「ミュシャが夢見たハーモニー」レビュー

美しい女性と植物などの曲線が組み合わさった優美な構図で知られる、アール・ヌーヴォーの旗手アルフォンス・ミュシャ。そのミュシャの世界最大級のコレクションを誇るのが、堺市にある堺アルフォンス・ミュシャ館です。
つーる・ど・堺では、これまで何度も堺アルフォンス・ミュシャ館の企画展を取材してきました。デザイナーとしての印象が強いミュシャだけど、もともとは画家を目指しており、後半生は画家として大作を作り続けてきたこと。フランス人ではなくチェコ人で、同胞であるスラヴ民族のための作品、独立した祖国チェコスロヴァキアのための作品を作り続けてきたことなどを知りました。デザイナーや画家としての顔だけでなく、コスモポリタンとしての顔、教師としての顔。知られていなかったミュシャの色んな顔を私たちは知ることができました。そして、今回レポートする企画展は「ミュシャの夢見たハーモニー」展。一体どんなミュシャを知ることができるのでしょうか?
■ただ美しい絵を描くだけでは満足しなかったミュシャ

▲「サロン・デ・サン」(画像:堺アルフォンス・ミュシャ館提供)
ミュシャを巡る旅へと向かいましょう。
JR阪和線「堺市」駅から連絡通路を歩き、タワーマンション内の商業施設スペースを抜け、公園の緑を横目に進むと堺アルフォンス・ミュシャ館があります。エレベーターで4階へ向かうと、ミュシャの世界が待っています。
企画展第一章のタイトルは「円のモチーフ」。
ミュシャの作品の中で頻繁に登場する「円」の意匠に注目したコーナーです。
最初に目を引くのは、やはりミュシャの出世作「ジスモンダ」。大女優サラ・ベルナールが主演を務めた演劇のポスターです。サラ演じるジスモンダの髪に花を挿した頭部は、すっぽりと半円の装飾の中におさまっています。展示されている他の作品にも目を移してみると、同じく縦長ポスターの「サマリアの女」などでは女性の背後を飾る装飾は完全な円になっています。この章で展示には女性の後背を守る「円」という構図の作品が数多く登場します。「円」は、ミュシャ作品に非常に多く登場する意匠であり、構図だということがよくわかります。
しかし、「円」はしだいにただの装飾に収まらない意味を持つようになります。何かを暗示し、ミュシャのメッセージが込められるようになっていきます。
たとえば「円」にこめられたメッセージのひとつは、スラヴ民族の「団結」です。後にミュシャは大作《スラヴ叙事詩》の制作のために故郷チェコに活動拠点を移し、チェコやスラヴ民族のための作品を書き続け、その中で「円」は団結のシンボルとして頻繁に登場します。

▲ミュシャの出世作「ジスモンダ」。
今回の企画展を担当した川口裕加子さんに、第一章の中でおすすめの作品をひとつ選んでいただいたところ、サロン・デ・サンのミュシャ初の大規模個展のポスターをあげられました。
「この作品は、装飾的でない暗示的な円をかきはじめた作品。初期と後期をつなぐ作品なのです」
チェコの民族衣装の刺繍を施したターバンを被った少女が持つカンヴァスには、それぞれ果物・花・茨で作られた輪が描かれています。この三つの輪は人生の複雑さを表していると言われています。
別の作品では、ミュシャの「円」はまた別の暗示を秘めることになります。
ミュシャは、当時の一般的なヨーロッパ人、チェコ人の常識として、キリスト教徒でした。それだけでなく、国や宗教、人種を超えた国際友愛団体フリーメーソンにも入会していました。キリスト教において、円は「イエス・キリスト」を暗示し、フリーメーソンでは円は「永遠」を暗示します。
こうしたキリスト教徒でありながら、それだけにおさまらないミュシャの宗教観を感じさせる作品群が、次の第二章「めざす場所 巨大な人物と向き合う人々」で紹介されます。

▲「ポエジー」は「巨大な人物に向き合う人々」を描いた初期の作品。
たとえば、イエス・キリストが弟子たちに教えた祈りの言葉をもとにミュシャが絵と装飾を手掛けて出版した書籍「主の祈り」。その表紙にはフリーメーソンの重要なシンボルである「三角形の中の眼」が描かれています。装飾デザインの中にも幾つもの「円」が登場します。キリスト教とフリーメーソンが融合した作品が、この「主の祈り」なのです。
ミュシャ自身は「主の祈り」について以下のような言葉を残しています。
「私はこの種の仕事(装飾デザイン)に真の満足を見いだせなかった。私は自分の道はもっと別の、いくぶん高いところにあると思った。私は、最も遠い隅にまで届く光を広げる手段を探し回っていた。長く探す必要はなかった。『主の祈り』である」
デザインがただデザインであるだけでなく、そこに暗示的にメッセージを込めるようになったのは、ミュシャにこんな思いがあったからでしょう。では、「円」以外のデザインはどうでしょうか?
「主の祈り」で描かれている7つの絵を並べて見ていくと、この章のタイトルにもなっている「巨大な人物と向き合う人々」の構図がたびたび登場します。

▲「主の祈り」(仏語版)表紙。三角形と目、円、巨大な人物など今回の展覧会で注目されているデザインが見える。(画像提供 堺アルフォンス・ミュシャ館)
展示の説明によると、ミュシャが、「巨大な人物と向き合う人々」という構図を描いた最初の作品は1894年に描いた「聖夜」だと推測されるそうです。今回の企画展には同時期の作品「ポエジー」が展示されています。この作品では、暗い色彩の中で描かれた巨大な人物、その人物から照らされているのか白い空間に跪く人物が描かれており、「聖夜」とは姉妹作品のようによく似ています。その後、ミュシャは「主の祈り」や、教会のステンドグラスなどキリスト教関係の作品でこの構図を多用します。では、この巨大な人物が、すなわちキリスト教におけるキリストや天使、聖母なのかというと、そうとも言いきれない作品も存在します。
この第二章での川口さんおすすめの作品である「『オ・カルチエ・ラタン』誌の表紙」を見て見ましょう。「カルチエ・ラタン」とはパリ市内の大学地区のことで、描かれている巨大な女性は、地母神キュベレや都市の擬人化で地区の群衆を見守っている存在のようです。この作品のように、ミュシャ作品のいくつかには、フリーメーソンが掲げる人類愛のような近代思想だけでなく、キリスト教以前のヨーロッパや異教の香りもどこかに漂っています。

▲「オ・カルチェ・ラタン」誌表紙。城壁を模した王冠を被るのは都市の守護神か、古代の地母神キュベレなのか。
この企画展の第一章と第二章は一つながりにして観ると、ミュシャの画業の軌跡が見えてきます。第一章では、装飾やデザインの世界に満足できなかったミュシャの志の萌芽が実は最初から彼の中に埋まっており、それが必然のようにして芽吹いていく様子がわかる構成になっていました。その芽がどこへ向かっていくのかを示唆しているのが第二章であるように思えます。ミュシャはより高く、そしてより深く、自らの芸術を追及していきます。キリスト教への信仰も、ミュシャの場合は枷でもなければ最終目標でもなく、ミュシャを偉大な芸術へと向かわせるための、土台であり道しるべとして機能したのではないかと思わせます。
■社会の調和を目指す人々と「ハーモニー」

▲「モナコ・モンテ=カルロ」(画像提供 堺アルフォンス・ミュシャ館)
そして続く第三章は、今回の企画展の白眉でしょう。これまでの要素に注目した作品紹介から趣を変えて、色彩論という切り口から、当時の社会と芸術の潮流を紹介し、ミュシャの芸術観のバックボーンに何があるのかを教えてくれるのが、第三章なのです。
第三章は、17世紀から18世紀にかけて活躍したイギリスの科学者アイザック・ニュートンの発見から話は始まります。解説によると、「アイザック・ニュートンは、太陽の光が虹のように7色の光線で成り立っていることを明らかにし、また光線の両端の色をつなげて円環にした。これが色相環(カラーサークル)である。「補色」はこの円の対極にある色のことである」そうです。
当時のヨーロッパは、産業革命後に大きく社会構造が変化し、貧困階層が増加し社会問題化していました。これを「調和」という概念で解決し、理想社会を目指そうとするアナーキストたちが登場します。このアナーキストに共鳴し、「補色」を使い「調和」という概念を芸術の世界でも展開したのが新印象派の人たちでした。
ミュシャは新印象派ではありませんでしたが、同じ時代に生きた芸術家としてミュシャにも独自の色彩理論や構図理論があり、それはミュシャの死後、息子のジリ・ミュシャによって出版された「アルフォンス・ミュシャ美術講義」によって私たちは知ることができます。
ミュシャ自身も、パリにおいてはチェコ出身の異国人でした。また祖国チェコやスラヴ民族はオーストリア=ハンガリー二重帝国やオスマン帝国などの巨大国家の支配下にありました。理想社会を目指すことは、ミュシャにとっても切実な問題だったことでしょう。再び、ミュシャの言葉を引用してみましょう。
「私は、限られたサロン派の人々のためではなく、一般の人のために芸術にたずさわっていることを、嬉しく思った。これは安値なので誰にでも求められる。裕福な人々にも貧しい人々にも、共に求められるのだ。
私は金持ちの手にとどくだけでなく、一般の人々にも近づきたかったのだ。」
これは、デザイナーとして手に入りやすいポスターなどを手掛けていたことに対する言葉ですが、ミュシャがどういう思いで芸術に取り組んでいたのかがよくわかる言葉ではないでしょうか。

▲人気の高い「四季」。ミュシャの美しい色彩と構図を楽しめる。
第三章ではそうした社会背景やミュシャのデザイン理論を紹介しながら、ミュシャが「補色」を意識していたことが伺える作品群を展示しています。
第三章で川口さんがおすすめする作品は、「モナコ=モンテ・カルロ」です。ミュシャが考える調和した色彩と構図がよくわかる作品だからとのこと。
この作品はモンテ・カルロへの旅をいざなう鉄道会社の広告ポスターで、第一章で取り上げた円が多様されており、植物のつると合わせて車輪や線路をイメージさせています。絵の中にメタファーを込めるのは、ミュシャの得意技。本人の思いはどうあれ、ミュシャが優れたコマーシャルデザイナーであることを教えてくれる作品です。
ここで、またもそんなミュシャの本心が吐露されてる言葉紹介しましょう。
「美術の目的は美を讃えることである。では、美とは何だろうか。
美とは道徳的な調和が物質的・身体的な次元へと投影されたものである。
道徳的な次元において、美は精神の発達に働きかけ、
物質的な次元においては、魂に到達する表現手段を通じて感覚の洗練に働きかける。」

▲「ハーモニー」(画像提供 堺アルフォンス・ミュシャ館)
そんなミュシャの思いをしり、第一章から第三章までを見てきた私たちは、第四章で大作「ハーモニー」と出会います。
「ハーモニー」はもともとは、エルサレムに建設を予定していた教会の礼拝堂のためのステンドグラスのデザインとして、「百合の中の聖母」と共に制作されようとした作品です。結局教会の建設は中止となり、その後劇場を飾る作品として再構成して制作されるも結局は採用されず、そうした紆余曲折を経て、堺へとやってくることになります。
ミュシャの作品の中での位置づけとしては、商業デザイナーとして売れっ子だったミュシャが、宗教画家としても認められるようになった時期の作品で、その後スラヴ民族や祖国チェコのための作品を書き続ける後期へとつながっていきます。横幅で4mを超える大作であり、画面の中には様々な要素が詰め込まれています。いくつもある円の構図、巨大な人物に向き合う人々の構図、補色を使った色彩。これまで見てきたものが昇華された作品が「ハーモニー」という作品であると、私たちは気づきます。
川口さんの推しも、もちろんこの「ハーモニー」です。
「ハーモニーは、すごく大きなサイズの作品とういこともありますが、ミュシャのパリ時代の華やかなポスターから、《スラヴ叙事詩》へとつながる過渡期の作品であり、ミュシャの画業の軌跡を知る腕、非常に重要な作品です。一方で、すごく謎めいた作品で、教会のステンドグラスのデザインとして作られ、それが駄目になって、劇場の舞台の上の部分を飾るものとして転用されたということはわかっているのですが、ではなぜミュシャが劇場を飾るのにこのハーモニーにしたのかといった過程について全くわからないのです」
株式会社ドイの創業者、故土居君雄氏が収集し寄贈した、堺アルフォンス・ミュシャ館にあるミュシャコレクションは、世界最大級といわれていますが、ただ作品だけがあり、資料的なものが無いのだそうです。また、チェコ本国でも世界的にもミュシャ研究が進んでいるわけではない。そういう点では、ミュシャは不遇の芸術家であり、その不遇を解消するために堺アルフォンス・ミュシャ館が果たすべき役割も大きいのではないかと思うのです。
川口さんは言います。
「ハーモニーという作品は、大きなサイズの絵で、色々描かれていますし、お客様にも人気があります。壮大なテーマというのは、見てわかるものですし、子供も含めて、何か惹きつけられる作品です。しかし、一体どういう作品なのかはよくわからない。私も少しでもこの作品のことが分かればと思って、色々と調べました。結論としては、今の段階では決定的なことはわかりません。ただ、19世紀のフランス、特にパリの同じ時代、同じ場所で活躍していた印象主義やアナーキストの人たちも社会の調和を求めて格闘していたということがあるので、同時代的なかかわりがあるのではないかということで、この企画展を企画しました」
そこで見えてきたのは、デザイナーやキリスト教徒、愛国者という枠に収まりきらないミュシャの姿でした。

▲「民衆美術協会」(画像提供 堺アルフォンス・ミュシャ館)
「新印象主義はわりとアナーキスト寄りというか、社会改善を目的に絵画で表現するというところがあって、労働者が頑張っているところを描いたりしています。ただ、ミュシャはパリにおいては外国人なので、フランス社会の調和のために、というのはしっくり来ないんですね。ミュシャ自身の言葉でも言っているように、お金持ちのためだけでなく、大衆のための芸術家でありたいということを言っています。フランスに限らず、自分の故郷のチェコやスラヴ人もそうですし、広く人々のために貢献したいという思いがすごくあったことは、息子さんの本を見ては強く感じますね。フリーメーソンも、広く人類の向上を目的としていますしね」
第五章では、こうしたミュシャが大衆のための芸術家であろうとした思想をよく体現した作品が取り上げられています。第一章からの流れで第四章で大作「ハーモニー」と向き合った私たちが、その余韻に浸ることができるのが、この第五章といえるかもしれません。
小さな作品やポスターであっても、ミュシャの美術理論や思想が詰め込まれていることを感じることができる素晴らしい作品の数々です。

▲「第8回ソコル祭」(画像提供 堺アルフォンス・ミュシャ館)
ミュシャの作品は絵画としては、当時は時代遅れとされ、現在のチェコでも知名度は高くないようです。しかし、流行り廃りとは関係ない時代を超越した広く深いメッセージを持つのがミュシャの作品であることを今回の企画展は教えてくれます。
おりしも堺市では、新ミュージアム構想がたちあがり、堺市博物館や堺アルフォンス・ミュシャ館も含めた再編が始まろうとしています。この素晴らしいミュシャの作品が、より素晴らしい環境と、専門家である学芸員の方々に囲まれて、市民に楽しんでもらえるようになることを願わずにはいられません。
関心のある方は、2026年4月18日まで堺市が意見を募集しておりますので、意見をおくられてはいかがでしょうか?
堺アルフォンス・ミュシャ館