堺事件〜150年の時を越えて〜(1)

 

堺の妙國寺といえば、織田信長を恐れさせ、今も境内にそびえ立つ「夜泣きの蘇鉄」で知られる由緒ある名刹です。その妙國寺で、2022年2月23日、第5回「堺事件-平和を築くための国際理解講座」が開催されました。

「堺事件」とは何か。それは、慶應4年(1868年)2月15日(旧暦)、堺港において堺を警備する土佐藩士とフランス兵の間で銃撃戦が行われ、フランス側が11名死亡・5名負傷となり、その責を負って土佐藩士11名が妙國寺で切腹したというもの。堺の人なら、地元の歴史としてどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか。

「堺事件」が語られる際には、堺に上陸したフランス兵が市民に狼藉を働き、駆けつけた土佐藩士が戦い死傷者がでた。堺を守ったにもかかわらず土佐藩士は切腹させられてしまった……そんなイメージで伝えられることが多かったのではないでしょうか。しかし、どうもそのイメージは、史実とは違っているようです。

このイベントの様子とともに、堺事件の真相に迫っていくことにしましょう。

 

■堺事件より150年の思い

 

▲150年の時の狭間を埋める思いを語られる岡田日聡妙國寺貫首。

 

妙國寺は、戦国時代に堺幕府を開いたとされる三好一族の三好実休の寄進をきっかけに、彼の死後1568年に開基した日蓮宗の寺院です。このお寺の境内で、土佐藩士達は切腹したのです。

講演に先駆けて本堂では、岡部日聡妙國寺貫首による法要が執り行われました。法要には、永藤堺市長や藩士たちの地元である高知県からも来賓があり、メディアのテレビカメラも入るなど盛況でした。

読経の間に、菩提を弔う言上がなされたのですが、切腹した11人の藩士だけでなく、切腹寸前で執行が取りやめになった9名の藩士、そして犠牲になった11人のフランス兵の名前も言上され、法名や名前を記した卒塔婆も掲げられてもいました。日本側、フランス側どちらかに偏るわけでなく、この31名全員を悼む対象としている所に、この法要と講座の意志が明確に込められているようでした。

 

▲法要で供養されていた土佐烈士たちの卒塔婆。

 

岡部貫首は、マイクの前に立ち、参加者に以下のように語りました。

「今から5年前におつとめで境内を掃除している時に、来年は堺事件から150年の年になる。70年、100年の時には何かをさせてもらったのに、今回は誰も何も言ってこない。それで、堺観光ボランティア協会の呉竹さんに、堺事件の法要をしたいと相談したのがはじまりです」

以来、毎年法要と国際理解講座を開き、今年で5回目になります。

「堺事件は、悲しい事件です。三ノ宮事件(神戸事件)がその一月前にありました。堺では伝令の不備などもあり、フランスの水兵11名が犠牲になった。五代友厚が骨を折りましたけれど、土佐の侍20名が罪に問われ、当山の境内で(20名中11名が)処刑となりました。なぜこんな悲しいことになったのか。いろんな文化の違いがあった。イギリスやアメリカとは比較的話がついても、フランス語ができる人間がほぼいなかった事もあったでしょう。21世紀になって、ロシアが言いたいことを言ってますが、日本も言いたいことを言ってもいいのではと思います。国連が出来る前から隣国の土地はロシアの土地なのだというのなら、日本も北方四島返してくれよと思います」

丁度、2月23日はロシアが暴発し侵攻が始まったばかりでした。

「堺市は、平和宣言都市です。平和構築、国際理解を進める都市になってほしい。私たちが若い人に伝えないと平和構築・国際理解は次の世代に伝わらない。今日は色々なプログラムがありますが、それを皆様がどう感じるか。150年でもういいじゃないかという人もいますが、私たちの責務としてこの悲しい事件を伝えていきたいのです」

 

▲土佐烈士だけでなく、犠牲となったフランス水兵たちの卒塔婆も供養されていた。

 

堺事件から150年たち、21世紀になっても世界は同様の悲劇にあふれ、戦争は止みません。岡部貫首ならずとも、堺事件の悲劇の記憶を次世代に受け継いでいきたいと思う方は少なくないからこそ、堺事件を語り継ぐ会が出来たのでしょう。

では、堺事件とはどんな事件だったのか、もう少し詳細に見てみましょう。

 

 

■江戸から明治へ。責任者不在の混沌状況

 

堺事件は森鴎外が事件より半世紀近く、大正時代になって記した小説『堺事件』(1914年)によって知られるようになりました。しかし、そこからさらに70年以上たち、歪曲されて描かれているとして、作家大岡昇平が丹念に資料を調べて『堺港攘夷始末』を刊行しました。

以下、『堺港攘夷始末』をもとに、事件を整理してみます。

 

 

▲妙國寺の門前にある土佐十一烈士の石碑。なお建立したのは堺能楽会館の館主大澤徳平さんの祖父。

 

 

まず、堺事件が起きた慶応4年2月(旧暦)の堺とはどのような状況下にあったのかというと、前年には大政奉還・王政復古の大号令があり、堺事件の1ヶ月半前の1月3日に幕府軍と薩長連合の官軍が激突する鳥羽伏見の戦いが起きています。1月6日には、将軍徳川慶喜が大坂城から脱出し、幕府側の役人たちも大阪・堺から逃げ出しています。このため、官軍は引継無しで、大坂・堺の民政・軍政を担当することになったのです。

堺の統治は江戸時代を通じて、大坂奉行から独立した堺奉行が担っていたのですが、前年に大坂奉行に統一されていました。このことを堺を担当することになった土佐藩の軍監府知らず、大坂から独立したままだと思っていました。この勘違いは堺事件を生む行き違いの伏線となります。

 

土佐藩自体も問題を抱えていました。土佐藩前藩主で実質的な指導者山内容堂は、幕府との戦いをあくまで薩長と徳川の私戦にしておきたかったのに、部下らが鳥羽伏見の戦いに参戦するとそのまま尻馬に乗る煮え切らない態度でした。

鳥羽伏見の戦いに参加した箕浦猪之吉を隊長とする土佐藩六番隊は、そのまま大坂へ下り、1月12日に堺に着任しています。

この箕浦隊長はもともと儒学者として山内容堂に仕えた攘夷思想の持ち主で、非常に鬱屈した気持ちを抱えていました。天皇を神輿に担ぐ官軍は尊皇攘夷を掲げ、幕府は外国に対して弱腰であると責め立てていたわけですが、いざ実権を握りはじめると攘夷姿勢は急速にしぼんでいきます。1月11日には、備前藩兵が行列を横切った外国人3名を負傷させる「神戸事件」が起きますが、官軍の対外姿勢は幕府と同じような弱腰で、箕浦達を満足させるものではなかったのです。

 

日本有数の大都市堺を守護する六番隊の人数はわずか40名前後だったと思われます。2月8日になって西村佐平次率いる八番隊が合流し戦力は倍増しますが、そうはいっても総員70名ほどだったそうで、心許ない戦力だったことでしょう。

そして、この翌日の2月9日、神戸事件の責任をとって、備前藩の瀧善三郎が切腹しています。

 

▲現在の旧堺港。向かって左手の大浜公園は、もともと砲台を備えた要塞(台場)として幕末き築かれた。フランス艦隊は、大阪近郊の良港を求め堺港の調査を行っていた。

 

一方、事件のもう一方の当事者であるフランス海軍はどんな状況に置かれていたのでしょうか?

まず前年の12月に大坂でアメリカ艦隊に水難事故があり、ベル提督以下の水兵が水死しています。大坂の門前にある安治川の河口には砂州が隠れており、大阪へ上陸するには危険が伴っていました。日本に駐留する外国艦隊にとって大阪湾で大坂に変わる安全な港を見つけることはどうしても必要な事でした。その中で、最も有力な候補は堺だったのです。何しろ、堺は外国人遊歩地にぎりぎり含まれていました。

丁度、その頃フランスのトップも妙な状況でした。任期を終えた大使ロッシュは、幕府側に肩入れしており、前任者にもかかわらず何やら妙な動きを見せており、江戸と大阪を頻繁に行き来していました。艦隊のトップである艦隊司令官オイエは香港に向かって日本を離れており、責任者が不在、あるいは命令系統が曖昧になっていたのだと思われます。上役がいなくなって、気が緩んでいたのかもしれません。フランス海軍のヴェニス号艦長ロアと兵庫副領事ヴィヨーは堺への視察を計画します。

彼らの計画では二人は陸路大坂から堺へ向かい、一方デュプレックス号を測量のために堺沖に派遣。堺市内を視察した後、デュプレックス号のボートに堺港まで迎えに来てもらって合流し、海路戻るというものでした。

2月14日、ロアとヴィヨーは大坂外国事務掛に堺遊歩届けを出し、翌15日宇和島藩士の案内とともに大坂を朝8時に出立して堺へ向かいます。フランス側に手続き上の問題はなかったと言って良さそうです。ただ不幸なことに、堺を守護する土佐藩は責任者の観察杉紀平太以下、堺の民政軍政が大坂に移管された事を知らず自分達に独立した権限があり、かつ堺を外国人遊歩地外だと認識していたのです。

 

 

■その時、何が起きたのか?

 

▲大和川の大阪側。大和橋北詰の現在の様子。ここでロアたちの前に土佐藩士が立ち塞がった。橋のたもとに大和橋之碑があるが、堺事件のことについては触れられていない。

 

 

大坂から紀州街道を下り、大和川にかかる大和橋に至ったロア達一行は橋を守護する土佐藩士たちに行手を塞がれます。大監察杉以下、六番隊隊長箕浦、八番隊隊長西村の両隊長が15名ほどの隊士を引き連れていたようです。ロア達が届けを出し許可を得ていると言っても話は通じません。宇和島藩士たちが取り次いだのですから、言語の違いによる行き違いとはいえないでしょう。

土佐藩士らにとって、堺を管轄するのは自分達であり、外国人立ち入り禁止のエリアなのですから、無茶を言ってるのはフランス人達の方で自分達に非はありません。1時間もの押し問答の末、ロア達は来た道を大坂に引き返さざるをえませんでした。

 

ロア達が引き返したのなら、殺傷事件など起きなかったはずでは? しかし、前述した通り、ほんの指呼の距離である堺港に向かうフランス人の一団がいました。堺港を測量し、そのついでにロア達をピックアップして帰船する予定だったデュプレックス号の水兵たちです。

 

▲旧堺港から堺駅の南側を通る水路。画面奥のアーチのある橋(勇橋)の向こうはT字になっており、南北に走る水路=環濠となっており、栄橋はその環濠に東西に架かる橋。フランス水兵たちはこの辺りまで測量している。

 

 

残された記録を見ると、水兵たちは湾外だけでなく、堺港の奥深く、市内に引き込まれている水路(環濠)、今の南海本線堺駅を超えた辺りまで入り込んで測量しています。さすがにこの行為はやりすぎで、土佐藩士を刺激したかもしれません。特に箕浦のような攘夷家にとっては、挑発的な行為に映ったかもしれません。

水兵達は、ロア達をピックアップするため堺港に上陸し、6名が有名な旭茶屋で1時間ばかり休息したという記録があります。旭茶屋は茶屋といっても、塀を回らしたしっかりした建物でした。堺の住人達はフランス人が物珍しくて見物に訪れるばかりか果物や菓子を渡し、フランス兵側も子供達に対して携帯していたパンやサンドイッチを渡しており、友好的な様子だったことが伺えます。

 

▲環濠沿いの、フランス水兵たちが上陸した旭茶屋があったと思われる辺りには堺事件の顕彰碑が建っている。

 

 

ロア達との約束は15時でした。しかし、ロア達はいっこうに現れません。

当然です。ロア達は土佐藩士達によって追い返されていたのですから。

大和橋でロア達を追い返した土佐藩士達は、堺市民からの通報を受け、フランス水兵の上陸を知ります。果たして追い返したフランス兵がまた来たと思ったのか、おそらく宇和島藩士から迎えの事も聞いているはずだから、ロア達の主張が正しかったことに気づき、「自信を失ったはずである」と大岡昇平は推測します。であれば、上陸したフランス水兵にもロア達が来ないという事情を話して、退去を促せば良かったはずです。

しかし、人間という生き物は、自分達に後ろめたい事がある時ほど、強硬な手段に出たがるものなのかもしれません。土佐藩士達は武装をし、堺の鳶職や同心達を援軍として集め、密かに旭茶屋の周囲に兵を配置します。箕浦は裏口から旭茶屋に侵入して2階と1階を固め、西村隊は旭茶屋から見て市街の方向にある栄橋のたもとの民家に抜刀隊を潜ませます。フランス水兵達は知らぬうちに包囲され、死地に追い込まれていたのです。

 

ロア達が踵を返した大和橋北詰から旭茶屋までの距離は2.4キロほど。わずかな距離ですが連絡を取る手段はなく、悲劇の時間が刻一刻と迫ります。

 

第二回へ)

 

堺事件を語り継ぐ会事務局
住所:堺市堺区材木町東4丁1-4 妙國寺内
電話:090-3844-7139(担当:呉竹、戒田)

 

灯台守かえる

関連記事

Remodal

Remodalテスト

Write something.


PAGETOP

remodal