松本慶彦選手インタビュー 日本製鉄堺ブレイザーズ退団によせて

 

 

日本製鉄堺ブレイザーズファンにとって、衝撃的なニュースが届いたのは、2024-25シーズンのホーム最終戦を前にしてのことだった。少なくない選手たちの退団や引退が同時に発表されたのだ。チームの中軸として活躍してきたキャプテンでセッターの山口頌平選手や、リーグでも屈指の破壊力を持つシャロン・バーノンエバンズ選手らの退団は、来シーズンはまったく新しいチームに生まれ変わることを意味していた。そうした選手たちの去就とは、少々違った色合いの驚きを与えたのは、松本慶彦選手の動向だろう。

44才という年齢は、チーム最年長はもちろんのこと、リーグでも最年長。プロスポーツトップリーグの現役選手としても、異例の長寿、ましてや現役期間が決して長くないバレーボールであればなおのこと。近年は、コーチ兼任選手だったこともあり、多くのファンは現役続行か、選手は引退してコーチ専任のどちらを選ぶのかで、気をもんでいたのではないだろうか? しかし、松本選手の選んだ決断は、どちらでもない日本製鉄堺ブレイザーズを退団。現役続行というものだった。

決断の背景には何があったのか、4月中旬、クラブハウスにて松本選手に話を伺った。

 

 

■退団という決断

 

――まず現役は続行、チームは退団という決断はいつごろされたのですか?

松本「いつぐらいだろう。リーグが新しくSVリーグになってルールが変更になったんですね。以前は、次のシーズンどうするかって話が、毎年黒鷲旗までやって、その後にという話の流れなんですけど、それがだいぶ前倒しで早い時期に決めるか、ある程度方向性を決めなきゃいけないというルールになったんです。次どうするかっていう話は、選手兼コーチになってからも、ずっと(日本製鉄堺)ブレイザーズさんとはしてきてはいました。自分の立ち位置としては、ユニフォームを脱ぐこととかも考えながらの話ではあったんですけれど、最終的には色々なことを考えた答えが、現役続行というか、選手兼コーチを続行というところです」

――コーチ一本とかは、やはり選択肢はなかったんですか?

松本「コーチ一本という選択肢はまだ少しなくて、かといって中途半端は良くないなとは思ったんです。その辺りもどうかなっていう話ではあったんですけれど」

――松本選手の中でも、まだ自分は選手としてできるという思いがあったんですか?

松本「正直、自分がもっとパフォーマンスが出せていた年齢に比べたら、もちろん今はできないというのはわかっているんです。その中でもこの年齢に抗いながら、若い選手と同じポジションで、ポジション争いをすることで、バレーボールに対する向き合い方を学ぶことができる。今の世代の子たちと、ちょっと違うところがあるので、そういったことも自分としては学んでいるつもりで選手を見ています。どういう考え方やモチベーションでバレーボールに向き合っているのか、そういうところも感じながらやるのも、今後の自分にプラスになるんじゃないかなという思いはもちつつやっていました」

――むしろ若い世代から、松本選手が学ぶことが大きい。

 

▲2024-25シーズン、ホーム最終戦での退団セレモニー。

 

松本「大きいですね。やはり昔は、……昔はという言い方が今はあまりよくないですね(笑) 一番自分の中で気を付けていることではあるんですが、(日本製鉄堺)ブレイザーズさんもすごい歴史があって、優勝回数もすごく多いチームで、僕も移籍してきて何回か優勝の経験をさせてもらったんですけれど、その時のものをそのまま今やってもなかなかできません。もちろん評価されるものはたくさんあると思うんですけれど、変えなきゃいけないところをどう変えたらいいんだろうなっていうのは、常に考えながらやっていたっていう感じですかね」

――日本製鉄堺ブレイザーズからは、やはりもうコーチになってくれとか、そんな感じだったんですか?

松本「もちろんそういう話もありました。一番最初は、いつだろうな? かなり前じゃないですか。そろそろどうかっていうのは、多分30越えたぐらいの時でしたね。大体バレーボールって大体30前後ですからね(選手を引退するのは)」

――ですね。長くても30後半という人が稀にいらっしゃるぐらいで。

松本「そうです。だから大体、その辺りで引退を考えるか、次のステップを考える選手が多いと思うんです。もちろん社会人スポーツというのもあるんですけれど、その中でも現役にこだわっていたというのは、……当初は今ぐらいまでやるっていうモチベーションではやってなくて、1年1年力尽きるまでやろうというのを目指していたんですけれど……その中で、選手兼コーチていう風になると、どうしても引退間近とか自然にフェードアウトしていくという流れになってしまうので、選手兼コーチの肩書はどうしてもつけたくないですって、チームにはすごい言ってました。なんとか選手でやらせてくださいっていうのを、すごいやらせていただいたっていうところが結構大きいのはあるのですが、成長をずっと続けられてきた要因の一つではあると思います」

――松本選手は、数値的なものでいっても、たとえば最高到達点はあまり落ちずにいますよね。まだ350ぐらいはありましたよね。

松本「そうですね。徐々に落ちてはいますけど。今シーズンの測定では350には届いてなくて、結構大きい捻挫をちょっとしてしまってからは、350までは届いていません。自分の中では最低ラインを引きつつ、そこはなんとか目指して、できればいいかなというのは常に考えています」

 

▲ここぞという時に決めてくれる松本選手は頼もしかった。(2020年12月6日、Vs大分三好ヴァイセアドラー戦より)

 

――今回の決断をされて、家族やチーム、あるいはファンの反応はどうでしたか?

松本「もちろんすごい言いづらかったです。やはり在籍期間が17年にもなるんで、自分の中でもすごい迷いもありました。チームに伝える時も、言葉に詰まりながら話をさせてもらいました。ファンの方からも、まさか退団するとはという声はききました」

――ご家族はどうでした? 息子さんもバレーボールをされてましたよね。

松本「やらないと思ってましたが、結局バレーボールやりましたね。息子は、別に特に何も。何の反応もないですね(笑)」

――今の段階で、次のチームについては、決まっていることってあるんですか?

松本「まだ契約には至ってないんですが、お話しはいただいています」

――では、来シーズンも松本選手のユニフォーム姿は見られそうですね。では、もう少し長いスパンで見た時に、松本選手の今後のバレーボール人生には、どんなイメージがあるのでしょうか?

松本「形としては、フルに試合に出ていくというのは、おそらく難しいと思うんで、土日のどっちかだったり、単発でもいいんであれば、そういったところでやっていければなと思っています」

 

 

――先ほどお話しにもありましたが、SVリーグになってルールが変わり、バレーボーラーの人生設計がかなり変わってくるのではと思いました。例えばサッカー選手もJリーグができて、J2、J3ができたことで、キャリアの幅が広がりました。地域リーグやアジアリーグにいって、また戻ってくるとか多様になったと感じます。

松本「僕自身は、ずっと現役にフォーカスしてきたのですが、今はある程度コーチングにも興味をもって、少しそういった方にも目を向けています。全体に目を向けると、完全にプロという風になってくると、各選手のセカンドキャリアについてもある程度考えて、契約していかなきゃいけないっていうのもあります。代表に入る選手とかは、ある程度いい契約は出来たり、今後にもつなげていきやすいとは思うんですけれど、そうじゃない人たちも沢山いるので、色んな選手がプロでやっていきたいという風に、もう少し広い受け皿を作れていければいいんじゃないかなとは思います。どうしても代表には、そう何人も何人も入れるわけじゃない。輝かしい道を歩んでいけない人は多い。代表に入る人たちも、大変なプレッシャーとか、色んなところで闘って素晴らしい結果を出しているとは思うんですけれど、そこに行きつくまでに怪我をする人だっている。それで簡単にじゃあやめるかといって諦めて、どんどんバレーボールをやる人が減っていくのが一番懸念される部分です。そういうのはなるべくないような環境にはしていきたいので、少しでもそういうことに貢献できればと思います」

――松本選手がこれから切り拓いていくキャリアがあって、それを追う人や参考にする人が出てくれば……

松本「出てきてくれたらいいかなと思います」

 

■堺の思い出は?

▲17年間在籍という偉大なる記録を刻んで、松本選手が堺を去る。

 

――話題を堺のことにしたいのですが、2008年に堺ブレイザーズに来られた経緯はどのようなものだったんですか?

松本「その時は、僕のバレーボール人生の中でも、やめるというか、もういいかって思う時と、もう少し頑張ろうっていう波があって、丁度沈みかけた時だったんですね」

――そんな時に、堺ブレイザーズから話がきたんですか?

松本「どうだったかなぁ。はじめは何回か断ったんですよ。2回ぐらいは断ったような気がするんですけれど、ちょっと話だけでもいいからっていうので、じゃあ話だけならっていう。そこからがきっかけです」

――このチームに惹かれた理由はなんだったんですか?

松本「僕は元々NECブルーロケッツ、関東のチームだったんですけれど、今の堺ブレイザーズのイメージと全く違う色のチームだったので、違うチームに行くことによって、得るものがあるんじゃないかという思いがあって入ったというのもありますね」

――その時に、これがやれるんじゃないかなとか、成長できるのかなというのは、結局どうでしたか? 17年間在籍して、思い描いた目標などは達成できましたか?

松本「それはもう、もちろん沢山ありましたね。自分がこれがベストだと思っていたプレーも、そうじゃないということをたくさん学べて、優勝も何回かできました。プレーもそうですし、チーム作りのやり方なども、すごく学んだんじゃないかなと思いますね」

――例えばプレー面でいえば、最大成長したなっていうのは、どういうところですか?

松本「そうですね。やはりブロックの部分ですね。あんまり得意じゃないので。僕は元々サイドブロッカーで、スピードで飛ぶのは結構まだいいと思うんですけれど、ミドルブロックが真ん中で動くっていうのは、どうしてもなかなかうまくできなかったんですけれど、それを当時ブロックの強いチームで当時いた選手から結構学べたかなと思います」

 

▲松本選手はスパイク賞を3度、ベスト6を2度受賞。スパイクの印象が強いですが、堺にきてブロックが強化されたとのこと。(2023年10月28日、Vsウルフドッグス名古屋戦より)

 

 

――今までの在籍期間で一番の思い出といえば?

松本「優勝かなぁ。優勝とは思うんですけれど、でも思い出に残っている試合はたくさんあって、これってなかなか絞れないぐらいあります。勝ったのもそうですし、負けた試合もありますし。ただ、いい思い出としては、優勝した時は良かったと思いますね。なかなかトップリーグでトップになることはないですからね」

――では、在籍して一緒にプレーした中で、一番印象に残る選手をあげるとしたら?

松本「一緒かぁ。いっぱいいます。いや、いますね。だって、チームでいったら、5世代ぐらい変わってるんじゃないですか。いやもっとか。監督でさえ、5人? 6人? もうこの人とかは本当にないっすね。みんなです」

――じゃあ、コンビでやっていて、やりやすかったセッターや同じブロッカーとかなら?

松本「コンビはそうですね。個人賞をとった時で、NECブルーロケッツにいた時にトスをあげていた宇佐美さんと、堺ブレイザーズでは……あいつは今どこにいましたっけ、女子でしたっけ、NECでしたっけ、今村駿。NECはやめたんだっけな。あと、引退しましたけど、佐川翔。個人的にも結果を出せていたのは、コンビネーションの部分でも良かったなと思いますね。打ちやすいというか、僕の打てるトスを供給してくれました」

 

▲2014-15シーズン、松本選手がスパイク賞を受賞したシーズンのメンバー。(2014年12月21日、Vsサントリーサンバーズ戦より)

 

――なるほど、松本選手のことをよく理解してくれていたという感じなんですね。では、この堺という町に来られて、過ごした思い出といえば何かありますか?

松本「やはり近くに古墳があることですね。世界遺産にもなりました。学校で勉強して、資料でしか見たことがない大きな古墳がすぐそばにあったこと。それと昔、代表の合宿では、結構ここ(日本製鉄堺体育館)を使っていました。僕らのころは、東京のナショナルトレーニングセンターができるかできないかぐらいで、できたらもちろん利用もしていたんですけれど、サントリーさんだったり、ここだったり、大阪が意外と多くて、移籍してくる前から何回か来ていて、ある程度は知ってはいました。町としては、刃物とかの製造業が盛んで有名なのはすごいなとは思います。歴史がある町だなというのは感じましたけど、あとパレードがあるじゃないですか?」

――堺まつりの大パレードですね。

松本「試合が始まってからとか、タイミングがちょっと合わなくて行けてなかったんですけれど、参加できた時は良かったですね。代表に行ってた時は、合流に遅れたりして、ああいうイベントには出られなかったりしたんですけれど、代表にいかなくなって、チームのイベントだったりに結構参加し始めたので、よりこの町を知るようにはなりました」

 

■日々の目標を追って、トレーニングを習慣化したからの今

▲日々のたゆまぬ努力が積み重なって、驚異的な身体能力を長年維持し続けてきた。(2020年12月5日、Vs大分三好ヴァイセアドラー戦より)

 

 

――また、松本選手の個人的なお話しに戻るんですが、松本選手の活躍を若い世代や子どもたちの参考にしていただきたいと思うのですが、長く続けてきた秘訣はなんでしょうか?

松本「さっきも少し話にあったのですが、長期的な目標も大事だとは思うのですが、短いスパンで一個一個の目標というのは、やはり大事だと思っています。トレーニングなどを、日々習慣化をできたことが大きかったと思います。一般の方が、会社に行って、ちょっとした時間にトレーニングをするという生活なら、最初はしんどいと思うんです。それをだんだん動かさないと気持ち悪いぐらいというところまで習慣付けできたら、多分逆にやめられなくなる。そういう所まで習慣付けできたらいいと思います」

――本当にずっと日々トレーニング、体を動かすという現役生活なんですね。

松本「そうですね。逆に動かさないと動けなくなるんじゃないかっていう。多分他のスポーツのアスリートの人たちも、年を取ってきたら感じることでしょう。そのこととの闘いになっていると思います。そういう不安と闘いながらという」

――振り返ってみて、あれが良かったなとか、逆にもっとやっておけば良かったなとかはありますか? 高校時代とか中学時代とかでも。

松本「今のところはあまりないですけれど、これからはあるかもしれないですね。大きな失敗というのは、今まだそんなになくて、上手くしているんじゃないかなと勝手に思っていますけれど。ところどころではありましたね。高校、社会人になって、プロ契約してやっている時に、もっと学生の時に、もう少しこういうトレーニングをしておけば良かったなと、最初は思いました。でも、やはり長く続けた今、それを振り返ると、いやそこまでやってなくて逆に良かったんじゃないかなという風に思ったりすることもあります。その時々で変っている感じはあります。だから、現時点ではあまり思いつかないですね」

――オーバートレーニングにならずによかったな、ということでしょうか?

松本「そうですね。そういうことは、ちょっとあったかなと思います」

 

▲「自分は選手として成長途上だ」。インタビュー中の松本選手の発言は、まるでルーキー選手のようだと思うこともしばしばでした。(2023年10月28日、Vsウルフドッグス名古屋戦より)

 

――では、今小中高の若い子でもバレーボールに熱心な子も多いと思うのですが、その人たちにアドバイスを送るとしたら?

松本「いろんなものにトライしてほしいなと思います。もちろんバレーボールもいいと思うんですけれど、他の競技とかもです。結構、自分が相手と勝負して楽しいというところがあるものを、どんどんやってほしいかな。それで、最終的にバレーボールに戻ってきて欲しい。もちろん、その競技一本でやるのもいいこともあると思うんですけれど、チーム競技、団体競技、個人競技と色んな競技がある中で、色んなことを経験した方がいいと思うんです。チームプレイのいいところ、悪いところ、個人競技のいいところ、悪いところ。たくさん経験した方が、後に役に立つんじゃないかな。球技だったり、球技じゃなかったりも」

――松本選手は、バレーボール以外だと何かスポーツはされてきました?

松本「元々スキー、アルペンのスキーをしていました。地元がスキー場が近かったので。スキーや野球も、小学生の時はクラブで野球部に入っていて、バスケットボールもかなり好きでした。バレーボールは小学校までは全くやってなかったですね。色々やって最終的にバレーボールになりましたね」

――スポーツ以外の部分だと、松本選手がやって良かったなということは?

松本「バレーボール以外だったら何もないですね。バレーボール、バレーボール。もう体を動かすことは元々好きだったので、そこに特化した感じでしたね」

――オフの趣味的なものや、リフレッシュはどうしているんですか?

松本「趣味もあんまりないですね。リフレッシュは、その時にやりたいことをやるんですけれど、どっちかというと、もう結構休みたい。体も心も休めるというところで、インドア派なのかな? 家にはすごいいるし、外出もしますけれど、基本はインドアです。Netfixで映画を見たり、音楽を聴いたり、昔ちょっと流行ってたドラマをまとめてみたりします。ドラマはまとめてみたい方なんです。1週間待てない。最近みたのはVIVANT」

――何年か前に流行ったドラマですね。流行りには乗らないんですね。

松本「乗らない。本当に乗らないですね」

 

■まっちゃんからのメッセージ

▲退団セレモニーでの「まっちゃん」コールに手拍子で応える。

 

――では、最後に松本選手からメッセージをいただきたいです。日本製鉄堺ブレイザーズに対してと、ファンの皆さんに対してお願いします。

松本「まず堺ブレイザーズは、歴史あるチームで、近年は優勝から遠ざかっていて、僕自身も、前回優勝した時から、どっかでいいから1回でも今いる選手に、一緒に優勝の喜びを分かち合えたら、後輩にその思いとか優勝する大変さを伝えられたんじゃないかというのは思っていて、僕の唯一の後悔というか、してあげられなかったことに悔いは残っています。優勝する力はあるチームだとは思いますが、とは言ってもなかなか簡単にはできないので、しっかりみんなの力で、絶対優勝できると思うので、成し遂げて欲しいと思います」

――ファンも本当に優勝を待ち望んでいます。

松本「ファンの方には、本当に長い期間応援していただいて、本当に嬉しく思います。当初、2008年に来た時に、代表で見てましたって言っていた子どもたちが、もう大人になっていたりします。そのお母さんもまたいる世代もいて、一家で応援していただいているファンの方もたくさんいるので、このチームを離れるのは寂しい思いも僕自身あるんですけれど、バレーボールを終わって引退するわけではないので、また違う形でお会いすることも多分あると思うのですけれど、変らずにバレーボールを応援してくださいということを伝えたいですね」

――また別チームで、堺の会場に来られる可能性ももちろんありますよね。その時はどうですか、ファンの方にどうしてほしいとかはありますか? むしろブーイングしろよ、みたいなのとかは?

松本「それはもちろんありっていうか(笑) 嬉しいブーイングになると思うんです。もうそこも色んな形があると思います。応援でもブーイングでも、もういいので」

――それは、まっちゃんやからっていう感じですね。そういえば、松本選手だけ、『まっちゃん』っていう応援コールでしたね。

松本「あれも、当初の今とは違う応援スタイルが、僕だけ名残が残っているからなんですよね。だから、まっちゃんが一番親しみがあって、一番しっくりくるんじゃないかなと思います」

 

ベテランならではの言葉と同じぐらいに、ルーキーさながら成長途上の現役選手としての思考や意欲が見て取れたインタビューでした。「ブレイザーズ」の象徴のような選手だっただけに退団は驚きでしたが、どうやら私たちは来シーズンも現役の松本選手とコートの上で会うことができそうです。来シーズンの楽しみが一つ増えましたね。

 

日本製鉄堺ブレイザーズ

https://www.blazers.gr.jp/web/

 

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