古墳の丘を歩む人~「よみがえる百舌鳥古墳群」著者宮川徏さんに聞く~(2)

 

「古墳と戦争は無関係ではない」
先日、ユネスコ世界文化遺産に登録されたばかりの百舌鳥古市古墳群ですが、古代の大王が建造した歴史遺産というだけでなく、その後の歴史の中でも重要な役割を果たし続けていました。それは昭和の時代の太平洋戦争においてもそうだったのです。

「よみがえる百舌鳥古墳群 失われた古墳群の実像に迫る」を執筆された古墳研究家で歯科医の宮川徏(すすむ)さんは、「古墳研究家の中で最も大山古墳(仁徳天皇陵)と濃密に向き合ってきた」1人です。
1945年に入学した堺農業学校は、大山古墳の外濠の南西にありました。それこそ毎日、大山古墳を眺めながら過ごしていました。その学生生活の中で、宮川さんは百舌鳥古墳群がアメリカ軍の飛行ルートのランドマークとして使われているのではないか、ということに気づいたのです。

古墳の側からはるか上空のB29の編隊を見上げていた宮川さん。その宮川さんの身にも戦火が迫ります。宮川さんへのインタビュー記事、第1回に引き続き第2回をお届けします。

 

■知られざる第四次空襲

 

▲大正区の住友金属の工場へ向かって飛ぶB29の編隊。百舌鳥古墳群をランドマークに飛んでいたのではないかと宮川さんは推測する。

 

――どうしてアメリカ軍がランドマークとして百舌鳥古墳群を利用していることに宮川さんは気づかれたのですか?
「今UFJがある住友金属を爆撃する時は編隊は海側を飛ぶのですが、大阪陸軍造兵廠(大坂城の東側)を爆撃する時は、百舌鳥古墳群の上を飛んでいくのです。あれは沖縄が陥落(6月23日)した数日後でしたか、なぜか1機だけB29が百舌鳥古墳群の上を北へ向かって飛んでいました。見上げていると、エンジンが突然火を噴きました。B29はよろめきながら爆弾を投下しました。爆弾は2000ポンド爆弾、1トン爆弾というやつです。これが櫛屋町西に落ちた。数秒後、地面が激しく揺れて農業学校の窓という窓が誰かが手を持って揺すったように激しく揺さぶられてから、衝撃波がやってきました」
――ものすごい破壊力ですね。被害はどうだったのでしょうか?
宮川「(市街地が目標だと焼夷弾を使うのに対して)これは大阪陸軍造兵廠の分厚いコンクリートをぶち破るための爆弾で、地盤の柔らかい旧市街区だとかえって被害は少なかったようです。不発弾もあったらしいのですが、軍隊も処理するのに手が回らず、まだ5発ぐらい残っているかもしれません。だとするといずれ不発弾騒ぎが起きるかもしれませんね。この日の空襲は第四次空襲とされていますが、実態はそうではなく偶発的な爆弾投棄だったのです。堺の詩人安西冬衛は、この時堺市役所の地下室にいて、激しい衝撃を感じたことを記録しています」
――被弾したB29はその後墜落したのでしょうか?
宮川「左エンジンが出火したため、右旋回して風圧で鎮火させようとしたようです。おそらく最短距離で紀伊半島を南下して太平洋へ出る脱出コースを選択し、海上に不時着して万に一つ近海で待機している米軍潜水艦に救助されることに賭けたのだと思います。しかし、このB29は和歌山県の清冷山の尾根に墜落します。墜落する直前、機長と副操縦士を残して乗組員たちは脱出したそうです。2人は機体と運命を共にしたわけですが、軍人とはそういうものなのです。脱出した乗組員たちも、記録によると助かったものの日本軍に捕らえられ、信太山で首を切られて殺されたそうです」

逃げ出した兵士まで斬首する。戦争の狂気は、軍だけでなく日本全土を覆っていたのでしょう。

 

■爆撃された大山古墳

 

▲宮川徏さん。ご近所の田出井山古墳(反正天皇陵)にて撮影。堺大空襲の時は、熊野町からJR阪和線堺市駅まで逃げたそうです。

そして堺にとって運命の日がやってきます。
すでにアメリカ軍の爆撃は、日本の主要都市を焼き尽くしており、狙いを周辺都市に拡大していました。
1945年7月10日未明。124機のB29が堺を空襲。路面電車の大小路電停を目印とし、焼夷弾の雨を降らせたのです。
宮川さんの実家は、爆撃の目標の大小路電停からほど近い熊野町東でした。爆撃の最初の一撃の破裂音で目覚めた宮川さんは、家族と一緒に町の東へ、三国丘の方へ逃げたそうです。海側の西へ逃げた人の多くが炎にまかれて焼死したので、これは結果として生き延びるための正しい判断となりました。

金岡駅(現在のJR阪和線堺市駅)まで逃げた宮川さんは、そこから堺のまちが燃える様子を見ていました。爆弾は大山古墳にも容赦なく降り注ぎ、宮川さんは、「御陵が焼ける! 御陵が焼ける!」と叫んでいたそうです。

――大山古墳も爆撃されたのですか?
宮川「大山古墳の西側、安井町から東が燃え残っているのですが、これはそこを爆撃する予定だったB29が爆弾を投下するタイミングをミスして遅らせてしまい、その分が大山古墳に落ちたのでしょう。B29は西から東へ飛んでいたのですが、飛行速度は1秒間で155m。計算すると約8秒ほどずれたのだと思います。当時の調査によると大山古墳は、300発の焼夷弾を浴びたそうです。しかし、最近も不発弾が見つかったように、もっと降り注いでいたでしょう。それに堀にも爆弾は落ちていたはずです」
――古墳は燃えなかったのですか?
宮川「7月の森の水分というのは大したものです。古墳は燃えなかったのです。まるで古墳が周辺のまちを守ったかのようでしたね」
――古墳まで炎上していたら、被害はもっと広がっていたかもしれませんね。
宮川「百舌鳥古墳群というのは、古代のロマンだけではないのです」

 

▲大山古墳より西のエリアが焼け残ったのは、爆撃のタイミングがずれて爆弾が大山古墳に落ちたから。(「堺平和のための戦争展2019」の講演より)

 

大山古墳の加護があってか、宮川さんの通う農業学校も焼け残りました。その後、宮川さんたち生徒は、百舌鳥古墳群沿いに北から南へ低空飛行する艦載機グラマン戦闘機に肝を冷やしたりします。それは、まさに本土決戦に備えた国民義勇報国隊の結成式を執り行っている時でした。生徒たちは椅子の下に身を伏せ、機銃掃射の恐怖におびえたのですが、作戦行動終了後で母艦へ帰る途中だったのか、攻撃を受けずにすみました。
この艦載機も、帰路の飛行ルートに百舌鳥古墳群をランドマークにしていたことをうかがわせます。そして、艦載機が好き放題に内陸を飛行させるほど、日本の防衛能力は無力化していたのです。

このグラマン戦闘機の来襲から数日後、8月15日に日本は敗戦を迎えます。

 

宮川さんは生き延びました。古墳群も残りました。

しかし、アメリカ軍の爆撃にも耐えた百舌鳥古墳群は、とんでもない危機にさらされます。古墳が次々と破壊されはじめたのです。小学生の頃から古墳好き少年だった宮川さんは、運命の綾なのか、この危機に立ち向かうことになります。

 

→第3回へ続く。

 

「よみがえる百舌鳥古墳群―失われた古墳群の実像に迫る」

著者:宮川徏
出版社: 新泉社
ISBN-10: 4787718053
ISBN-13: 978-4787718051

 


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