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ミュージアムへ行こう!『和紙文化への招待』(2)

 

百舌鳥古市古墳群のユネスコ世界文化遺産登録に沸く堺市。
最大の古墳である大仙陵古墳のお隣にある堺市博物館には、ユネスコカテゴリー2センターである「アジア太平洋無形文化遺産研究センター」が存在します。そんな関係もあって、堺市博物館では、世界無形遺産である「和紙:日本の手漉和紙技術」を取り上げ、無形文化遺産シリーズ展「和紙文化への招待―日本の手漉き和紙技術の現在―」を開催しています。
前篇では、堺市博物館の名物学芸員矢内一磨さんの案内で、ユネスコの無形文化遺産に登録された3つの手漉き和紙を中心に、和紙の歴史と特徴を見てきました。後篇では、現代における手漉和紙を伝える取り組みや、製紙道具の展示品を見ていきましょう。

 

■高野山麓の和紙の郷

 

堺区の大小路を起点にする西高野街道は、十三里あまりで高野山女人堂へたどり着く街道で、江戸時代以前の信者たちは三日市で一泊し、堺から二日で高野山へたどり着いたといいます。今では南海高野線の「堺東」駅から、高野山の麓の「極楽橋」駅まで特急なら1時間少々しかかからないようになりました。
その「極楽橋」より北域、紀ノ川の支流不動谷川や丹生川に接して、高野紙の故郷があります。江戸時代には紙漉きに関わる村々でえびす講という組織を作り、「高野十郷」と称されたのでした。高野十郷で作られた和紙は高野紙と言われ、もっぱら高野山地域で消費された地産地消の和紙でした。

――一体、高野紙は何に使われたのでしょうか?
矢内「もともとは弘法大師のお札ですね。なんといっても弘法大師のお札ですから、全国に流布しました」
――それはすごい需要がありそうですね。他には?
矢内「もちろんお経にも使われましたし、傘にも使われたようです」

この「高野十郷」の細川村で作られた紙が評判となって、埼玉県では江戸時代に高野山より伝わったという伝承がある細川紙が作られるようになり、ユネスコの無形文化遺産のリスト入りをしたのでした。

 

 

そして話は現代に移り、手漉き和紙は廃れていきます。
「高野十郷」の古沢で技術を継承してきた中坊佳代子さんが、最後の漉き手となった頃に、細川で文化継承の動きがあり、飯野尚子さんが中坊さんから技術を継承し、高野細川紙研究会を始めました。また西細川では地域振興のために、紙漉き場所の提供だけでなく、原料となるこうぞの採取やトロロアオイの栽培などを始めたのです。
南海高野線「極楽橋」駅より二駅手前「紀伊細川」駅から見下ろす不動谷川の、深く濃い緑の谷の里の写真が展示されています。こうした土地では、大規模農業や工業を誘致して地域産業を活性化することは難しいでしょう。地域ならではの産業として、歴史ある「高野紙」が目をつけられたのも必然と言えそうです。

 

■紙漉きの文化体系

 

この地域から集めてきた実際に紙を漉くための数々の道具の展示は、今回の目玉展示でしょう。紙の原料液を満たす「漉き舟(すきふね)」は、フロアの中央にあって存在感抜群です。
キッチンのシンクや湯船のような本体に様々な器具が取り付けられています。これは実際に高野紙の継承者中坊君子・佳代子さんが使っていた実物です。この舟自体も手作りで、使用者が使いやすいようにカスタマイズされているのです。

この「漉き舟」だけでなく、一見地味な展示品の中にも興味深いものがありました。その一つが「漉き簀(すきす)」です。
紙を漉くための漉き簀はカヤを編んで作る道具ですが、その漉き簀を編むための道具であるコマやウマと呼ばれる道具の展示もあります。当たり前のことですが、製品を作るには道具がいる。道具を作るにも道具がいる。製品を作るための原料もいる。道具を作るための原料もいる。道具を作るための道具を作るための原料がいる。……と、一つの製品の背景には、膨大な体系が隠されている。それら全てをひっくるめて文化というのでしょう。

 

 

動画の展示には、西細川で、原料となるこうぞを採取している様子や、原料のひとつで粘り成分を利用するとろろあおいの栽培風景なども収められています。

製品として生まれるのは、紙一枚なのかもしれませんが、それが出来るに至るまでの、道具や原料も一から地産地消するというコンセプトのお陰で、文化体系に血が通い地域全体が活性化していく。そんなことが起きているのではないでしょうか。

 

■個性的な紙々

▲左が機械漉きの湊紙、右の二枚が明松政二氏による手漉きの湊紙。

 

文化体系といえば、茶道文化の中で無くてはならぬ紙も展示されています。
それが、堺区の湊を発祥とする湊紙です。
湊紙の誕生は南北朝時代に遡ります。当時の堺の湊村で南朝方の綸旨の紙漉と民間用の紙漉をしたことが湊紙の始まりだそうです。(小谷方明『堺の湊紙』広文堂より)
湊紙は茶室の腰張紙として使われ、近くではさかい利晶の杜の茶室「無一庵」に使われています。江戸時代には兵庫県西宮市の名塩で漉かれるようになったのですが、この湊紙はやっかいな事に黒い紙のため、一度湊紙を漉くと紙漉舟が黒くなってしい掃除が大変だから名塩では今は漉いていないのだとか。
企画展では福井県の機械漉きで漉かれている湊紙と、紙漉作家の明松政二(かがりせいじ)さんが漉いた湊紙が展示されています。どこか平坦な印象のある機械漉きと表情の感じられる手漉きの湊紙の違いを見比べてみてください。

 

▲名塩の間似合紙。

 

今名前のあがった名塩も400年の紙漉の伝統がある産地です。名塩紙は、紙に泥土を混ぜた和紙で、名塩の間似合紙(まにあいがみ)は大判で襖に使われるそうです。混ぜる土によって赤みを帯びた紙、青みを帯びた紙を漉く事が出来るそうで、個性的な美しい紙が展示されています。

 

▲左が朝鮮半島の韓紙、右が中国の宣紙。

 

最後に参考展示として「東アジアの伝統紙-宣紙と韓紙-」が展示されています。これは中国と韓国に伝わる伝統紙です。
中国で生まれた紙は、東アジアに広まり、あの有名なタラス河畔の戦いの後、イスラム世界を経てヨーロッパへと伝わりました。そうして世界中に広がった紙の中でも、この二つは日本の和紙の源流でもあり、最も近しい紙たちではないでしょうか。
矢内「ベトナムの伝統紙もあるのですが、今回はそこまで準備できませんでした。中国の宣紙(せんし)は、手漉和紙と同じく中国のユネスコ無形文化遺産の一つで、筆・墨・硯とともに文房四宝(ぶんぼうしほう)のひとつである紙の最高峰です。朝鮮半島の韓紙(ハンジ/かんし)は、家庭で合間に作られてきたもので、ユネスコでの記載・登録はされていませんが、アジアの伝統紙として貴重です。いずれユネスコ無形文化遺産になるかもしれません」

 

印刷会社ホウユウを親会社とし、紙caféをプロデュースして数々の紙製品を送り出してきたつーる・ど・堺としては、紙こそ1番親しい素材です。ユネスコ無形文化遺産に登録された三つの和紙はどれも素晴らしいものでしたが、それ以外の和紙や和紙文化、そしてアジアの伝統紙も興味深いものでした。
展示は2019年6月23日まで。興味のある方は、堺市博物館へ。

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