISBN-13: 978-4787718051

 

■堺平和のための戦争展2019

毎年開催されている堺平和のための戦争展が、今年も開催されます。27日には宮川徏さんの講演もあります。

日時:2019年7月27日(土)11:00~18:00
7月28日(日)10:00~15:20
会場:サンスクエア堺

 

 

 

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